M&Aの交渉が進むと、売り手と買い手の関心は、どうしても「いくらで売るのか」「いくらなら買えるのか」に集まっていきます。
価格が重要であることは、間違いありません。ただし、提示された金額だけを眺めていても、そのM&Aの経済条件を正しく評価することはできません。
同じ「1億円」という提示であっても、それが事業価値なのか株主価値なのか、借入金や現預金をどう扱うのか、全額がクロージング日に支払われるのか、将来の業績を条件とする部分があるのか。こうした前提の違いによって、売り手の受取額も、買い手の負担も変わってきます。
さらに、M&Aでは、DD前に示された価格がそのまま最終価格になるとは限りません。DDによって正常収益力、簿外債務、未払費用、運転資本、税務・法務リスクなどが確認されれば、価格、支払条件、スキーム、契約条件が見直されることもあります。
第8テーマでは、こうした価格と条件を、単なる交渉材料としてではなく、M&Aを実行してよいか判断するための一体的な経済条件として整理していきます。
このテーマで理解すること
第8テーマの目的は、会社や事業の「価値」を精密に計算できるようになることではありません。
理解していただきたいのは、算定額、提示価格、最終支払額、契約条件が、それぞれ異なる役割を担っており、それらがどのようにつながっているのか、という点です。
このテーマでは、次の順序で論点を整理します。
まず、価値と価格の違いを理解します。次に、事業価値、企業価値、株主価値という、価格交渉の共通言語を確認します。そのうえで、DCF法、類似会社比較法、純資産を基礎とする方法など、評価手法がM&A全体の中でどのような役割を持つのかを整理します。
その後、中小・中堅企業に特有の価格形成、ネットデットや運転資本による価格調整、分割払い・役員退職慰労金・アーンアウトといった支払条件へと進みます。そして最後に、それまで整理した前提を、基本合意、LOI、MOU、独占交渉へとつなげていきます。
つまり、第8テーマで扱うのは、単なる「会社の値段」ではありません。
何の価値を議論しているのか。その価値がどのように価格へ変わり、最終的に誰が、いつ、どの条件で、いくら支払うのか。 これを整理することが中心になります。
価値、価格、最終支払額は同じものではない
日本公認会計士協会の企業価値評価ガイドラインでは、価格を売り手と買い手の間で決定された値段、価値を評価対象会社から創出される経済的便益として区別しています。また、事業価値、企業価値、株主価値についても、それぞれ異なる概念として整理されています。
出典:日本公認会計士協会|企業価値評価ガイドライン
この区別は、理論上の用語整理にとどまるものではありません。
たとえば、買い手が「企業価値1億円」と提示しているのに対して、売り手が「株主が1億円を受け取れる」と理解していれば、有利子負債や現預金の扱いをめぐって認識がずれます。
また、株主価値として1億円に合意していたとしても、その全額がクロージング日に確定的に支払われるとは限りません。分割払い、アーンアウト、留保金、役員退職慰労金などが組み合わされれば、金額の確実性も、回収の時期も変わってきます。
M&Aの条件は、少なくとも次の流れで捉える必要があります。
価値の算定 → 交渉による価格形成 → 調整項目の反映 → 支払条件の設定 → 基本合意 → DDによる検証 → 最終契約での確定
この流れを飛ばして提示価格だけを比較してしまうと、売り手は実際の手取りや回収リスクを見誤り、買い手は必要資金や負担するリスクを過小評価するおそれがあります。
第8テーマで扱う7つの詳細コラム
第8テーマは、7つの詳細コラムで構成しています。
前半の8-1から8-4では、価値と価格を判断するための考え方を整理します。後半の8-5から8-7では、その考え方を、実際の価格条件、支払条件、基本合意へと接続していきます。
原則として、8-1から順番に読み進めていただくことで、価格判断に必要な共通言語を無理なく身に付けられる構成です。
8-1. M&Aにおける「価値」と「価格」の違い
最初に読んでいただきたいコラムです。
企業価値評価によって算定された金額と、売り手・買い手が最終的に合意する売買価格は、同じものではありません。価値は、評価目的、事業計画、立場、前提条件などによって異なり得ます。一方で価格は、当事者の交渉、競争環境、資金力、支払条件、成立可能性なども踏まえて決まっていきます。
このコラムでは、算定額を「正解」と考えるのではなく、それがどの前提に基づく判断材料なのかを読み解くための入口を整理します。
