IPO準備の現場では、「企業価値を高めたい」「想定時価総額をどの水準に置くか」「株価をどう考えるべきか」「投資家からどう評価されるのか」といった言葉が、日常的に飛び交います。
ただ、ここで使われる「価値」という言葉には、実務上かなりの幅があります。
それは事業価値なのか。企業価値なのか。株主価値なのか。株式価値なのか。それとも、投資家が実際に購入する価格のことなのか。
この区別が曖昧なまま準備を進めてしまうと、事業計画、資本政策、資金調達、ストック・オプション、VCとの交渉、上場時の公募・売出し、そしてIRでの説明が、どこかで噛み合わなくなっていきます。
IPOは、上場審査を通過するための手続にとどまるものではありません。資本市場に対して自社の成長可能性とリスクを説明し、投資家に自社株式を評価してもらうプロセスです。だからこそ、企業価値評価の基本概念を正しく整理しておくことが、準備のかなり早い段階から効いてきます。
本稿では、詳細な評価モデルや個別の評価額算定にまでは踏み込みません。まずはIPO準備の入口として、事業価値・企業価値・株主価値・株式価値・価格の違いを整理し、それぞれが経営判断とどう関わるのかを見ていきます。
IPO準備で「企業価値」の理解が重要になる理由
IPOを目指す会社にとって、企業価値は単なる理論上の数字ではありません。
資金調達を行うとき、投資家はその会社にいくらの価値を見込むかを考えます。ストック・オプションを発行する際には、株式価値や行使価格の妥当性が問われます。上場時には、公募価格、売出価格、想定時価総額、初値が注目を集めます。そして上場後は、株価、時価総額、PBR、PER、ROIC、資本コストといった指標を通じて、市場から継続的に評価され続けます。
つまり企業価値評価は、「上場直前に証券会社が考えるもの」ではないのです。
IPO準備会社にとっては、次のような場面で常に顔を出します。
- 事業計画を投資家に説明する場面
- VCや事業会社から出資を受ける場面
- 普通株式、優先株式、新株予約権を設計する場面
- ストック・オプションや株式報酬を設計する場面
- 公募・売出しの規模を検討する場面
- 上場後の資本コストや資本収益性を説明する場面
- M&Aや資本提携を検討する場面
とりわけ東京証券取引所は、プライム市場・スタンダード市場の上場会社に対して、資本コストや資本収益性を的確に把握し、取締役会で現状を分析・評価したうえで、改善に向けた計画を策定・開示すること、そして投資者との対話のなかで継続的に取組みをアップデートしていくことを求めています。
これは一見、上場後の会社だけの話に見えるかもしれません。けれども、IPOを目指す会社にとっても、上場後に求められる資本市場対応を、準備段階から意識しておく必要があることを示しています。
出典:日本取引所グループ|資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応(プライム・スタンダード市場)
まず区別すべきは「価値」と「価格」
企業価値評価で最初に切り分けておきたいのが、「価値」と「価格」の違いです。
価格とは、売り手と買い手の間で実際に決まった値段のことです。これに対して価値とは、一定の前提に基づいて、評価対象会社から生み出される経済的便益を見積もったものを指します。
日本公認会計士協会の企業価値評価ガイドラインでも、両者は明確に整理されています。価格が売り手と買い手の間で決定された値段であるのに対し、価値は評価対象会社から創出される経済的便益であり、評価目的、当事者の立場、経営権を取得するかどうかなどによって、一物多価になり得るものとされています。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号 企業価値評価ガイドライン
この違いは、IPO準備の場面で大きな意味を持ちます。
たとえば、ある会社の理論的な株主価値を一定の前提で算定したとしても、その金額がそのままIPO時の公募価格になるわけではありません。公募価格は、事業計画、類似会社の株価水準、投資家需要、市場環境、流動性、売出し株数、主幹事証券の判断など、さまざまな要素を踏まえて決まっていきます。
