企業価値評価では、DCF法、マルチプル法、時価純資産法といった評価手法に、どうしても目が向きがちです。
しかし、手法を選ぶ前に、確かめておかなければならないことがあります。
その会社は、平常時にどれだけ稼げるのか。直近期の利益は、一時的な要因で膨らんだり、逆に沈んだりしていないか。将来の売上や利益は、何を根拠に計画されているのか。
その利益は、実際にキャッシュとして回収されるのか。そして事業を続けていくために、どれだけの運転資金と設備投資が必要なのか。
こうした点が整理されないまま、どれほど精緻な評価モデルを組み上げても、はじき出された評価額には、判断の拠りどころがありません。
第3テーマ「正常収益力と事業計画」は、決算書に表れた過去の利益を、将来キャッシュ・フローの見通しへとつなぐためのテーマです。
第2テーマで確認した決算書、月次資料、会計処理、財務実態を出発点として、正常収益力、調整利益、事業計画、運転資本、設備投資、シナリオを順に整理していきます。その後に続くDCF法やマルチプル法を、単なる計算ではなく、説明可能な企業価値評価として使うための土台に当たる部分です。
このテーマで理解できること
このテーマの中心にあるのは、過去の会計利益と、将来の企業価値をそのまま結び付けないという考え方です。
直近期に多額の利益が出ていたとしても、それが一度限りの大口受注によるものであれば、来期以降も同じように続くとは限りません。
反対に、一時的な修繕費、移転費用、退職金、M&A関連費用などによって利益が低く見えているケースもあります。この場合、その数字をそのまま将来の収益力とみなすことは適切ではありません。
また、営業利益やEBITDAが安定していても、売掛金や棚卸資産が増え続けている会社、設備更新を先送りしている会社では、自由に使えるキャッシュが手元に残らないことがあります。
したがって、企業価値評価に使う数字は、次の流れで整理していく必要があります。
過去実績を確認する → 一過性・非経常的な要因を整理する → 継続的な収益力を把握する → 売上・粗利・固定費の将来前提を検証する → 運転資本と設備投資を反映する → 複数のシナリオから価値の幅を考える
正常収益力分析とは、過去の損益から一時的な項目や変動要因を除き、対象会社が持続的に稼ぐ力を把握するための分析です。
事業計画についても同様に、収益計画だけを見るのでは足りません。キャッシュ・フロー計画、運転資本、設備投資、そして貸借対照表との整合性まで、あわせて確認していくことになります。
評価手法より先に、評価へ入力する数字を整える
DCF法では、事業計画をもとに将来のフリー・キャッシュ・フローを組み立てます。マルチプル法では、営業利益やEBITDAといった利益指標に倍率を掛けます。
いずれの方法でも、入力する数字が評価額を大きく左右します。
たとえば、売主が示したEBITDAに一過性の利益が含まれていれば、マルチプル評価は当然高く出ます。逆に、買主が将来の人件費や維持更新投資を過大に見積もれば、評価額は低く沈みます。
つまり、評価額の差は、評価手法の違いだけから生まれるものではありません。
むしろ実務で価格目線が分かれるのは、次のような前提の置き方が売主と買主で異なるためです。
- どの利益を平常時の収益力とみなすか
- オーナー経営者の退任後に必要となる費用をどう見るか
- 主要顧客との取引が今後も続くと考えるか
- 価格改定や原価上昇をどこまで織り込むか
- 売上増加に伴う運転資金をどの程度見込むか
- 老朽設備の更新時期と必要額をどう見積もるか
- 将来計画の上振れ・下振れをどの範囲で考えるか
日本公認会計士協会の「企業価値評価ガイドライン」の改正趣旨においても、提供された情報を無批判に使うのではなく、その有用性と利用可能性を検討・分析したうえで、算定結果が批判的に検討されることを意識して業務にあたる必要性が示されています。
事業計画や経営者の説明を受け取ることと、それを評価の前提として採用することは、同じではありません。
出典:日本公認会計士協会|「経営研究調査会研究報告第32号『企業価値評価ガイドライン』の改正について」の公表について
このテーマの論点地図
第3テーマは、6本の詳細コラムで構成されています。
前半の3本では、損益計算書を中心に、過去の利益と将来の利益計画を整理します。後半の3本では、その利益をキャッシュ・フローへ変換し、不確実性を価格レンジへとつなげていきます。
おすすめする読む順番は、次のとおりです。
3-1 正常収益力 → 3-2 調整EBITDA・調整営業利益 → 3-3 売上・粗利・固定費 → 3-4 運転資本と資金繰り → 3-5 設備投資・減価償却・維持更新投資 → 3-6 事業計画のシナリオ設計