簡易査定、株価算定書、意向表明書などに記載された金額を、どこまで信頼してよいか迷っている方に適した内容です。
8-2. 事業価値・企業価値・株主価値を区別する
価格交渉における共通言語を整理するコラムです。
M&Aでは、「企業価値」「EV」「株式価値」「譲渡価格」といった言葉が飛び交います。しかし、当事者が異なる意味でこれらを使っていると、同じ金額を話しているように見えて、実際にはまったく異なる条件を想定していることがあります。
概念上、事業価値は事業から生み出される価値、企業価値は事業価値に非事業資産を加えた企業全体の価値、株主価値は企業価値から有利子負債等を控除して株主に帰属する価値として整理されます。実際の算定では、余剰現預金、役員貸借、リース債務、未払費用などをどう扱うかについても、確認が欠かせません。
提示された「1億円」が何を意味しているのか分からない方、EVと株式価値の違いを整理したい方は、このコラムから確認してください。
8-3. 評価手法をM&A全体設計の中で位置づける
評価手法を使い分けるための考え方を整理するコラムです。
企業価値評価では、将来の収益やキャッシュ・フローに着目するインカム・アプローチ、市場価格や類似企業・類似取引との比較を行うマーケット・アプローチ、資産・負債に着目するネットアセット・アプローチなどが用いられます。
ただし、どの方法にも、適用しやすい場面と限界があります。評価手法は、会社の規模、成長段階、事業計画の信頼性、類似企業の有無、保有資産、評価目的などを踏まえて選ぶものであり、常に一つの方法が優れているわけではありません。
このコラムでは、DCF法等の詳細な計算方法には踏み込みません。評価手法をM&Aの意思決定にどう使うか、という視点で整理していきます。
複数の評価結果が大きく異なっている方、算定方法の名称は聞いたことがあるものの使い分けが分からない方に適した内容です。
8-4. 中小M&Aにおける価格形成の考え方
中小・中堅企業の現実に即して、価格がどのように形成されるかを整理するコラムです。
中小M&Aでは、理論的な評価額だけで価格が決まるわけではありません。経営者への依存度、役員報酬の水準、主要顧客との関係、人材の定着、管理資料の整備状況、借入金、経営者保証、個人所有資産、引継ぎ期間。こうした要素も、買い手のリスク認識と実行可能性に影響します。
中小企業庁の中小M&Aガイドライン(第3版)でも、評価手法による算出額がそのまま譲渡額になるわけではなく、最終的には交渉を経て当事者が合意した金額が譲渡額になる、と整理されています。
出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)
「利益の何年分」といった簡易的な説明だけで価格を判断してよいか不安な方、自社の属人性や資料不足が価格にどう影響するのかを整理したい方に適した内容です。
8-5. 価格調整・ネットデット・運転資本を理解する
提示価格と最終支払額が変わる仕組みを整理するコラムです。
M&Aの価格は、最初に示された固定額だけで終わるとは限りません。現預金、借入金、役員貸借、未払費用、賞与引当、リース債務、正常運転資本などを基準として、最終的な支払額を調整することがあります。
この論点で重要なのは、計算式だけではありません。何をネットデットに含めるのか、正常な運転資本をどう設定するのか、どの時点の財務数値を使うのか。つまり、定義と基準日です。
価格調整は、財務DDで確認した数値と、最終契約に定める計算方法をつなぐ領域でもあります。
提示された価格から借入金等が控除される理由が分からない方、基本合意の前に価格調整の前提を確認しておきたい方に適した内容です。
8-6. 支払条件・分割払い・役員退職金・アーンアウトを整理する
価格以外の経済条件を整理するコラムです。
総額が同じであっても、一括払いと分割払いでは、売り手が負う回収リスクが異なります。アーンアウトが含まれていれば、将来業績の達成状況によって、実際の受取額が変動します。
役員退職慰労金を組み合わせる場合には、株式譲渡対価との関係、会社の資金繰り、決議手続、税務上の取扱いなどを、別途確認しなければなりません。
買い手にとっても、支払条件は資金調達、投資回収、売り手経営者の引継ぎ、業績悪化時のリスクに関係してきます。
「総額」だけで複数の提案を比較している方、売却後に確実に受け取れる金額を整理したい方、買収資金の支払時期を設計したい方に適した内容です。
8-7. 基本合意・LOI・MOU・独占交渉の位置づけ
第8テーマの総仕上げとなるコラムです。