上場後の初値や時価総額も、同じように理論的価値そのものではありません。短期的な需給、市場センチメント、投資家の期待、公開株数、ロックアップ、成長ストーリーへの評価といった要因に左右されます。
ですから、IPO準備においては、「価値を高めること」と「価格を高くすること」を混同しないことが大切です。
一時的に高い価格がつくこと以上に、投資家が継続的に納得できる価値の説明ができること。上場後も資本市場と向き合い続ける会社にとっては、こちらのほうがはるかに重要なテーマになります。
事業価値とは何か
事業価値とは、会社が営む事業そのものから生み出される価値です。
もう少し実務に引き寄せて言えば、商品・サービス、顧客基盤、ビジネスモデル、組織、人材、技術、ブランド、販売網、オペレーションといった経営資源を使って、将来どれだけのキャッシュ・フローを生み出せるかに着目した価値だと言えます。
日本公認会計士協会の企業価値評価ガイドラインでも、事業価値は「事業から創出される価値」として整理されています。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号 企業価値評価ガイドライン
IPO準備で事業価値を見るときに、売上高や営業利益だけを眺めていては不十分です。
売上が伸びていても、利益率が低下していることはあります。営業利益が出ていても、運転資金が膨らんでキャッシュが残らないこともあります。短期的な利益は増えていても、研究開発、人材採用、広告投資、システム投資を抑えすぎて、将来の成長力をすり減らしている場合もあります。
事業価値を見るうえでは、少なくとも次のような観点が欠かせません。
- どの事業が将来のキャッシュ・フローを生み出すのか
- その成長は一時的なものか、それとも継続性があるものか
- 売上成長に対して、利益率や資本効率はどう変化していくのか
- 必要な人材、設備、システム、広告宣伝、研究開発投資は織り込まれているか
- 将来の成長に必要な運転資金や設備投資は見積もられているか
- その事業計画は、月次決算やKPIで検証できる状態になっているか
IPO準備で求められる成長ストーリーは、単なる将来予想ではありません。投資家が納得できる成長ストーリーとは、事業価値の源泉をきちんと説明でき、その裏付けとなる数字と管理体制が整っている状態を指します。
企業価値とは何か
企業価値とは、事業価値に加えて、事業以外の資産の価値も含めた、企業全体の価値です。
ここでいう事業以外の資産には、たとえば余剰資金、遊休不動産、投資有価証券、事業に直接使っていない資産などが含まれます。もっとも実際の評価では、その資産が本当に非事業資産なのか、事業運営に必要な資金ではないのか、売却の可能性はあるのか、税務への影響はどうかといった確認が必要になります。
企業価値評価ガイドラインでも、企業価値は「事業価値に加えて、事業以外の非事業資産の価値を含めた企業全体の価値」として整理されています。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号 企業価値評価ガイドライン
ここで気をつけたいのは、非事業資産を多く持っていれば、それだけで良い会社といえるわけではない、という点です。
現預金が潤沢であることは、財務安全性の面でプラスに働くこともあります。一方で、上場後の投資家から見れば、その資金を成長投資に使うのか、株主還元に回すのか、事業ポートフォリオを見直すのか、それとも何もせず滞留させておくのか、その判断が問われることになります。
資本市場で見られているのは、「資産が多い会社」かどうかではなく、「資本を使って価値を生み出している会社」かどうかです。
東証の要請でも、自社株買いや増配だけの一過性の対応ではなく、継続して資本コストを上回る資本収益性を達成し、持続的な成長を果たすための抜本的な取組みが期待されています。
出典:日本取引所グループ|資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応(プライム・スタンダード市場)
