中小企業のM&Aで最も関心を集めやすい論点の一つが、「いくらで売れるのか」「いくらで買うべきなのか」という価格です。
売り手にとっては、これまで育ててきた会社の価値をどのように評価してもらえるのかが大きな関心事になります。一方で買い手にとっては、その価格を支払っても投資として回収できるのか、買収後の資金繰りや管理負荷に耐えられるのかが重要になります。
しかし、M&Aの価格は、決算書の純資産に単純な倍率を掛ければ決まるものではありません。評価専門家が算定した金額が、そのまま最終価格になるわけでもないのです。実際の価格は、評価方法、収益力、純資産、資産負債の実態、リスク、シナジー、交渉条件、スキーム、税務、契約条件、そしてPMIの負荷が幾重にも重なり合って決まります。
特に中小・中堅企業では、次のような事情が価格に大きく影響します。
- 月次決算の精度が十分でない
- 役員報酬や親族給与、オーナー関連取引が損益に含まれている
- 売掛金や在庫の実態が決算書から読み取りにくい
- 簿価と時価が大きく異なる資産がある
- 借入金、保証、役員貸付金、未払税金、社会保険、簿外債務の確認が必要
- 経営者個人に依存した売上や取引関係がある
- 将来計画が感覚的で、数字の裏付けが弱い
- 買収後のPMIに必要なコストや時間が見えていない
つまり、M&Aの価格を考えるということは、単なる「株価計算」ではありません。会社の本当の収益力、資金構造、リスク、将来性、そして説明可能性を整理していく経営判断そのものなのです。
本記事では、一般的な中小・中堅企業を対象に、中小M&Aにおける企業価値評価と価格の考え方を整理していきます。なお、医療法人・医療機関に固有のM&A、医療制度、診療報酬、医療法人税務などの論点は扱いません。
中小企業庁は2024年8月に「中小M&Aガイドライン(第3版)」を公表し、その参考資料として「中小M&Aの譲渡額の算定方法」も示しています。私自身が実務で意識しているのも、評価手法はあくまで企業の実態や事業特性に応じて選ばれるべきものであり、算定された金額が当然に最終価格になるわけではない、という点です。
出典:経済産業省|「中小M&Aガイドライン」を改訂しました
出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン
企業価値評価は「答え」ではなく、交渉と判断のための土台である
M&Aの評価でまず理解しておきたいのは、評価額と価格は同じではない、という点です。
評価額は、一定の前提と評価手法に基づいて算定された金額にすぎません。これに対して価格は、売り手と買い手が最終的に合意した取引金額です。評価額は価格交渉の重要な材料にはなりますが、そのまま価格になるとは限りません。
なぜなら、M&Aは一方的な理論計算ではなく、売り手と買い手の間で行われる実際の取引だからです。売り手には希望価格があり、買い手には投資回収可能額があります。金融機関は返済可能性という視点から案件を見ますし、税務上は、著しく不合理な価格でないかという確認が必要になる場合もあります。さらに契約上は、簿外債務や価格調整、表明保証、補償の扱いも関わってきます。
したがって、M&A価格は評価方法だけで決まるものではなく、次のような要素を踏まえて決まっていきます。
- 会社の収益力
- 貸借対照表上の純資産と実態純資産
- 事業に必要な運転資本
- 有利子負債と現預金
- 不要資産、非事業用資産
- 滞留債権、滞留在庫、未払債務、偶発債務
- 将来キャッシュ・フロー
- 買い手が見込むシナジー
- 経営者・従業員・取引先の継続性
- スキームと税務負担
- クロージングまでの価値変動
- DDで判明したリスク
- 売り手・買い手双方の交渉力
- M&A成立後のPMIコスト
実務では、簿価純資産法、時価純資産法、類似会社比較法などで算定した株式価値・事業価値をもとに譲渡額を交渉するケースが多く見られます。ただし、算出された金額がそのまま譲渡額になるわけではなく、DD後に譲渡額が調整されることも珍しくありません。
このあたりを理解しておかないと、売り手は「評価額より安く買いたたかれた」と感じ、買い手は「理論価格だから高くても仕方がない」と誤解してしまいます。
必要なのは、評価額を絶対視することではありません。なぜその金額になるのか、どの前提が変われば価格が変わるのかを、自分の言葉で説明できる状態にしておくことです。
まず「企業価値」と「株式価値」を分けて考える
M&Aの価格を理解するためには、「企業価値」と「株式価値」を分けて考える必要があります。この区別が曖昧なままだと、買収価格の議論はどうしても混乱してしまいます。
企業価値とは何か
企業価値とは、事業全体の価値です。一般的には、株主だけでなく、金融機関などの債権者も含めた資金提供者全体に帰属する価値と考えます。
たとえば、ある会社が毎年安定して利益とキャッシュ・フローを生んでいるとすれば、その事業には確かに価値があります。ただし、この事業価値は株主だけのものではありません。会社が借入金で資金調達していれば、金融機関への返済も必要だからです。
そのため企業価値は、事業が生み出す価値全体を表す概念だと理解しておくとよいでしょう。実務上は、DCF法やEBITDA倍率法などで企業価値を算定し、そこから有利子負債等を差し引き、現預金等を加味して株式価値を求めることがあります。財務DDの場面でも、典型的な買収価格の構成要素として、事業価値、ネットデット、運転資本調整、その他価格調整を分けて整理していきます。
株式価値とは何か
株式価値とは、株主に帰属する価値です。株式譲渡で会社を買収する場合、買い手が売り手株主に支払う対価の基礎になります。
概念的には、次のように整理できます。
企業価値
+ 非事業用資産、余剰現預金等
- 有利子負債、デットライクアイテム等
= 株式価値
もちろん、実務はこれほど単純ではありません。最低必要現預金をどう見るか、役員貸付金をどう扱うか、退職給付債務やリース債務を負債類似項目として扱うか、未払税金や偶発債務をどこまで価格に反映するか——こうした判断が一つひとつ必要になります。