基本合意は、最終契約ではありません。しかし、対象範囲、想定スキーム、価格前提、支払条件、DD、独占交渉、スケジュールなど、後工程の出発点を形づくるものです。
中小企業庁の中小M&Aガイドライン(第3版)では、当事者が概ね条件合意に達した段階で、スキーム、DD前の譲渡対価予定額、役員・従業員の処遇、最終契約までのスケジュール、条件の最終調整方法等を基本合意に盛り込むことが示されています。その後、DDで発見された事項や、基本合意で留保していた事項を再交渉し、最終契約へ進む流れです。
出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)
基本合意では、取引実行義務を非拘束としながら、秘密保持、独占交渉、費用負担など、一部の条項には拘束力を持たせる設計もあります。名称だけで判断せず、どの条項が当事者を拘束するのかを確認しておく必要があります。
LOIや基本合意への署名を求められている方、独占交渉を認めてよいか迷っている方、DD後の条件変更余地をどこまで残すべきか整理したい方に適した内容です。
推奨する読む順番
初めてM&Aの価格条件を整理される方には、次の順番をおすすめします。
8-1 → 8-2 → 8-3 → 8-4 → 8-5 → 8-6 → 8-7
この順番には、理由があります。
価値と価格の違いを理解しないまま評価手法へ進むと、算定額を絶対的な正解と誤解しやすくなります。事業価値、企業価値、株主価値を区別しないまま価格調整へ進めば、借入金や現預金をなぜ加減するのかが分かりません。
また、価格形成と価格調整を理解しないまま支払条件を比較すると、どうしても総額だけに目を奪われます。これらを整理しないまま基本合意に進んでしまえば、DD後にどの条件が変わり得るのか、何を暫定合意として残すのかを判断できません。
第8テーマは、前の記事を後の記事の前提として積み上げていく構成になっています。
現在の状況から読む記事を選ぶ
すべてを最初から読む時間がない場合には、いま直面している案件の状況から入口を選ぶこともできます。
算定額や提示価格が高いのか安いのか分からない
まず8-1で価値と価格の違いを確認し、8-2で、提示額が何の価値を示しているのかを整理してください。そのうえで、評価手法の前提が気になるようであれば、8-3へ進みます。
「純資産+利益数年分」と説明されたが、妥当性を判断できない
8-3と8-4が入口になります。
算式そのものよりも、その方法が自社の収益力、資産構成、成長性、属人性、引継ぎ条件を適切に表しているかどうか。ここを確認することが重要です。
提示価格と実際の受取額・支払額が一致しない
8-5で価格調整を確認し、8-6で支払時期と条件を整理してください。
金額の総額だけではなく、確定部分、変動部分、支払時期、回収可能性、買い手の支払原資まで、分けて見る必要があります。
意向表明書、LOI、基本合意への対応を求められている
8-7を先に確認したうえで、価格前提が曖昧であれば8-2と8-5へ、支払条件が複雑であれば8-6へ戻ってください。
意向表明書には、希望価格だけでなく、その価格が事業価値か株主価値か、評価手法、前提条件、資金調達方針などが記載されることもあります。
売り手は「受取額の確実性」まで確認する
売り手にとっての価格とは、株式譲渡契約書に記載される総額だけではありません。
確認すべきなのは、いつ、誰から、どの条件で、いくら受け取れるのか、という点です。
分割払いが含まれていれば、買い手の信用力や担保手段が問題になります。アーンアウトが含まれていれば、売却後の業績管理、会計方針、買い手の経営判断によって追加対価が左右されないかを確認しておく必要があります。
役員退職慰労金を組み合わせる場合には、株式譲渡対価と退職金を合算した見かけ上の総額だけを見るのではなく、それぞれの支払主体、決議、資金原資、税務上の取扱いを分けて整理します。
経営者保証の解除、個人所有不動産の取扱い、役員貸借の精算、引継ぎ期間中の報酬。これらも、売り手にとっては経済条件の一部です。
したがって、売り手側の判断では、「価格が最も高い相手」を選ぶのではなく、受取額の確実性、保証解除、引継ぎ負担、従業員・取引先への影響を含めて、条件全体を比較する必要があります。
買い手は「取得価格」ではなく「投資総額」を見る
買い手にとっても、株式譲渡価格だけを見ていればよいわけではありません。
買収後に返済・借換えが必要となる借入金、運転資金、設備投資、退職金、専門家費用、契約承諾費用、PMI費用。これらを含めると、実際の資金負担は株式取得価格を上回ることがあります。