この視点は、IPO準備段階でも欠かせません。上場前から、事業に必要な資金、余剰資金、借入金、投資資産、成長投資の計画を整理しておかなければ、上場後の投資家対話で一貫した説明を貫くことが難しくなります。
株主価値とは何か
株主価値とは、企業価値から有利子負債等の他人資本を差し引いた、株主に帰属する価値です。
簡略化して表すと、次のような関係になります。
企業価値 − 有利子負債等 = 株主価値
ただし実務では、ここにさまざまな調整項目が入ってきます。現預金のうち事業に必要な資金と余剰資金をどう見るか、リース負債や優先株式をどう扱うか、少数株主持分、退職給付債務、未払税金、簿外債務、偶発債務をどう反映するか。個別の事情に応じた検討が必要になります。
企業価値評価ガイドラインでも、株主価値は「企業価値から有利子負債等の他人資本を差し引いた株主に帰属する価値」として整理されています。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号 企業価値評価ガイドライン
IPO準備では、この株主価値の理解が、そのまま資本政策に直結します。
なぜなら、最終的に投資家が買うのは「会社の事業そのもの」ではなく、「株式」だからです。
どれだけ事業価値が高くても、過大な有利子負債を抱えていれば、株主に帰属する価値は圧縮されます。反対に、財務内容が健全で、事業価値の増加がそのまま株主価値に反映されやすい構造であれば、株主にとって魅力的に映る可能性が高まります。
加えて、IPO準備会社では、普通株式だけでなく、優先株式、新株予約権、ストック・オプション、転換証券などが発行されていることがあります。この場合、会社全体の株主価値を把握するだけでは足りません。誰に、どの種類の株式として、どの権利で、どのように価値が帰属するのかまで整理しておく必要があります。
株式価値とは何か
株式価値とは、特定の株主が保有する、特定の株式の価値です。
企業価値評価ガイドラインでも、株式価値は、特定の株主が保有する普通株式または種類株式の価値として整理されています。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号 企業価値評価ガイドライン
この概念は、IPO準備会社では特に重みを持ちます。
未上場会社では、株式の種類や保有者の権利が、必ずしも単純ではありません。たとえばVCが優先株式を保有している場合、残余財産分配権、転換権、希薄化防止条項、みなし清算条項などにより、普通株式とは経済的な価値が異なってくることがあります。
ストック・オプションを発行していれば、将来行使されたときに株式数が増え、既存株主の持分が希薄化します。上場時に優先株式が普通株式へ転換される場合には、上場後の発行済株式数や1株当たり価値の見え方も変わってきます。
つまりIPO準備で必要なのは、「会社全体でいくらの価値があるか」を見るだけにとどまりません。
その価値が、普通株主、優先株主、ストック・オプション保有者、そして将来の新規株主に、どのように配分されていくのかを確認することです。
ここを曖昧にしたままにすると、資本政策表の上では問題がないように見えても、上場時の公募・売出し、投資家説明、既存株主との利害調整、役職員インセンティブの設計といった場面で、矛盾が表面化してしまいます。
時価総額と企業価値は同じではない
IPOや上場後の報道では、「時価総額」という言葉がよく登場します。
時価総額は、一般的には株価に発行済株式数を乗じて算定される、市場上の株式価値です。上場会社であれば、市場で形成された株価をもとに日々変動します。
しかし、時価総額と企業価値は同じものではありません。
時価総額は、株主に帰属する価値、すなわち株主価値に近い概念です。一方の企業価値は、株主だけでなく債権者等に帰属する部分も含んだ、企業全体の価値を指します。
実務上、EVという言葉が使われる場合には、株式時価総額に有利子負債等を加え、現預金等を控除する形で企業価値を捉えることがあります。これは、M&Aや類似会社比較の場面でよく用いられる考え方です。
ただし、ここでも注意が要ります。