ここで押さえておきたいのは、「会社全体の価値」と「株主に支払う価値」は異なる、ということです。借入金が多い会社では、事業価値が高くても株式価値は低くなることがあります。逆に、借入が少なく、現預金や非事業用資産が多い会社では、事業価値に比べて株式価値が高くなることもあるのです。
価格は「株式価値」からさらに調整されることがある
株式価値を算定しても、それがそのまま最終支払額になるとは限りません。
M&Aでは、評価基準日からクロージング日まで一定の時間が空きます。その間にも、現預金、借入、運転資本、利益、配当、役員貸付、設備投資、在庫、売掛金は動いていきます。
そのため契約上、次のような価格調整を設けることがあります。
- ネットデット調整
- 運転資本調整
- 現預金調整
- 役員貸付金・役員借入金の精算
- 未払税金・社会保険等の調整
- 滞留債権・滞留在庫の調整
- 設備投資・修繕費の負担調整
- 簿外債務、偶発債務への対応
- クロージング前配当や資金流出の制限
買収価格は、事業価値から譲渡日のネットデットを控除し、デットライクアイテムや基準運転資本調整等を加減算して算定されることがあります。価格調整条項、表明保証条項、クロージングの前提条件は、財務DDで検出されたリスクを契約上どう軽減するかという観点からも重要になります。
特に中小企業では、決算書の上では見えにくい債務や、実態として回収が難しい資産が価格に影響します。たとえば、売掛金の中に長期滞留債権があれば、貸借対照表上は資産に見えても、実際には回収できない可能性があります。在庫に長期滞留品や陳腐化品が含まれていれば、簿価どおりの価値はないかもしれません。未払残業代、未払社会保険、未払税金、訴訟、保証債務、原状回復義務などがあれば、いずれも将来のキャッシュアウトにつながります。
財務DDで発見された純資産調整項目は、時価純資産法だけでなく、DCF法や乗数法にも影響し得ます。将来のキャッシュアウトにつながるものはDCFの価値に影響しますし、運転資本の回収可能性が低い場合にはFCF算定上の調整も必要になります。
つまりM&A価格を考えるときには、「評価額はいくらか」だけでなく、「その評価額に含まれている前提は正しいか」までを確認しておく必要があるのです。
中小M&Aでよく使われる評価方法
中小M&Aで使われる主な評価方法には、次のようなものがあります。
- 簿価純資産法
- 時価純資産法
- 年買法、年倍法、時価純資産+営業権方式
- 類似会社比較法、マルチプル法
- DCF法
- 類似取引比較法
どの方法が常に正しい、というものではありません。会社の規模、業種、収益の安定性、資産の内容、成長性、買い手の目的、資料の信頼性によって、適した方法は変わってきます。
実務上は、時価純資産法、類似会社比較法、DCF法などの理論的手法がある一方で、スモールM&Aでは時価純資産に営業権を加算する年倍法が用いられることもあります。ただし、いずれの手法にも限界がありますので、算定結果をそのまま価格として受け入れるのではなく、前提と実態を確認する姿勢が欠かせません。
ここからは、主要な評価方法を一つずつ整理していきます。
簿価純資産法|簡便だが、実態価値を表しているとは限らない
簿価純資産法は、貸借対照表上の資産から負債を差し引いた純資産を基礎に、株式価値を考える方法です。計算は比較的簡単です。
しかし、M&A価格の判断としては限界があります。貸借対照表の簿価は、必ずしも実態価値を示しているわけではないからです。
たとえば、次のような場合があります。
- 土地の簿価が大きく、古い取得価額のままになっている
- 建物や設備の簿価が、実際の売却価値より高い
- 売掛金に回収不能債権が含まれている
- 在庫に陳腐化品、滞留品、不良品が含まれている
- 役員貸付金の回収可能性が低い
- 保険積立金、投資有価証券、関係会社株式の時価が簿価と異なる
- 未払税金、未払社会保険、退職給付、保証債務などが十分に反映されていない
- のれん、顧客基盤、ブランド、技術、人材、営業力が貸借対照表に反映されていない
簿価純資産法は、資料が限られる初期段階の目安としては使いやすい方法です。ただ、それをそのまま会社の価値と考えるのは危険です。
特に、長く続いてきた中小企業では、貸借対照表に過去の処理や経営者個人との取引が残っていることがあります。簿価純資産法を使う場合でも、どの資産・負債に実態修正が必要かを確認しておくことが大切です。
時価純資産法|実態資産負債を把握する基本だが、収益力を十分に表さない
時価純資産法は、貸借対照表上の資産・負債を時価または実態価値に修正したうえで、純資産を算定する方法です。
中小M&Aでは比較的よく使われます。売り手・買い手の双方にとって理解しやすく、資産負債の実態を価格に反映しやすいからです。
時価純資産法で確認すべき主な項目は、次のとおりです。
資産側の確認
- 現預金の実在性
- 売掛金の回収可能性
- 貸倒引当金の十分性
- 在庫の実在性、評価、滞留状況
- 前払費用、仮払金、立替金の実態
- 役員貸付金の回収可能性
- 固定資産の時価、使用状況、遊休資産
- 土地建物の含み損益
- 投資有価証券、関係会社株式の評価
- 保険積立金、差入保証金の回収可能性
- ソフトウェア、無形資産の実態
- 非事業用資産の有無
負債側の確認
- 買掛金、未払金の網羅性
- 未払税金、未払消費税、源泉所得税
- 未払社会保険料
- 賞与引当、退職給付、未払残業代
- 借入金、リース債務
- 役員借入金
- 保証債務
- 訴訟、クレーム、製品保証、返品、解約違約金
- 原状回復義務
- 簿外債務、偶発債務
時価純資産法は、会社の「現在の財産状態」を把握するうえで有効です。特に、資産保有型の会社、不動産を多く持つ会社、在庫や設備が重要な会社、収益力が不安定な会社では、その重要性が高くなります。
一方で、この方法には限界もあります。会社の将来収益力を十分に反映しにくいという点です。
たとえば、利益率が高く、安定した顧客基盤を持ち、経営者交代後も収益が続く会社であれば、純資産以上の価値があるかもしれません。逆に、純資産は大きくても、利益が出ておらず、設備更新や人材不足の問題を抱える会社であれば、純資産額ほどの価値を買い手が認めないこともあります。
時価純資産法は重要ですが、それだけで価格を決めるのではなく、収益力や将来キャッシュ・フローと組み合わせて見ていく必要があります。