また、売り手経営者の引継ぎが短ければ、買収後に追加人材や管理体制を整備する費用が生じるかもしれません。管理資料が不十分であれば、会計・業務システムの整備も必要になります。
買い手は、提示価格が評価レンジ内にあるかどうかだけでなく、次の点を説明できる状態にしておく必要があります。
その価格を支払っても投資目的を実現できるのか。
想定した収益とシナジーに無理はないか。
価格調整後の最終支払額はいくらか。
買収後に必要となる追加資金を含めても資金余力があるか。
DDで前提が崩れた場合、どの条件まで変更し、どこで撤退するのか。
価格は、投資判断の結論ではありません。投資仮説を数字に置き換えた、一要素です。
第8テーマで扱わないこと
第8テーマで扱うのは、価格と条件を経営判断に使うための全体像です。
DCF法のモデル作成、割引率、類似会社の選定、非上場株式の個別評価、PPAなど、バリュエーションの詳細は、別シリーズで扱います。
また、ネットデットや運転資本の詳細な計算、役員退職慰労金の個別税務、アーンアウトの会計処理、基本合意書やSPAの具体的な条文作成についても、このテーマでは深掘りしません。
第8テーマで目指すのは、専門計算や契約文案を自社だけで完成させることではありません。専門家へ確認すべき論点を把握し、提示された説明や条件を経営判断として評価できる状態になることです。
第8テーマの後に確認すべきこと
基本合意まで進んだ後は、第9テーマの「デューデリジェンス全体設計」へ進みます。
DDでは、基本合意時点の価格・スキーム・条件の前提が、対象会社の実態と一致しているかどうかを検証します。
その結果、正常収益力が想定と異なる、簿外債務がある、主要契約の承諾が必要である、許認可に問題がある。こうした事項が判明すれば、第10テーマで、価格、契約、スキーム、実行判断へ反映していきます。
さらに第11テーマでは、価格調整、支払時期、表明保証、補償、前提条件などを、最終契約へ落とし込みます。
第8テーマは、価格交渉の終点ではありません。
DDによる検証と、最終契約によるリスク配分へ進むための前提を整える領域です。
価格や基本合意の判断を、自社だけで抱え込まないために
M&Aの価格条件は、財務、税務、法務、資金調達、経営者保証、株主関係、成立後の運営が交差する領域です。
算定書の金額だけを確認しても、提示価格が何を前提としているのかは分かりません。基本合意書の法的文言だけを確認しても、その価格前提や支払条件が自社の目的に合っているかどうかは判断できません。
特に、次のような状態にあるときは、署名や条件確定の前に、論点を横断して整理しておくことが重要です。
提示価格が事業価値なのか株主価値なのか分からない。
ネットデットや運転資本の定義が明確でない。
役員退職慰労金を含めた総額だけが示されている。
分割払い・アーンアウトの回収可能性を評価できない。
DD後にどこまで条件変更されるのか分からない。
基本合意の独占交渉や法的拘束力が重い。
仲介者または相手方の説明だけで判断してよいか不安がある。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、M&Aの価値評価、価格前提、価格調整、支払条件、基本合意を、個別の数値や条項だけで見るのではなく、DD、最終契約、資金、税務、実行判断まで見据えて整理します。
提示された金額や基本合意を受け入れるべきか、結論を急ぐ前に。何が確定していて、何が未確定で、どの条件なら実行できるのか。そこを整理したい方は、お問い合わせページからご相談ください。
振り返り
| 確認する領域 | このテーマで押さえること | 対応する詳細コラム |
|---|---|---|
| 価値と価格 | 算定額と交渉で決まる売買価格は同じではない | 8-1 |
| 価値の共通言語 | 事業価値・企業価値・株主価値の違いを揃える | 8-2 |
| 評価手法 | 評価目的や対象会社の実態に応じて手法を位置づける | 8-3 |
| 中小M&Aの価格形成 | 収益力、純資産、属人性、保証、引継ぎ等を総合して見る | 8-4 |
| 最終支払額 | ネットデット、運転資本、現預金、未払費用等の調整を確認する | 8-5 |
| 支払条件 | 一括・分割、退職金、アーンアウト、返還条件、支払原資を確認する | 8-6 |
| DD前の合意 | 対象範囲、価格前提、スキーム、DD、独占交渉、拘束力を整理する | 8-7 |
| 推奨読書順 | 価値の理解から入り、価格条件を経て基本合意へ進む | 8-1 → 8-7 |
| 次の検討領域 | 基本合意の前提をDDで検証し、価格・契約・実行判断へ反映する | 第9・第10・第11テーマ |