M&Aの検討でDCF法、マルチプル法、時価純資産法を用いると、それぞれ異なる評価結果が出ることがあります。
このとき問うべきなのは、「どの金額が正しいのか」だけではありません。
なぜその手法を採用したのか。それぞれの評価結果は、会社の何を見ているのか。評価額の幅は、どの前提から生じているのか。複数の結果が一致しないとき、その差をどう解釈するのか。そして最終的に、どのレンジを経営判断や取引判断の材料とするのか。
こうした点を整理しないまま、最も高い評価額、最も低い評価額、あるいは複数結果の単純平均を採用しても、後から説明できる判断にはなりません。
第7テーマ「評価手法の選択・併用・レンジ化」で扱うのは、DCF、マルチプル、純資産といった個別手法の計算方法ではありません。複数の評価結果をどのように読み、比較し、意思決定に使える判断レンジへ組み立てるかです。
第7テーマの役割|評価の「計算結果」を「判断材料」へ変える
第4テーマから第6テーマにかけて、DCFを中心とするインカム・アプローチ、マルチプルを中心とするマーケット・アプローチ、純資産・時価純資産を中心とするネットアセット・アプローチを整理してきました。
第7テーマは、その次の段階にあたります。それぞれの手法で評価額を算定した後、どの結果をどの程度重視し、どこまでを説明可能なレンジと考えるかを整理していきます。
ここで大切なのは、評価手法を増やすこと自体ではありません。
複数の手法を使ったとしても、評価対象、評価基準日、正常収益力、事業計画、非事業資産、有利子負債といった前提がそろっていなければ、結果を正しく比較することはできません。反対に、適合性の低い手法まで機械的に並べてしまうと、判断材料が増えるどころか、かえって論点が曖昧になることもあります。
評価手法の併用とは、数字を多数決にかけることではありません。
各手法が映し出している会社の姿を理解し、その違いを分析する作業です。
評価手法が違えば、見ている会社の姿も違う
インカム・アプローチは、対象会社が将来生み出す利益やキャッシュ・フローを中心に価値を捉えます。事業計画、成長性、収益性、設備投資、運転資本、事業リスクなどが、評価結果を大きく左右します。
マーケット・アプローチは、類似する上場会社やM&A取引について、市場でどのような価格付けが行われているかを参照します。対象会社の固有性だけでなく、市場環境、投資家の期待、比較対象との相対的な位置づけが結果に反映されます。
ネットアセット・アプローチは、評価基準日時点における資産・負債の実態を中心に価値を捉えます。不動産、保険積立金、有価証券、棚卸資産、簿外債務など、貸借対照表に関する確認が重要になります。
つまり、同じ会社を評価していても、各手法が見ている時間軸と価値の源泉は同じではないのです。
将来の収益力を見る評価、現在の市場価格を参照する評価、基準日時点の資産負債を見る評価。これらが常に同じ金額になるとは限りません。
評価結果の違いは、直ちに計算ミスを意味するものではありません。むしろ、その違いのなかに、事業計画への期待、市場との評価差、資産保有の厚み、収益性の低さ、未反映のリスクといった重要な情報が含まれていることがあります。
このテーマで整理する4つの判断
1.どの評価手法を採用するか
評価手法は、知名度や使いやすさだけで選ぶものではありません。
評価目的、評価対象、対象会社の事業特性、成長段階、収益の安定性、比較対象の有無、資産構成、継続性、利用できる資料の精度。こうした要素を踏まえて、何を主たる手法とし、何を補完的な手法とするかを判断していきます。
すべての案件でDCF、マルチプル、時価純資産を同じ比重で使う必要はありません。特定の手法が対象会社の価値形成要因に適合しない場合には、無理に採用しないこともまた、重要な判断です。
2.なぜ評価額を一つに決めず、レンジで示すのか
企業価値評価には、将来予測、市場データ、割引率、倍率、資産時価など、一定の判断を伴う前提が含まれます。
評価レンジは、評価人が結論を避けるための表現ではありません。どの前提に立てばどの価値となるのか、主要な前提が変わったときに評価額がどの程度動くのかを可視化するためのものです。
一方で、上下限を広く設定するだけでは、実務に使えるレンジにはなりません。下限と上限が、それぞれどの前提、どのシナリオ、どのリスク認識に基づくのかを説明できる必要があります。
3.複数手法の結果をどう統合するか
複数の評価結果が近い場合、その重複範囲は判断の手掛かりになります。ただし、重複したから正しい、重ならないから誤り、というものではありません。
結果が大きく異なる場合には、単純平均や機械的な重み付けを行う前に、差異の原因を分析する必要があります。
事業計画が市場の見方より楽観的なのか。類似会社の比較可能性が低いのか。純資産に含まれる資産が十分な収益を生んでいないのか。企業価値と株主価値が混在していないか。余剰現金や有利子負債の調整条件がそろっているか。