年買法・年倍法|中小M&Aで使われやすいが、根拠の説明が重要
中小M&Aでは、「時価純資産+営業利益の何年分」「時価純資産+経常利益の何年分」といった考え方が使われることがあります。実務上は、年買法、年倍法、時価純資産+営業権方式などと呼ばれます。
たとえば、次のような考え方です。
時価純資産
+ 正常営業利益 × 2年〜5年
= 株式価値の目安
この方法には、売り手・買い手にとって理解しやすいという利点があります。ただし、理論的に厳密な方法ではありません。
難しいのは、「何年分を加算するのか」「どの利益を使うのか」「その利益は正常収益力なのか」が曖昧になりやすい点です。営業利益を使うのか、経常利益を使うのか、あるいは税引後利益やEBITDAを使うのか。役員報酬の調整後利益なのか、一過性損益を除いた利益なのか。さらに言えば、買収後に経営者が退任しても維持できる利益なのか——。
こうした点を確認しないまま、単に「利益3年分」としてしまうと、価格の根拠が不明確になってしまいます。
年倍法は、算定がシンプルでスモールM&Aでも広く利用される一方、理論的妥当性には限界があります。利用する利益の種類や倍率に一貫性がなく、業界、過年度業績、将来性、交渉結果によって変わる点には注意が必要です。
年買法を使うのであれば、少なくとも次の点は整理しておくべきです。
- 何の利益を使うのか
- その利益は一過性要因を除いた正常利益か
- 役員報酬、親族給与、家賃、保険料などを調整するか
- 買収後も継続する利益か
- 経営者退任後の減収リスクを見込むか
- 顧客集中リスクをどう見るか
- 設備投資や運転資金を考慮しているか
- 倍率の根拠は何か
- 買い手の投資回収期間と整合しているか
中小M&Aでは、分かりやすさも大切な要素です。ただ、分かりやすい方法ほど、その前提の曖昧さに注意を払う必要があります。
類似会社比較法・マルチプル法|市場の目線を使うが、比較対象の選び方が難しい
類似会社比較法は、対象会社と似た上場会社や類似取引の倍率を参考に、企業価値を算定する方法です。代表的な指標として、EV/EBITDA倍率があります。
EVは企業価値、EBITDAは営業利益に減価償却費を加えた利益概念です。EBITDAは、設備投資や償却方法、借入構造、税金の影響を一部除いた収益力を見るために使われます。
概念的には、次のように考えます。
対象会社のEBITDA
× 類似会社のEV/EBITDA倍率
= 対象会社の企業価値
そこからネットデット等を調整して、株式価値を求めていきます。財務DDの場面でも、乗数法では売上高乗数、EBITDA乗数、純資産乗数などを使い、ターゲットの財務数値に倍率を乗じて企業価値を算定し、現金等と有利子負債等を調整して株主価値を求めるという考え方が用いられます。
この方法の利点は、市場や類似取引の目線を反映できる点です。ただし、中小企業にそのまま適用するには注意が必要です。
上場会社と中小企業では、次の点が異なるからです。
- 規模
- 資金調達力
- 経営者依存度
- 管理体制
- 情報開示水準
- 顧客分散
- 人材層
- 成長余地
- 流動性
- ガバナンス
- 買収後の統合負荷
上場会社の倍率をそのまま中小企業に当てはめると、過大評価になることがあります。中小企業には、非流動性ディスカウント、規模リスク、経営者依存リスク、情報の不確実性があるためです。
また、類似会社をどう選ぶかも難しい問題です。業種が同じでも、顧客層、地域、利益率、成長性、設備負担、ビジネスモデルが違えば、倍率は参考になりにくくなります。類似取引の情報も、非公開案件では十分に取得できないことがあります。
したがって、類似会社比較法は有用ではあるものの、「倍率を掛ければ終わり」ではありません。比較対象の妥当性、対象会社との差異、リスク調整、正常EBITDAの算定が、いずれも重要になります。
DCF法|将来キャッシュ・フローを重視するが、計画の信頼性が問われる
DCF法は、将来のフリーキャッシュ・フローを現在価値に割り引いて企業価値を算定する方法です。理論的には、事業の将来価値を評価する方法として重要です。
特に、成長性がある会社、将来の投資回収を重視する案件、買い手が中長期の事業計画を持っている案件では、有用な方法といえます。
DCF法では、一般的に次の要素を考えます。
- 売上計画
- 粗利率
- 固定費
- 営業利益
- 税金
- 減価償却費
- 設備投資
- 運転資本増減
- フリーキャッシュ・フロー
- 割引率
- 残存価値
- 非事業用資産
- 有利子負債
- 現預金
DCF法では、運転資本や設備投資が、価値評価の基礎となるフリーキャッシュ・フローの重要な構成要素になります。過去の正常運転資本や回転期間を分析し、事業計画上の運転資本や設備投資の前提が合理的かどうかを検討することが大切です。
ただし、中小M&AでDCF法を使う場合には、大きな課題があります。将来計画の信頼性です。
中小企業では、次のようなケースが少なくありません。
- 経営計画が作られていない
- 売上計画が希望的である
- 顧客別、商品別、部門別の利益が見えていない
- 役員報酬やオーナー関連費用の調整が必要
- 設備投資や修繕費が計画に入っていない
- 運転資金増加が織り込まれていない
- 人材採用や人件費上昇が反映されていない
- 経営者退任後の売上減少リスクが考慮されていない
- 価格改定や原価高騰リスクが反映されていない
DCF法は、入力する計画が合理的でなければ、いくら精緻に見えても信頼できません。特に、売り手が提示する将来計画が楽観的な場合、買い手はそれをそのまま受け入れるべきではありません。過去実績、直近月次、受注状況、顧客別売上、粗利率、固定費、設備投資、運転資本を確認し、計画の実現可能性を検証する必要があります。
財務DDでは、過年度実績、当年度実績、予算、計画を比較し、差異の要因や持続性を検討したうえで、必要に応じて正常化調整やプロフォーマ調整を行います。
DCF法は高度な計算手法ですが、本当に重要なのは数式ではありません。将来キャッシュ・フローを生む根拠があるかどうか、その一点です。
EBITDAは便利だが、現金そのものではない