6本を通してお読みいただくことで、「過去にどれだけ利益が出たか」から、「今後どれだけキャッシュを生み、その前提をどこまで価格判断に使えるか」までを、一続きの流れとして理解いただけます。
3-1. 正常収益力とは何か|一時的な利益ではなく、継続的に稼ぐ力を見る
最初に確認するのは、決算書に計上された利益のうち、どこまでが継続的な収益力を表しているのか、という点です。
直近期の営業利益や当期純利益は、たしかに重要な情報です。ただ、そのまま評価に使えるとは限りません。
一度限りの売上、臨時収入、災害損失、移転費用、過年度修正、役員関連取引などが含まれているのであれば、平常時の利益とは切り分けて考える必要があります。
一方で、毎年ではないものの一定の周期で発生する修繕費や更新費用まで、一過性としてすべて除外してしまうことも、また適切ではありません。
このコラムでは、正常収益力を「高く見せるための調整」としてではなく、継続的に再現できる利益を見極めるための考え方として整理します。
直近期の利益を基準に提示価格をご覧になっている方、一過性損益やオーナー関連費用の扱いに迷っておられる方は、ここから読み始めてください。
3-2. 調整EBITDA・調整営業利益|M&A価格の基礎となる利益をどう見るか
正常収益力の考え方を、M&A価格の算定に使う利益指標へと落とし込んだものが、調整EBITDA・調整営業利益です。
中小M&Aの現場では、「EBITDAの何倍」という説明が用いられることがあります。しかし、同じEBITDAという名称であっても、役員報酬、賃借料、関連当事者取引、一過性費用、会計方針など、どこまでを調整の範囲とするかによって、金額は変わってきます。
売主側から見れば、買収後に発生しない費用は加算しておきたい項目です。一方、買主側から見れば、買収後に必要となる管理人員、システム、保険、賃借料などは、追加費用として考慮しておかなければなりません。
このコラムで扱うのは、EBITDA倍率そのものではなく、その前提となる利益をどのように検討するか、という点です。
仲介会社や相手方からEBITDA倍率による価格を提示されたものの、その基礎となる利益の中身が見えない、という方に適した内容です。
3-3. 売上・粗利・固定費の見方|事業計画の前提を評価に使える状態にする
過去の収益力を整理したら、次は将来の事業計画を確認します。
ただし、「売上は毎年5%成長する」「営業利益率は3年後に10%になる」といった数値だけでは、評価の前提としては十分ではありません。
その売上は、どの顧客、どの商品、どの拠点、どの契約、どれだけの販売数量と単価から生まれるのか。粗利率は、価格改定、仕入条件、製品構成、稼働率のいずれによって動くのか。固定費は、人員、賃料、外注、広告、システムなどにどう分かれているのか。こうした点を確認していく必要があります。
事業計画とは、数値目標だけを指すものではありません。戦略、活動計画、投資、資金、人員といった前提を含んだものです。計画上の数字と、その数字を実現する施策とがつながっているかどうかが、重要になります。
このコラムでは、事業戦略そのものを立案するのではなく、計画上の売上、粗利、固定費を、企業価値評価に使える粒度まで分解していく視点を整理します。
事業計画の数字はあるものの、根拠となるKPIや実行条件が明確でない、という場合にお読みください。
3-4. 運転資本と資金繰り|利益が出ていても価値が変わる理由
営業利益が増えていても、売掛金や棚卸資産がそれ以上に増えていけば、手元の資金は減っていきます。
反対に、前受金が多い事業や、仕入債務の支払期間が長い事業では、利益以上に良好なキャッシュ・フローが生じることもあります。
この違いを生んでいるのが、運転資本です。
M&Aバリュエーションでは、売掛金、棚卸資産、買掛金といった日常的な事業資金を確認し、売上の成長に伴ってどの程度の資金が追加で必要になるのかを考えます。DCF法において、運転資本の増減はフリー・キャッシュ・フローの重要な構成要素です。
このコラムでは、利益とキャッシュ・フローの違い、正常な運転資本の水準、そして資金繰りと企業価値の関係を整理します。
利益は出ているのに資金が残らない会社、急成長に伴う資金需要が大きい会社、在庫や売掛金の多い会社を評価する場面では、とりわけ重要になります。
3-5. 設備投資・減価償却・維持更新投資|将来キャッシュ・フローを過大評価しないために
減価償却費は、過去に行った投資を会計上の費用として配分したものです。これに対して設備投資は、実際に資金が出ていく支出です。
そのため、減価償却費を利益へ加算してEBITDAを計算したとしても、設備の維持・更新に毎年それ相応の支出が必要であれば、その全額を自由に使えるわけではありません。
特に、工場、店舗、車両、医療機器、業務システムなどを使う事業では要注意です。設備の老朽化や更新時期を確認しないまま進めれば、将来キャッシュ・フローを過大に見積もってしまう可能性があります。