こうした確認を経ずに平均値を作っても、見かけ上の精密さが増すだけです。
4.評価結果をどう説明するか
最終的な評価判断は、結論の金額だけでは説明できません。
評価目的、評価基準日、利用資料、正常化調整、採用手法、採用理由、評価レンジ、感応度、複数手法の差異、未確認事項。これらを整理し、なぜその判断に至ったのかを示す必要があります。
取締役、株主、金融機関、後継者、社内関係者では、確認したい事項も異なります。
第7テーマの最後では、評価結果を計算書のまま渡すのではなく、意思決定資料として使える形へ整えるところまでを扱います。
総合評価には複数の考え方がある
日本公認会計士協会の「企業価値評価ガイドライン」では、総合評価の方法として、特定の評価法を用いる単独法、複数の評価レンジの重複等を考慮する併用法、複数結果に一定の割合を適用する折衷法が整理されています。
同ガイドラインは、各評価法にはそれぞれ長所と問題点があり、相互に補完する関係にあるとしたうえで、複数の視点から多面的に分析し、それぞれの結果を比較・検討して総合評価することが実務上一般的であるとしています。一方で、対象会社の価値形成要因を踏まえ、特定の評価法を単独で用いることが妥当な場合も想定しています。
つまり、「複数手法を必ず平均する」という考え方ではないということです。重要なのは、採用手法と総合評価方法について、対象会社の実態に即した理由があることです。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号 企業価値評価ガイドライン
詳細コラムの推奨読書順
第7テーマは、次の順番で読み進めていただくことで、手法選択から説明資料への接続までを一つの流れとして理解できます。
7-1.評価手法をどう選ぶか|DCF・マルチプル・純資産の使い分け
最初に読んでいただきたい記事です。
DCF、マルチプル、純資産のどれが優れた方法かを比べるのではなく、評価目的と対象会社の状況に応じて、どの手法が適合するかを整理します。
「M&AではDCFを使うべきなのか」「中小企業だから純資産法でよいのか」「類似会社が見つからないときにマルチプルを使えるのか」。such こうした疑問をお持ちの方は、まずこの記事からご確認ください。
この段階で手法選択の軸を持たないままでは、その後に示される評価レンジや複数結果を正しく読むことはできません。
7-2.評価レンジの読み方|評価額を一つに決めない理由
次に、評価結果が単一金額ではなく、幅を持って示される理由を整理します。
評価レンジは、単なる誤差の範囲でも、売主と買主の交渉幅でもありません。主要前提、感応度、シナリオ、複数手法の違いを踏まえて構築される、判断の幅です。
「評価額を一つに絞ってほしいと言われている」「下限と上限のどちらを基準にすべきか分からない」「レンジが広すぎて判断に使えない」。such そう感じている方に適した記事です。
7-3.複数手法の結果が違うとき|どの評価額をどう判断材料にするか
第7テーマの実務上の中心となる記事です。
DCF、マルチプル、時価純資産の結果が異なる場合に、数字を並べたり平均したりする前に、どのような差異分析が必要かを整理します。
各手法の前提、適合性、異常値、価値の捉え方を確認したうえで、どの結果を主たる判断材料とし、どの結果をクロスチェックとして扱うかを考えます。
「評価会社ごとに結論が違う」「手法ごとのレンジが重ならない」「重み付けの根拠を説明できない」。such こうした状況にある方は、この記事を重点的にご確認ください。
7-4.評価結果を意思決定資料にする方法|取締役・株主・金融機関に説明できる形へ
最後に、評価結果を実際の意思決定へ接続します。
評価書や株式価値算定書に金額が記載されていても、それだけでは、取締役会、株主、金融機関、後継者への説明資料として十分とは限りません。
採用手法、前提資料、評価レンジ、判断理由、未確認事項、利用上の留意点を整理し、「なぜこの価格判断をしたのか」を後から説明できる形へ整えていきます。
評価を依頼済みで、次に社内承認、株主説明、金融機関との協議を控えている方に適した記事です。
課題に応じて、どの記事から読むべきか
どの評価方法を使うべきか決められない場合
7-1から読み始めてください。
評価目的、収益力、比較可能性、資産価値、事業の継続性など、手法選択の前提を整理したうえで7-2へ進むと、評価レンジの意味を理解しやすくなります。
「評価額を一つにしてほしい」と求められている場合
7-2をご確認ください。
一つの金額へ絞ること自体が問題なのではありません。問題は、前提の不確実性を検討せず、便宜的に一点へ固定してしまうことです。まずは、レンジが生じる理由と、中心値を採用する場合に必要な判断を整理する必要があります。