M&Aでは、EBITDAがよく使われます。EBITDAは、概ね次のように考えます。
営業利益
+ 減価償却費
= EBITDA
厳密な定義は案件や資料によって異なることがありますが、一般的には、事業が生むキャッシュ創出力に近い指標として使われます。
EBITDAが使われる理由は、次のとおりです。
- 減価償却方法の違いの影響を除きやすい
- 借入構造の違いを除いた事業収益力を見やすい
- 国際的なM&A実務で比較しやすい
- EV/EBITDA倍率として企業価値評価に使いやすい
- 設備保有型ビジネスでも、営業利益より実態を見やすいことがある
ただし、EBITDAは現金そのものではありません。EBITDAが高くても、次のような支出が必要であれば、手元に現金は残りません。
- 設備投資
- 修繕費
- 借入返済
- 税金
- 運転資金増加
- 在庫増加
- 売掛金回収遅延
- 人件費増加
- システム投資
- PMI費用
そのため、EBITDA倍率だけで価格を判断するのは危険です。
たとえば、EBITDAが1億円で、倍率5倍だから企業価値5億円、という計算は一見分かりやすいものです。しかし、その会社が毎年8,000万円の設備更新を必要とし、売上拡大に伴って運転資金が増え、借入返済も重いとすれば、買い手が自由に使える現金は大きく減ってしまいます。
EBITDAは有用な指標ですが、投資回収を判断するうえでは、フリーキャッシュ・フロー、借入返済、設備投資、運転資金を併せて見る必要があります。
正常収益力を見なければ、価格は歪む
M&A評価で非常に重要になるのが、正常収益力です。正常収益力とは、一過性要因や特殊要因を除いた、会社が通常の事業活動で継続的に稼ぐ力を指します。
中小企業では、決算書上の利益がそのまま正常収益力を表していない、というケースがよくあります。たとえば、次のような調整が必要になることがあります。
利益を増やす方向の調整
- オーナー経営者の役員報酬が通常水準より高い
- 親族給与が実態より高い
- 一時的な修繕費が発生している
- 一過性の広告宣伝費が含まれている
- 過去の不良在庫処分損が含まれている
- 一時的な撤退損失が含まれている
- 経営者個人の支出に近い費用が会社負担になっている
利益を減らす方向の調整
- 役員報酬が通常水準より低い
- 必要な人員が不足しており、買収後に採用が必要
- 修繕費や設備投資が先送りされている
- 本来必要な引当金が不足している
- 在庫評価損が未計上
- 貸倒リスクが未反映
- 未払残業代がある
- 家賃や使用料が市場水準より低い
- 現経営者の営業力に依存しており、退任後に売上減少が見込まれる
正常収益力分析では、会計エラー、期間帰属の修正、経常的に発生する営業外・特別損益の調整などが価値評価に影響します。EBITDA倍率を使う場合にはEBITDAが変動し、DCF法でもFCFの基礎となる利益が変動します。
つまり、「直近利益がいくらか」ではなく、「買収後も継続する利益はいくらか」を見なければならない、ということです。
売り手にとっては、自社の正常収益力を説明できる資料を整えておくことが重要になります。買い手にとっては、表面的な利益ではなく、買収後に残る利益を確認することが重要です。
のれんは「期待」ではなく、買収価格の説明責任である
M&Aでは、のれんという言葉が使われます。会計上ののれんは、簡単にいえば、取得対価が受け入れた純資産等を上回る場合に生じる差額です。ただし実務上は、その差額の中身を理解しておくことが重要になります。
のれんには、次のような要素が含まれることがあります。
- 顧客基盤
- ブランド
- 技術・ノウハウ
- 営業力
- 人材
- 許認可
- 地域基盤
- 取引先との関係
- 収益力
- 買い手とのシナジー
- 将来成長への期待
ただし、のれんは「なんとなく良い会社だから上乗せする金額」ではありません。買い手が純資産を超える価格を支払うのであれば、その超過額をどのように回収するのかを説明できる必要があります。売り手が営業権やのれんを主張するのであれば、その根拠となる収益力、顧客基盤、契約、技術、人材、継続性を説明できなければなりません。
M&Aでは、対象会社の貸借対照表に計上されていない無形資産が買収目的となることがあります。顧客リスト、特許技術、ブランド、研究開発などの価値と取得対価を関連づけて検討しなければ、のれんの意味は曖昧になってしまいます。
会計上、日本基準では、のれんは資産に計上し、20年以内の効果の及ぶ期間にわたって規則的に償却することとされています。
出典:企業会計基準委員会(ASBJ)|企業会計基準第21号 企業結合に関する会計基準
のれんが大きいM&Aでは、買収後の利益計画にのれん償却の影響が出ます。また、買収後に想定した収益力が出なければ、減損リスクも問題になります。
そのため、のれんを考える際には、次の問いを避けて通ることはできません。
- 純資産を超えて支払う理由は何か
- のれんの源泉は、顧客、技術、人材、ブランド、シナジーのどれか
- その価値は買収後も維持されるか
- 経営者が退任しても収益は残るか
- キーマンが退職しても事業は続くか
- 主要顧客が離れた場合、のれんは回収できるか
- 買収後の利益でのれん償却を吸収できるか
- のれんを回収するためのPMI施策はあるか
のれんは、価格の上乗せ理由です。そして、上乗せした以上、買い手にはそれを回収する責任が生じます。
時価純資産+のれんの考え方で注意すべきこと
中小M&Aでは、時価純資産に営業権、のれん、利益数年分を加算する方法が使われることがあります。この考え方自体は、実務上理解しやすい方法です。ただし、いくつか注意すべき点があります。
1. 利益の種類を明確にする
営業利益なのか、経常利益なのか、税引後利益なのか、EBITDAなのか。どの利益を基礎にするかで評価額は変わります。
2. 正常利益かどうかを確認する
一過性の利益や、経営者個人の特殊事情による利益をそのまま使うと、のれんが過大になります。
3. 倍率に根拠を持たせる
2年分なのか、3年分なのか、5年分なのか。その違いは価格に大きく影響します。倍率は、事業の安定性、顧客分散、成長性、経営者依存度、資料の信頼性、買収後の統合負荷、業界慣行などを踏まえて考える必要があります。