このコラムでは、維持更新投資と成長投資を区別したうえで、減価償却費と設備投資額の差をどのように読むかを整理します。
EBITDAは高いものの設備投資の負担が見えない会社、長期間にわたり設備更新を先送りしている会社、買収後に大規模な投資が必要となる可能性のある会社を検討される場合に、お読みください。
3-6. 事業計画のシナリオ設計|ベース・アップサイド・ダウンサイドを価格判断に使う
事業計画は、将来を確定的に示すものではありません。
顧客維持、価格改定、採用、原価、設備投資、市場環境といった前提が変われば、売上も、利益も、キャッシュ・フローも変わります。
そのため企業価値評価では、単一の計画から一つの評価額を出すだけでなく、複数のシナリオを整理することがあります。現時点で最も説明しやすいベースシナリオ、上振れ条件を反映したアップサイドシナリオ、そして主要なリスクを反映したダウンサイドシナリオです。
ここで大切なのは、評価額の上限と下限を機械的に作ることではありません。
どの前提が価値を動かしているのか。どのリスクが顕在化すると、価値はどこまで下がるのか。上振れによる価値のうち、対象会社が単独で実現できる部分と、買主固有のシナジーによる部分を、どう切り分けるのか。
これらを明らかにし、価格レンジ、交渉条件、そして説明責任へとつなげていくことが目的です。
事業計画が楽観的に見える方、売主と買主で計画の前提が大きく食い違っている方、一つの評価額だけでは意思決定しにくいとお感じの方は、このコラムで全体をまとめてください。
どの記事から読むべきか
第3テーマを体系的に理解したい場合は、3-1から3-6まで順番に読み進めるのが基本です。
ただし、いま抱えておられる課題がはっきりしているのであれば、関連するコラムから入っていただいてかまいません。
EBITDA倍率による提示価格を検証したい場合
まず3-1で正常収益力を確認し、そのうえで3-2の調整EBITDA・調整営業利益へ進みます。
倍率が妥当かどうかを考える前に、その倍率を掛ける利益が妥当かどうかを確かめる、という順番です。
DCFに使われている事業計画が妥当か確認したい場合
3-3で売上・粗利・固定費の前提を確認し、3-4と3-5で運転資本・設備投資を整理したうえで、3-6のシナリオへ展開します。
DCFの計算方法そのものは第4テーマで扱いますが、DCFへ入れる事業計画の妥当性は、この第3テーマで確認します。
利益は出ているのに資金繰りが厳しい場合
3-4からご確認ください。
売掛金、在庫、買掛金の動きに加え、3-5の設備投資まで見ていくことで、利益がキャッシュとして残らない理由を整理しやすくなります。
売却前に自社の収益力を説明できる状態にしたい場合
3-1で過去実績を正常化し、3-3で将来計画の根拠を整理し、3-6で価格レンジに影響する前提を明確にします。
高い計画を示すことよりも、検証されても説明できる計画を用意しておくことが重要です。
買収価格の上限を判断したい場合
3-1から3-5までで対象会社単独の収益力とキャッシュ創出力を整理し、3-6で上振れ・下振れを確認します。
買主固有のシナジーを、対象会社単独の価値と混同しないことがポイントになります。
第3テーマと他のテーマとの関係
第3テーマは、シリーズ全体の中で「評価前提を整える」位置にあります。
第2テーマから第3テーマへ
第2テーマでは、評価対象、評価基準日、決算書、月次資料、会計方針、簿外債務などを確認します。
第3テーマでは、それらの資料を使いながら、継続的な収益力と将来計画を整理していきます。
資料の信頼性そのものに問題があるならば、正常収益力や事業計画をどれほど精緻に分析しても、前提から崩れてしまいます。必要に応じて第2テーマへ立ち戻って確認することが大切です。
第3テーマから第4・第5テーマへ
第4テーマのDCF法では、第3テーマで整理した売上、利益率、運転資本、設備投資、シナリオを使って、将来キャッシュ・フローを評価します。
第5テーマのマルチプル法では、第3テーマで整理した調整EBITDAや調整営業利益を、比較対象となる会社・取引の倍率と組み合わせます。
第3テーマを飛ばして評価手法だけを当てはめると、計算結果は出るものの、その金額が何を前提としているのかを説明しにくくなります。
第3テーマから第9テーマへ
第3テーマで把握するのは、主として対象会社の収益力と将来見通しです。
その評価結果を、実際の譲渡価格、シナジー、価格調整、アーンアウト、契約条件へつなぐ論点は、第9テーマで扱います。
特に運転資本については、第3テーマで将来キャッシュ・フローへの影響を、第9テーマでクロージング時の正常運転資本調整を扱います。両者は関連していますが、目的が異なります。