「企業価値」という言葉は、文脈によって使われ方が変わります。会計・評価実務上の企業価値、M&A実務で使われるEV、証券会社のピッチ資料で使われる想定時価総額、投資家が見るマーケットキャップ。これらは、それぞれ意味が異なります。
だからこそIPO準備では、関係者の間でこの言葉の意味を揃えておくことが重要になります。
経営者、CFO、経理、主幹事証券、監査法人、VC、弁護士、税理士が、同じ「企業価値」という言葉を口にしていても、実際には違う概念を指している、ということが起こり得ます。その状態のまま議論を進めると、資本政策や評価額の前提が、知らぬ間にずれていってしまうのです。
IPO価格は「価値」そのものではない
IPO準備で特に混同されやすいのが、企業価値評価とIPO価格形成です。
企業価値評価は、一定の前提に基づいて理論的な価値を算定する作業です。これに対してIPO価格は、資本市場で新たに株式を販売する際の価格です。
IPO価格には、評価理論だけでなく、市場環境、投資家需要、類似会社の株価水準、公開株数、成長ストーリーへの期待、主幹事証券の販売戦略といった要素が影響します。
ですから、企業価値評価で一定のレンジが算定されたとしても、それがそのまま公募価格になるわけではありません。初値が公募価格を上回ったからといって、企業価値評価が正しかったと断言できるわけでもありません。逆に、初値が伸びなかったからといって、その会社の本源的な価値が低いと即座に結論づけられるものでもないのです。
ここで大切なのは、IPO価格を一時点の結果として眺めるだけでなく、上場後も説明できる成長戦略と数字を整えておくことです。
上場直後に高い評価を得たとしても、その後の業績、KPI、資金使途、投資計画、開示姿勢が伴わなければ、市場からの信頼は長続きしません。反対に、上場時の評価が保守的であっても、上場後に計画を着実に実行し、投資家との対話を積み重ねていくことで、長期的な企業価値評価が高まっていくこともあります。
企業価値は会計上の利益だけでは決まらない
IPO準備では、営業利益や経常利益に注目が集まります。もちろん、利益は重要です。監査に耐える会計処理、月次決算、予実管理、会計方針の整備ができていなければ、そもそも投資家に説明できる数字にはなりません。
ただし、企業価値は会計上の利益だけで決まるものではありません。
企業価値を見るうえでは、利益がどの程度キャッシュ・フローにつながっているか、成長に必要な投資がどれだけ求められるか、資本コストを上回るリターンを生んでいるか、事業リスクをどう管理しているか、といった点が問われます。
たとえば、売上も利益も伸びている会社であっても、売掛金や在庫が急増し、キャッシュが慢性的に不足しているのであれば、事業価値の見方はおのずと慎重になります。利益率が高く見えても、将来必要な人材投資やシステム投資を織り込んでいなければ、計画の実現可能性に疑問符がつきます。
また、短期的な利益を増やそうとして、広告宣伝、研究開発、人材採用、内部管理体制への投資を削れば、一時的には利益が良く見えるかもしれません。しかし、それが将来の成長力を損なうのであれば、長期的な企業価値の向上にはつながらないのです。
IPOを目指す会社に求められているのは、単に「利益が出ている会社」になることではありません。「なぜその利益が生まれているのか」「今後も持続するのか」「成長投資と資本効率をどう両立させるのか」を、自らの言葉で説明できる会社になることです。
事業計画は事業価値の出発点になる
事業価値を考えるうえで、事業計画は重要な出発点になります。
DCF法のように将来キャッシュ・フローを基礎とする評価手法では、将来の売上、利益、投資、運転資金、税金、キャッシュ・フローの見通しが、評価に大きく影響します。
とはいえ、事業計画は作ればよいというものではありません。
企業価値評価ガイドラインでも、将来予測数値については、不確定要素が多く、予測された結果と実際の結果が相違することは頻繁に起こり得るとされています。そのうえで、数値予想の前提条件、予測過程、社内承認、外部公表、過去実績や信頼できる外部情報との整合性などを検討・分析し、非常識・非現実的な将来情報を無批判に受け入れないことが重要だとされています。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号 企業価値評価ガイドライン