4. 買い手の回収可能性を見る
売り手にとって合理的に見える価格でも、買い手が資金を回収できなければ成立しません。買い手は、買収資金、借入返済、追加投資、PMI費用、運転資金を踏まえて、投資回収可能性を検証する必要があります。
5. DDで変わる可能性を前提にする
初期評価では見えなかった滞留債権、在庫評価、簿外債務、未払税金、労務リスク、契約リスクがDDで判明すれば、のれんを含む価格は見直されます。
時価純資産+のれんは、分かりやすい方法です。しかし、分かりやすさと妥当性は別のものだということを忘れないでください。
売り手が理解すべき価格の見られ方
売り手としては、自社の価値をできるだけ高く評価してほしいと考えるものです。それはごく自然なことです。
しかし、買い手が見ているのは売り手の思い入れではなく、買収後に引き受ける収益、資産、負債、リスク、統合負荷です。
売り手が価格を考える際には、次の点を整理しておく必要があります。
- 直近3〜5期の損益推移
- 月次試算表の精度
- 顧客別・商品別・部門別の利益
- 一過性損益
- 役員報酬やオーナー関連取引
- 主要顧客への依存度
- 経営者退任後の売上継続性
- 従業員の定着性
- 契約書・許認可の整理状況
- 株主構成
- 借入金、保証、担保
- 役員貸付金・役員借入金
- 税務リスク、社会保険、労務リスク
- 在庫・売掛金の実態
- 買い手にとってのシナジー
自社の価値を説明するには、「良い会社です」では足りません。買い手が納得できる数字と資料が必要になります。
売り手側で特に重要なのは、次の3点です。
1. 利益の継続性を説明する
買い手は、過去利益よりも、買収後に残る利益を見ます。だからこそ、売上や利益がどの顧客、どの商品、どの部門から生まれているのかを説明できる必要があります。
2. リスクを隠さず整理する
リスクを隠すと、DDで発見されたときに信頼を失います。そして信頼を失えば、価格の引下げだけでなく、案件そのものの中止にもつながりかねません。
3. 会社を見える化しておく
月次決算、契約書、許認可、株主名簿、借入一覧、資産負債明細、顧客別売上、在庫明細を整えておくことで、買い手の不安を減らすことができます。
譲渡前の見える化・磨き上げは、価格だけでなく、買い手の安心、DD対応、契約条件にも影響します。中小M&Aガイドラインでも、株式や事業用資産等の整理・集約を含む事前準備が、重要な手続として位置づけられています。
買い手が理解すべき価格の考え方
買い手側は、「いくらなら買えるか」ではなく、「いくらなら投資として成立するか」を考える必要があります。
買収価格は、次の3つの視点から確認します。
1. 支払可能額
手元資金や借入可能額から見て、支払えるかどうかです。ただし、支払えることと、買うべきことは違います。
2. 投資回収可能額
買収後の利益やキャッシュ・フローで、何年で回収できるかです。EBITDA、営業利益、フリーキャッシュ・フロー、借入返済、税金、設備投資、運転資金を踏まえて見ていきます。
3. リスク許容額
想定どおりにいかなかった場合でも、自社本体が耐えられるかどうかです。
- 主要顧客が離れる
- キーマンが退職する
- 設備更新が必要になる
- 売上シナジーが出ない
- 簿外債務が発覚する
- PMIが進まない
- 金融機関への説明が難しくなる
こうした事態が起きても、自社の資金繰り、借入返済、既存事業の投資余力が崩れないかを確認します。
買い手は、価格交渉だけでなく、買収後の資金計画まで作っておく必要があります。利益が出る計画であっても、資金が回らなければ買収は失敗するからです。利益計画だけでは、掛け取引による入出金のズレや運転資金の増加を見落とす可能性があります。利益は計上されていても資金回収が間に合わなければ黒字倒産も起こり得るため、利益計画と資金計画は一体で考えなければなりません。
買収価格の判断では、次の問いが重要になります。
- 買収価格は何年で回収できるか
- 借入返済を含めても資金は回るか
- 追加投資やPMI費用を織り込んでいるか
- 買収後の正常運転資金はいくら必要か
- 経営者退任後の売上減少を見込んでいるか
- 既存事業への資金配分に影響しないか
- 金融機関に返済原資を説明できるか
- 想定シナジーが出なかった場合に耐えられるか
M&Aは、買収価格を払った時点で終わる投資ではありません。買収後も資金を使い続ける投資なのです。
DD後に価格が変わる理由
M&Aの価格は、初期段階で提示された金額から変わることがあります。これは決して珍しいことではありません。DDによって、会社の実態が明らかになっていくからです。
DDで価格に影響する主な項目は、次のとおりです。
- 売上計上時期の誤り
- 架空売上、前倒し売上
- 未計上費用
- 貸倒リスク
- 在庫評価損
- 固定資産の減損・除却不足
- 未払税金
- 未払社会保険
- 未払残業代
- 退職給付債務
- リース債務
- 保証債務
- 訴訟、クレーム
- 主要契約の解除リスク
- 主要顧客の離反リスク
- 経営者依存
- キーマン退職リスク
- 想定外の設備投資
- 事業計画の過大見積り
- 正常運転資本の不足
DDは、買収の粗探しではありません。意思決定、価格調整、契約条件、PMIに必要な事実確認です。財務DDは、M&Aを行う企業にとって、買収を実行する前に対象会社・事業の財務状況を深く把握できる重要な機会であり、そこで得られた事項が価値評価や契約条件に影響していきます。
売り手側から見ると、DD後の価格調整は「後から値下げされた」と感じられることがあります。しかし、買い手側から見れば、「前提が違っていたために価格を修正する」ということなのです。
ここで大切なのは、DD前から不確実な項目を整理しておくことです。売り手は、事前に資料を整備し、リスクを説明できるようにしておく。買い手は、初期価格を絶対視せず、DDで確認すべき項目を明確にしておく。双方がこの前提を共有できていれば、価格交渉は冷静に進みやすくなります。
ネットデットとデットライクアイテムを軽視してはいけない
M&A価格では、ネットデットの考え方が重要になります。ネットデットは、一般的には有利子負債から現預金等を差し引いたものです。