このテーマで扱わない範囲
第3テーマは、評価へ入力する収益力・事業計画・キャッシュ・フローの前提を整えるためのテーマです。
そのため、次の論点には深入りしません。
DCF法の現在価値計算、WACC、継続価値は、第4テーマで扱います。
類似会社や類似取引の選定、倍率の使い方は、第5テーマで扱います。
財務DDの調査手続や報告書作成は、別の専門領域として扱います。
クロージング時の価格調整や契約条項は、第9テーマで扱います。
買収後の実行管理やPMIの詳細にも、踏み込みません。
ここでの主眼は、企業価値評価に使う数字を、過去実績と事業実態から説明できる状態へ整えることにあります。
売主・買主・社内関係者で見るべき点は異なる
同じ事業計画を見ていても、立場が違えば、確認したい点も変わってきます。
売主は、過去の一時的な費用やオーナー関連費用を整理し、対象会社が本来持っている収益力を説明したいと考えます。また、将来の成長余地を価格に反映させたいと考えることもあるでしょう。
買主は、その利益が買収後も再現できるのか、追加の人員、運転資金、設備更新が必要になりはしないかを確認します。将来計画の中に、買主自身のシナジーがすでに織り込まれていないかどうかも、重要な確認点です。
そして、取締役、株主、金融機関、後継者などへの説明の場面では、どちらか一方に有利な数字ではなく、採用した前提、調整の理由、下振れ要因、評価レンジを示していく必要があります。
評価額を高くする調整と低くする調整を競い合うのではありません。どの前提なら、どの価値になり、その前提を何で裏付けられるかを整理すること。これが重要です。
専門家への相談を検討したい場面
次のような場合には、評価モデルを作り始める前に、正常収益力と事業計画の前提を整理しておく必要があります。
- 一過性損益や役員関連費用の金額が大きい
- オーナー経営者や特定の従業員への依存度が高い
- 主要顧客・仕入先への依存が大きい
- 直近期だけ利益率が大きく改善している
- 事業計画の初年度から売上や利益が急増している
- 売上計画はあるが、運転資本や設備投資の計画がない
- 設備の老朽化や更新時期を把握できていない
- 売主と買主で調整EBITDAの考え方が異なる
- ベース、アップサイド、ダウンサイドの境界が曖昧である
- 株主、金融機関、後継者などへの説明資料が必要である
専門家へ依頼する意味は、見せたい評価額に数字を合わせることではありません。
過去実績、会計処理、月次推移、事業構造、投資負担を確認したうえで、評価へ使える数字と、追加の確認が必要な数字とを切り分けていくこと。そこに意味があります。
正常収益力と事業計画を、説明できる価格判断へつなげるために
企業価値評価では、評価手法を選ぶ以前に、何を「継続的な利益」と考え、どの事業計画を「将来の前提」として採用するのかを決めなければなりません。
この判断が曖昧なままでは、DCF法であれ、マルチプル法であれ、計算結果だけが独り歩きしてしまいます。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、M&A、事業承継、資本政策、組織再編における企業価値評価について、過去実績の正常化、調整EBITDA、事業計画、運転資本、設備投資、シナリオの整理を含め、取引価格を判断するための前提づくりをご支援しています。
提示された評価額の前提を確認したい場合、自社の収益力を第三者へ説明できる状態にしたい場合、あるいは売主・買主の価格目線が合わない原因を整理したい場合は、犬飼公認会計士・税理士事務所HPのお問い合わせページからご相談ください。
このテーマの振り返り
| 確認する段階 | 中心となる判断論点 | 詳細コラム |
|---|---|---|
| 過去利益の確認 | 一過性・非経常的な損益を分け、継続的な収益力を把握する | 3-1 正常収益力とは何か |
| 評価用利益への調整 | 営業利益・EBITDAの調整内容と、買収後の費用構造を確認する | 3-2 調整EBITDA・調整営業利益 |
| 将来PLの検証 | 売上、粗利、固定費をKPI・事業実態・実行条件へ分解する | 3-3 売上・粗利・固定費の見方 |
| 利益からキャッシュへの接続 | 売掛金、在庫、買掛金など、事業に拘束される資金を確認する | 3-4 運転資本と資金繰り |
| 投資負担の確認 | 減価償却と実際の支出を区別し、維持更新投資を反映する | 3-5 設備投資・減価償却・維持更新投資 |
| 不確実性の整理 | ベース・アップサイド・ダウンサイドから価格判断の幅を考える | 3-6 事業計画のシナリオ設計 |
| テーマ全体の役割 | 過去実績を将来キャッシュ・フローへつなぎ、DCF・マルチプルの入力値を整える | 3-1から3-6まで順に確認する |