この指摘は、IPO準備会社にとって、きわめて実務的です。
投資家は、事業計画の数字だけを見ているわけではありません。その前提を見ています。
- 市場規模の見方は合理的か
- 売上成長のドライバーを説明できるか
- 単価、数量、解約率、継続率、顧客獲得コストといったKPIと整合しているか
- 人員計画や採用計画と、売上計画はつながっているか
- 設備投資やシステム投資は織り込まれているか
- 資金繰りと調達計画は整合しているか
- 月次で予実差異を検証できる体制があるか
事業計画が「希望的な売上目標」にとどまっている場合、事業価値の説明はどうしても弱くなります。反対に、事業計画が仮説、KPI、投資、資金、リスクまで一本の線でつながっていれば、投資家との対話に耐えやすくなります。
資本政策は株主価値の配分を決める
企業価値や株主価値を高めることと、それを誰にどう配分するかは、別の問題です。
ここで鍵を握るのが、資本政策です。
同じ株主価値であっても、発行済株式数、潜在株式数、優先株式の条件、ストック・オプションの発行量、創業者持分、VC持分、従業員持分によって、1株当たりの価値や、既存株主への帰属額は変わってきます。
たとえば、会社全体としては大きく成長していても、資金調達を重ねる過程で創業者持分が大きく希薄化していることがあります。ストック・オプションを発行しすぎて、上場時の潜在株式比率が高くなってしまっているケースもあります。優先株式の権利設計によって、M&A時とIPO時とで株主間の利害が大きく変わることもあります。
ですからIPO準備では、企業価値評価と資本政策を切り離して考えることはできません。
企業価値を高める事業戦略。株主価値を毀損しない財務戦略。価値の配分を整理する資本政策。従業員のインセンティブを設計する株式報酬。投資家に説明するIR・開示体制。
これらを、一体のものとして整理していく必要があります。
資本政策は、単に「何株発行するか」という作業ではありません。将来の企業価値を、誰と、どの条件で、どのように分け合うのかを決める、経営判断そのものなのです。
非事業資産と有利子負債を見落とすと、議論がずれる
企業価値、事業価値、株主価値の違いを理解するうえで、実務上しばしば問題になるのが、非事業資産と有利子負債の扱いです。
たとえば、事業そのものは高く評価されていても、多額の借入金があれば、株主に帰属する価値は圧縮されます。反対に、事業に直接使っていない余剰資金や投資有価証券があれば、企業価値に加算されることがあります。
ただし、どこまでを余剰資金と見るかは、慎重な判断が求められます。
成長投資に必要な資金、運転資金、借入返済資金、上場準備費用、採用・広告投資のための資金まで余剰資金と見てしまえば、実態とずれていきます。一方で、明らかに事業に使われていない資産を放置したまま、資本効率を説明できなければ、投資家からは資本配分の考え方そのものを問われることになります。
IPO準備会社は、次のような整理を早い段階で済ませておくべきです。
- 事業運営に必要な現預金はいくらか
- 余剰資金といえる部分はあるか
- 遊休資産や投資有価証券はあるか
- 有利子負債の返済計画はどうなっているか
- 借入金、リース、保証債務、偶発債務は評価にどう影響するか
- 調達資金の使途とバランスシートの方針を説明できるか
この整理ができていないと、企業価値と株主価値の議論はたちまち混乱します。とりわけ、上場時の想定時価総額や公募・売出しを検討する局面では、事業価値、純有利子負債、余剰資金、潜在株式を、一体として見ていく必要があります。
「高い評価額」が常に良いとは限らない
IPO準備会社では、高い評価額を得ることが、まるで目標であるかのように語られることがあります。
もちろん、企業価値が高く評価されること自体には、大きな意味があります。資金調達時の希薄化を抑えやすくなりますし、従業員や投資家に対して成長期待を示しやすくなる面もあります。