ただし実務上は、単純な借入金だけでなく、負債に近い項目をどう扱うかが問題になります。これをデットライクアイテムと呼ぶことがあります。代表例は次のとおりです。
- 未払法人税、未払消費税
- 未払利息
- ファイナンスリース債務
- 退職給付債務
- 未払残業代
- 賞与引当不足
- 製品保証引当不足
- リストラ関連債務
- 訴訟関連債務
- 保証債務
- オフバランスリース
- 役員借入金
- グループ会社借入金
- クロージング前に精算すべき債務
財務DDでは、ネットデットだけでなく、デットライクアイテムを幅広く抽出し、株式価値や価格調整にどう反映するかを検討します。事業価値から有利子負債やデットライクアイテムを控除し、現預金やキャッシュライクアイテムを加味して株主価値を考える、という整理が有用です。
たとえば、企業価値が5億円でも、実質的な負債が3億円あれば、株式価値は大きく下がります。逆に、十分な余剰現預金や非事業用資産があれば、株式価値が高くなることもあります。
買い手側は、借入金だけでなく、買収後に支払う必要がある債務まで見なければなりません。売り手側は、価格交渉の前に、これらの項目を整理しておくべきです。
運転資本調整が価格に影響する理由
運転資本とは、事業を回すために必要な資金です。一般的には、売掛金、在庫、買掛金などが関係します。
M&Aでは、対象会社が通常どおり事業を継続するために必要な運転資本が不足していないかを確認します。
たとえば、クロージング時点で売掛金が少なく、在庫も不足し、買掛金だけが多い状態で引き渡された場合、買い手は買収後すぐに資金を投入しなければならないかもしれません。逆に、通常水準を超える運転資本が残っていれば、買い手にとって有利な状態で引き継ぐことができます。
そのため、M&A契約では、基準運転資本を設定し、クロージング時の実際運転資本との差額を価格調整することがあります。運転資本調整は、売り手・買い手の有利不利を調整するために重要です。財務DDでも、ネットデットやデットライクアイテムの把握に加えて、運転資本の月次分析や正常運転資本水準の分析が重要になります。
中小企業では、運転資本の季節変動が大きい場合があります。繁忙期、閑散期、決算期、賞与月、納税月、在庫積み増し時期によって、必要となる資金は変わります。
したがって運転資本は、決算日時点だけではなく、月次推移で見ていく必要があります。
税務上の「時価」とM&A価格を混同しない
非上場株式の評価では、税務上の株価とM&A価格を混同しないことが重要です。事業承継や相続・贈与で使われる税務上の株式評価と、第三者間のM&Aで合意される取引価格とでは、目的が異なるからです。
親族内承継では、贈与税・相続税の負担を考えるため、税務上の評価方法が重要になります。一方、第三者間M&Aでは、売り手と買い手がそれぞれの経済合理性に基づいて交渉し、最終的に合意した価格が取引価格になります。
中小M&Aは第三者間取引ですから、交渉を経て需給のバランスが取れた結果として確定したM&Aの取引価格は、税務上の時価として認められるものと考えられます。ただし、著しく高額または低額な取引では、税務上の問題が生じ得ます。
これは「どのような価格でも問題ない」という意味ではありません。関係者間取引、親族関係、役員・従業員との取引、法人・個人間の取引、少数株主との取引などでは、税務上の検討が必要になります。
また、個人株主が株式等を譲渡した場合の譲渡所得等は、原則として申告分離課税の対象となり、所得税・住民税に復興特別所得税を加味した実効税率の確認が必要になります。
出典:国税庁|No.1463 株式等を譲渡したときの課税(申告分離課税)
M&A価格を考える際には、売り手の手取り、買い手の取得価額、スキーム、退職金、役員貸付金、自己株式取得、事業譲渡、消費税、不動産取得税、登録免許税なども関係することがあります。個別事情によって税務上の取扱いは変わりますので、価格交渉と税務検討は切り離せないものと考えてください。
株式譲渡と事業譲渡では、価格の見方も変わる
M&Aのスキームによっても、価格の考え方は変わります。中小M&Aでは、株式譲渡と事業譲渡が多く使われます。中小PMIガイドラインの解説でも、中小M&Aの実施形態として、事業譲渡と株式譲渡が大きな割合を占めることが示されています。
株式譲渡の場合
株式譲渡では、会社そのものを株式として取得します。買い手は、資産、負債、契約、許認可、従業員、税務リスク、簿外債務を会社ごと引き継ぐことになります。そのため、価格評価では株式価値を見ます。
株式譲渡では、次の項目が重要です。
- 株式価値
- ネットデット
- 簿外債務
- 税務リスク
- 偶発債務
- 株主構成
- 経営者保証
- 契約のCOC条項
- 許認可
- 役員貸付金・借入金
- 過去の処理の継続リスク
株式譲渡は手続が比較的シンプルな場合もありますが、過去のリスクを引き継ぐ点には注意が必要です。
事業譲渡の場合
事業譲渡では、対象事業の資産・負債・契約等を個別に移転します。会社全体ではなく、特定の事業を買う形です。
事業譲渡では、次の項目が重要です。
- 譲渡対象資産
- 承継対象負債
- 対象事業の収益力
- 移転する契約
- 従業員の承継
- 許認可の再取得・承継可否
- 消費税等の取扱い
- 譲渡対象外資産・負債
- 事業継続に必要な運転資本
- 事業分離後の売り手・買い手双方の体制
事業譲渡は、買い手が引き継ぐ範囲を限定しやすい反面、契約移転、許認可、従業員対応、税務、手続負担が重くなることがあります。
スキームは、価格だけで決めるものではありません。税務、法務、許認可、契約、債務承継、手続負担、PMIを踏まえて選択する必要があります。
価格交渉では、金額だけでなく条件を見る
M&Aの交渉では、価格だけが注目されがちです。しかし実務上は、同じ価格でも条件によってその意味が変わってきます。
確認すべき主な条件は、次のとおりです。
- 支払時期
- 一括払いか分割払いか
- 役員退職金の有無
- アーンアウトの有無
- 価格調整条項
- 表明保証
- 補償条項
- クロージング条件
- 経営者の引継ぎ期間
- 従業員処遇
- 役員貸付金・借入金の精算
- 経営者保証の解除
- 担保の扱い
- 未払債務の負担
- 非事業用資産の取扱い
- 不動産や保険の取扱い
- 譲渡後の競業避止義務
- PMI協力義務
たとえば、表面価格が高くても、強い表明保証や広い補償義務がある場合には、売り手の実質的なリスクは残ります。買い手から見ても、価格が安く見えても、簿外債務やPMI負担が大きければ、結果的に高い買収になってしまうことがあります。
M&Aの価格は、契約条件と一体で判断する必要があるのです。
評価額を高めるために必要なのは、節税ではなく説明可能性である
売り手側が会社の価値を高めたい場合、短期的な利益操作や節税だけに目を向けるのは危険です。
買い手が評価するのは、税金を少なく見せた決算書ではありません。買収後にどれだけ安定して利益とキャッシュ・フローを生むかです。
過度な節税によって利益が圧縮されていると、収益力が低く見えてしまうことがあります。役員報酬や保険、交際費、親族給与、資産購入などが複雑に絡むと、正常収益力の説明にそれだけ時間がかかります。
評価額を高めるために本当に重要なのは、次のような管理体制です。
- 月次決算が早く正確に出る
- 売上・粗利・営業利益の推移を説明できる
- 顧客別・商品別・部門別の採算が分かる
- 売掛金、在庫、買掛金の明細が整理されている
- 借入金、担保、保証が一覧化されている
- 契約書、許認可、議事録、株主名簿が整っている
- 役員関連取引が整理されている
- 税務処理の根拠を説明できる
- 資金繰り表があり、将来資金を見通せる
- 経営計画と実績の差異を説明できる
月次決算は、経営者が最新の業績を把握し、会計を読める・使える・見通せる状態にするための基礎です。会計を活用できる体制がなければ、M&A価格の根拠となる収益力や資金力の説明も、どうしても弱くなってしまいます。
M&A評価は、日頃の経営管理の積み重ねを映し出します。会社を高く「見せる」ことではなく、会社の価値を「説明できる」状態にしておくこと——それが何より重要です。
買い手にとってのシナジーは、売り手価格にどこまで反映されるか
買い手は、買収後にシナジーを見込むことがあります。
- 売上シナジー
- クロスセル
- 仕入条件改善
- 拠点統合
- 製造効率化
- 物流効率化
- 管理部門統合
- 人材活用
- 技術・ノウハウ共有
- 金融機関信用力の向上
問題は、このシナジーを価格にどこまで反映するかです。
売り手から見れば、「買い手が自社を買うことで利益が増えるなら、その分も価格に反映してほしい」と考えます。一方、買い手から見れば、「シナジーは買収後に自社が努力して実現するものだから、全額を売り手に払うべきではない」と考えます。この考え方の違いは、自然なものです。
一般に、シナジーのうち、すでに対象会社単独で実現している価値は、売り手価格に反映されやすくなります。一方、買い手が買収後に初めて実現するシナジーは、買い手側の投資判断に使われるものの、その全額を売り手価格に反映するとは限りません。
買い手は、M&Aの初期段階からシナジーの実現可能性や財務的影響を意識します。売上シナジー、コストシナジー、研究開発シナジーなどを特定し、それが価格と回収可能性にどう影響するかを検討する必要があります。
シナジーを価格に反映する場合には、次の点を確認します。
- 誰が実現するシナジーか
- いつ実現するか
- 実現に追加コストが必要か
- 従業員や取引先への影響はあるか
- 実現しなかった場合のリスクは誰が負うか
- 契約条件やアーンアウトで調整するか
- PMIで管理できるか
シナジーは、価格を上げる理由にもなりますが、過大に評価すると、かえって買収後の負担になってしまいます。
評価方法ごとの使い分け
評価方法は、会社の状況に応じて使い分ける必要があります。
| 会社の状況 | 重視されやすい評価方法 | 注意点 |
|---|---|---|
| 資産保有型、不動産・設備が多い | 時価純資産法 | 収益力を軽視しない |
| 安定収益がある中小企業 | 時価純資産+営業権、年倍法、EBITDA倍率 | 正常利益の調整が必要 |
| 成長性が高い会社 | DCF法、類似会社比較法 | 事業計画の信頼性が重要 |
| 赤字だが資産価値がある | 時価純資産法、清算価値 | 再生可能性と資金負担を確認 |
| 経営者依存が強い会社 | 正常収益力分析、リスク調整 | 退任後の減収を見込む |
| 類似上場会社がある業種 | 類似会社比較法 | 規模・流動性・管理体制差を調整 |
| 事業譲渡 | 対象事業の収益力、対象資産負債 | 承継範囲と税務を確認 |
| 株式譲渡 | 株式価値、ネットデット、簿外債務 | 過去リスクを引き継ぐ |
一つの方法だけで判断するのではなく、複数の方法でレンジを把握することが現実的です。たとえば、時価純資産法で下限感を見て、EBITDA倍率で市場目線を確認し、DCF法で買い手の投資回収可能性を検証する、という使い方が考えられます。
評価は一点の金額ではなく、レンジで考えるべきものです。そのうえで最終価格は、DD、契約条件、資金計画、PMI前提を踏まえて決めていきます。
M&A価格を見る前に整えるべき資料
M&A価格を適切に検討するには、資料の整備が欠かせません。売り手側も買い手側も、次の資料を確認できる状態にしておく必要があります。
| 資料 | 価格判断への影響 |
|---|---|
| 決算書・税務申告書 | 過去実績、税務処理、財務状態の確認 |
| 月次試算表 | 直近業績、季節変動、利益トレンドの確認 |
| 勘定科目内訳 | 資産負債の実態確認 |
| 売掛金明細 | 回収可能性、滞留債権の確認 |
| 在庫明細 | 実在性、評価、滞留在庫の確認 |
| 借入金一覧 | ネットデット、返済負担の確認 |
| 固定資産台帳 | 設備価値、更新投資、遊休資産の確認 |
| 顧客別売上 | 顧客集中、継続性の確認 |
| 商品別・部門別損益 | 収益源、不採算事業の確認 |
| 契約書一覧 | COC条項、解約リスク、重要契約の確認 |
| 許認可一覧 | 事業継続可能性の確認 |
| 株主名簿 | 株式譲渡の実行可能性の確認 |