しかし、高い評価額には、相応の責任も伴います。
未上場段階で高い評価額をつけて資金調達を行えば、その後の事業計画の達成に対する期待値も、同じだけ上がります。次回ラウンドやIPO時にその評価を上回る説明ができなければ、ダウンラウンド、上場時評価の引下げ、投資家との関係悪化につながりかねません。
また、高い評価額を前提にストック・オプションや株式報酬を設計すると、役職員にとって将来の経済的メリットが見えにくくなる場合もあります。上場時に公募価格が期待より低くなれば、既存株主や役職員の納得感にも影響します。
企業価値評価業務そのものにも、限界があります。日本公認会計士協会の企業価値評価ガイドラインでは、評価法の選定にあたり、評価目的、評価対象会社の状況、その他各種の状況を加味して決定し、その根拠を明確にする必要があるとされています。あわせて、評価業務は信頼性の保証や意見の表明ではない旨を、報告書に記載することも求められています。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号 企業価値評価ガイドライン
IPO準備で本当に大切なのは、評価額を高く見せることではありません。
なぜその価値になるのか。その前提は合理的か。事業計画で検証できるか。資本政策と整合しているか。投資家に継続的に説明できるか。
こうした問いに耐えられる状態をつくっておくことです。
IPO準備会社が確認すべき価値概念の整理
IPO準備の実務では、まず社内で、次のような整理をしておくことが重要です。
1. 今議論しているのは「事業価値」か「企業価値」か
事業そのものの価値を見ているのか、それとも非事業資産も含めた会社全体の価値を見ているのかを確認します。
事業計画の議論では事業価値が中心になります。一方、資金調達、M&A、上場時評価では、企業価値全体の調整が必要になります。
2. 「企業価値」から「株主価値」への調整項目は何か
有利子負債、現預金、余剰資金、リース、少数株主持分、優先株式、偶発債務など、株主に帰属する価値を考えるうえで調整すべき項目を確認します。
ここを整理しないまま評価額だけを議論すると、会社全体の価値と、株主に帰属する価値とが混同されてしまいます。
3. 株主価値をどの株式にどう配分するのか
普通株式、優先株式、新株予約権、ストック・オプションなどがある場合、株主価値がどの証券にどのように帰属するのかを確認します。
これは、資本政策、株式報酬、投資契約、上場時の権利整理に直結します。
4. 1株当たりの価値はどの株式数を使っているのか
発行済株式数だけで見るのか、それとも潜在株式を含めた完全希薄化後株式数で見るのかによって、1株当たり価値は変わります。
IPO準備では、ストック・オプションや新株予約権の影響まで含めて、投資家に説明できる状態にしておく必要があります。
5. 価値と価格を分けて説明できるか
算定された価値と、実際の取引価格、公募価格、売出価格、初値、時価総額とは、異なるものです。
価値は理論的な判断材料であり、価格は市場や当事者間で形成される結果です。この違いを理解していないと、資金調達交渉やIPO価格形成の場面で、誤解が生じやすくなります。
企業価値を高めるには、数字を説明できる会社になる必要がある
IPO準備における企業価値の向上は、単に将来の売上を大きく見せることではありません。
事業価値を高めるには、事業の成長可能性を示す必要があります。企業価値を高めるには、事業価値に加えて、資産・負債・資本効率を説明する必要があります。株主価値を高めるには、資本構成や希薄化を踏まえ、株主に帰属する価値を意識する必要があります。株式価値を説明するには、株式の種類、権利、潜在株式、株主間の利害を整理する必要があります。
そのためには、月次決算、予実管理、KPI管理、資金繰り、会計方針、内部統制、開示体制が欠かせません。
企業価値評価は、評価モデルだけで完結するものではありません。評価モデルに入っていく数字の前提が、会社の実態とつながっているかが問われるのです。