| 役員貸付金・借入金明細 | 価格調整・精算の確認 |
| 税務調査履歴 | 税務リスクの確認 |
| 労務資料 | 未払残業、退職金、社会保険の確認 |
| 経営計画・資金繰り表 | 将来価値、投資回収可能性の確認 |
資料管理は、会社の規模や事業内容を問わず、業務効率、情報漏えい・改ざん・紛失の防止、コンプライアンス強化のために重要です。M&Aの価格評価においても、必要な書類が整理されていることは、買い手の安心とDD対応に直結します。
資料が整理されていない会社では、買い手はリスクを高く見積もります。そしてリスクが高く見積もられれば、価格は下がりやすくなるのです。
価格をめぐる相談で専門家を活用すべき場面
M&A価格の検討では、専門家の関与が重要になる場面があります。特に、次のような場合には、早めに相談することをおすすめします。
- 初期評価額の根拠が分からない
- 仲介者から提示された価格レンジの妥当性を確認したい
- 売り手として希望価格をどう説明すべきか悩んでいる
- 買い手として買収価格の上限を決めたい
- EBITDAや正常収益力の調整が必要
- 時価純資産の調整項目が多い
- 役員貸付金、役員借入金、保証、担保がある
- 簿外債務や税務リスクが不安
- DDで価格調整すべきか判断できない
- のれんの回収可能性を検討したい
- 買収資金を金融機関に説明する必要がある
- 価格と契約条件を一体で整理したい
- 買収後のPMIコストを価格に織り込みたい
専門家は、価格を決める人ではありません。価格判断の前提を整理し、数字の信頼性を確認し、論点を可視化していく存在です。
特に公認会計士・税理士が関与すべき領域は、次のようなものです。
- 財務諸表の実態把握
- 正常収益力分析
- 時価純資産調整
- ネットデット、デットライクアイテムの整理
- 運転資本分析
- 税務リスク確認
- スキーム別の税務影響
- 買収価格レンジの整理
- 金融機関説明資料
- 買収後の月次管理、資金繰り、PMI支援
中小企業庁のPMIに関する整理でも、M&Aの目的を実現し、統合の効果を最大化するためには、M&A成立後の統合に向けた作業であるPMIが必要とされています。価格評価もまた、買収後の統合負荷と切り離して考えるべきではありません。
まとめ|M&A価格は、評価方法ではなく「説明できる前提」で決まる
中小M&Aの価格は、評価方法だけで自動的に決まるものではありません。
時価純資産法、年倍法、類似会社比較法、DCF法、EBITDA倍率法には、それぞれに意味があります。しかし、どの方法を使ったとしても、その前提となる数字が信頼できなければ、価格判断は不安定なものになってしまいます。
重要なのは、次の点です。
- 企業価値と株式価値を分けて理解する
- 純資産だけでなく収益力を見る
- 利益ではなく正常収益力を見る
- EBITDAだけでなく設備投資・運転資本・借入返済を見る
- のれんの源泉と回収可能性を説明する
- ネットデットとデットライクアイテムを整理する
- DD後の価格調整を前提にする
- 税務上の時価とM&A価格を混同しない
- スキームと契約条件を価格と一体で考える
- PMIコストと買収後管理体制を織り込む
M&A価格は、単なる金額交渉ではありません。会社の収益力、資産負債、リスク、将来性、そして買収後の実行可能性を、数字と事実で説明していく作業です。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、中小・中堅企業のM&Aにおける企業価値評価、価格レンジの整理、正常収益力分析、時価純資産調整、財務・税務DD、そして買収後の資金計画・PMIまで、経営判断に使える形で論点を整理することを重視しています。M&A価格の妥当性を確認したい、売却前に自社の価値を説明できる状態にしたい、あるいは買収価格と投資回収可能性を冷静に検証したい——そうした場合は、当事務所HPのお問い合わせページよりお気軽にご相談ください。
振り返り|中小M&Aの企業価値評価と価格で確認すべき重要事項
| 論点 | 確認すべき内容 | 価格への影響 |
|---|---|---|
| 評価額と価格 | 評価額は算定結果、価格は当事者間の合意額 | 評価額を絶対視せず交渉・DDで調整する |
| 企業価値 | 事業全体が生む価値 | DCF法、EBITDA倍率等で算定されることがある |
| 株式価値 | 株主に帰属する価値 | 企業価値からネットデット等を調整して考える |
| 簿価純資産法 | 決算書上の純資産を基礎にする | 簡便だが実態価値や収益力を反映しにくい |
| 時価純資産法 | 資産負債を実態価値に修正する | 滞留債権、在庫、未払債務、簿外債務が重要 |
| 年買法・年倍法 | 純資産に利益数年分を加算する | 分かりやすいが、利益と倍率の根拠確認が必要 |
| 類似会社比較法 | 類似会社・類似取引の倍率を使う | 比較対象の選定と中小企業特有リスクの調整が必要 |
| DCF法 | 将来FCFを現在価値に割り引く | 事業計画、運転資本、設備投資の信頼性が重要 |
| EBITDA | 事業の収益力を見る指標 | 現金そのものではなく、設備投資・返済を別途見る |
| 正常収益力 | 一過性要因を除いた継続利益 | M&A価格の基礎となる利益を左右する |
| のれん | 純資産を超える支払額の説明要素 | 顧客、技術、人材、シナジー等の根拠が必要 |
| ネットデット | 有利子負債と現預金等の調整 | 株式価値を大きく変動させる |
| デットライクアイテム | 負債類似項目 | 未払税金、リース、退職給付、保証債務等に注意 |
| 運転資本調整 | 売掛金・在庫・買掛金等の通常水準 | クロージング時の価格調整に影響する |
| DD後の調整 | 財務・税務・法務・労務リスクの反映 | 価格引下げ、補償、契約条件変更につながる |
| 税務上の時価 | M&A価格と税務評価の関係 | 関係者間取引や著しい高低価格では税務検討が必要 |
| スキーム | 株式譲渡、事業譲渡等 | 承継範囲、税務、契約、価格の見方が変わる |
| PMI | 買収後の統合・管理負荷 | 追加コストやシナジー実現可能性に影響する |