売上計画は営業現場とつながっているか。利益計画は原価・人件費・固定費の見通しとつながっているか。投資計画は資金繰りとつながっているか。資本政策は成長資金と株主構成に整合しているか。ストック・オプションは人材戦略と希薄化に整合しているか。開示資料は月次決算や内部管理体制に裏付けられているか。
ここまで整って、はじめて企業価値の説明に、実務的な説得力が宿ります。
まとめ|IPO準備では「価値の言葉」を揃えることから始める
IPO準備には、多くの専門家や関係者が関わります。経営者、CFO、経理、主幹事証券、監査法人、VC、弁護士、税理士、社労士、証券代行、印刷会社。それぞれが、それぞれの立場で「企業価値」「株価」「時価総額」「評価額」という言葉を使います。
だからこそ、最初に概念を揃えておくことが大切なのです。
事業価値は、事業から生まれる価値。企業価値は、事業価値に非事業資産を含めた会社全体の価値。株主価値は、企業価値から有利子負債等を差し引いた、株主に帰属する価値。株式価値は、特定の株主が保有する特定の株式の価値。そして価格は、実際の取引や市場で決まる値段。
この整理ができていない会社は、事業計画、資本政策、IPO価格形成、IRの説明が、どうしてもぶれやすくなります。
反対に、この整理ができている会社は、自社の成長戦略、資金調達、株主構成、管理体制、投資家説明を、一体として考えやすくなります。
IPOを目指すうえで本当に大切なのは、単に高い評価額を得ることではありません。なぜその価値が生まれるのかを、数字と事実に基づいて説明できる会社になることです。
IPO準備・資本政策・企業価値評価に関するご相談について
企業価値・事業価値・株主価値の整理は、IPO準備の一部にすぎません。
実際には、事業計画、資本政策、株主構成、ストック・オプション、VCとの投資契約、月次決算、会計方針、監査法人対応、内部統制、開示体制までを含めて、整合させていく必要があります。
とりわけ、すでに外部株主が入っている場合、優先株式や新株予約権を発行している場合、今後の資金調達やIPOを見据えている場合には、早い段階で価値概念と資本政策を整理しておくことが重要になります。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、IPOを単なる上場手続としてではなく、成長戦略・資本政策・管理体制・投資家説明を接続する経営課題として捉え、数字と事実に基づいた論点整理を支援しています。
自社の企業価値、資本政策、IPO準備上の課題を一度整理しておきたいという場合は、お問い合わせページよりお気軽にご相談ください。
本記事の振り返り
| 論点 | 押さえるべきポイント |
|---|---|
| 価値と価格 | 価値は一定の前提に基づく経済的便益の見積り、価格は実際に決まった値段。IPO価格や初値は、価値そのものではない。 |
| 事業価値 | 事業から創出される価値。売上や利益だけでなく、将来キャッシュ・フロー、成長投資、KPI、資金需要まで見る必要がある。 |
| 企業価値 | 事業価値に非事業資産の価値を加えた、会社全体の価値。余剰資金や遊休資産の扱いには慎重な判断が求められる。 |
| 株主価値 | 企業価値から有利子負債等を差し引いた、株主に帰属する価値。財務構造や純有利子負債の影響を受ける。 |
| 株式価値 | 特定の株主が保有する特定の株式の価値。普通株式、優先株式、新株予約権、ストック・オプションの権利差に注意する。 |
| 時価総額 | 株価に株式数を乗じた、市場上の株式価値。企業価値や事業価値とは異なる。 |
| 事業計画との関係 | 事業価値の出発点は事業計画。計画の前提、KPI、月次検証、資金計画との整合性が問われる。 |
| 資本政策との関係 | 株主価値を誰にどう配分するかを決めるのが資本政策。希薄化、優先株式、SO、上場時の権利整理に影響する。 |
| IPO準備での重要性 | IPOでは、価値を高く見せること以上に、なぜその価値が生まれるのかを投資家に説明できることが重要。 |
| 専門家相談が必要な場面 | 外部株主、優先株式、SO、資金調達、M&A、IPO価格形成が絡む場合は、会計・税務・法務・資本政策を横断して整理する必要がある。 |