DCF、マルチプル、純資産の結果が大きく違う場合
7-3が中心になります。
ただし、差異を分析する前提として、手法選択そのものが妥当かを確認する必要があります。7-1もあわせてお読みいただくことをおすすめします。
取締役会・株主・金融機関への説明を控えている場合
7-4へ進んでください。
その前に7-2と7-3を確認し、評価レンジの根拠と複数手法の差異を説明できる状態にしておくと、意思決定資料の説得力が高まります。
仲介会社から簡易的な評価額だけを示されている場合
7-1と7-2からご確認ください。
どの評価手法を使ったのか、評価対象は企業価値なのか株式価値なのか、正常収益力や有利子負債をどう扱ったのか、価格帯の前提は何か。これらを確認する必要があります。
評価額の数字そのものより、その数字が成立する条件を見ることが重要です。
詳細コラムへ進む前にそろえたい共通前提
複数の評価結果を比較するには、少なくとも比較の土台がそろっている必要があります。
まず、評価目的を明確にします。M&Aの取引判断、事業承継、自己株式取得、組織再編比率、内部意思決定では、問題となる価値も説明先も異なります。
次に、評価対象をそろえます。事業価値、企業価値、株主価値、株式価値が混在したままでは、評価額を横並びにすることはできません。
評価基準日も重要です。市場環境、業績、借入金、現預金、運転資本の状況が異なる時点の評価は、そのまま比較できないことがあります。
さらに、各手法で使用している財務数値について、正常収益力、一過性損益、役員関連取引、非事業資産、有利子負債、簿外債務などの扱いを確認します。
DCFの事業計画とマルチプルの基礎利益が異なる前提で作られていれば、評価額の差は手法の違いではなく、入力情報の違いから生じている可能性があります。
複数の評価額を比較する前に、同じ会社を、同じ時点で、同じ価値概念により評価しているかを確認する。
これが、第7テーマを理解するための出発点です。
評価レンジと取引価格を混同しない
第7テーマで構築するのは、評価前提に基づく説明可能な価値レンジです。
これは、売主の希望価格と買主の提示価格の間を示す交渉レンジとは異なります。
実際の取引価格には、シナジー、競争環境、DD発見事項、支払条件、ネットデット、正常運転資本、アーンアウト、表明保証、補償などが影響します。これらは第9テーマ「取引価格・交渉・価格調整」で扱います。
また、親族間・同族関係者間の取引、自己株式取得、少数株主からの買取り、組織再編などでは、M&A上の評価レンジだけでなく、税務上の時価や会社法上の公正価格を別途検討すべき場合があります。これらは第8テーマの対象です。
評価結果を一つの数字に統合する前に、何のための価値を求めているのかを見失わないことが重要です。
「手法や価格帯は一つではない」と説明できることが重要
中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」では、バリュエーションを行う際、評価手法や前提条件を事前に説明し、手法や価格帯について依頼者の納得を得ることが必要とされています。
その際、示された評価手法や価格帯が唯一のものではないことを明示し、なぜその案件において適切なのかを具体的に説明することも求められています。
これは、評価額が自由に決められるという意味ではありません。複数の選択肢があるからこそ、採用した手法、前提、レンジについて、案件の実態に即した理由が必要になるということです。
出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)
このテーマを読み終えた後の到達点
第7テーマを通じて目指すのは、自ら複雑な評価モデルを作れるようになることだけではありません。
専門家や仲介会社から示された評価結果に対して、次のような問いを持てる状態になることです。
- なぜこの評価手法を採用したのか
- どの前提が評価額を大きく動かしているのか
- 評価レンジの上下限は何を意味しているのか
- 複数手法の結果が違う理由を説明できるか
- 単純平均や重み付けの根拠は明確か
- どの結果を主たる判断材料とし、どれをクロスチェックとしているか
- 取引価格として判断する前に、何を追加確認すべきか
- 取締役、株主、金融機関にどのように説明するか
これらに答えられれば、評価額は単なる参考数字ではなく、交渉、意思決定、説明責任を支える経営判断インフラになります。
評価結果を「並べた資料」から「判断できる資料」へ
複数の評価手法を使って金額を算定することと、その結果から意思決定に使えるレンジを構築することは、別の作業です。
特に、次のような状況では、評価前提と結果の関係を一度整理する必要があります。
- DCFとマルチプルの結果が大きく異なる
- 時価純資産を下限としてよいのか判断できない
- 評価手法の重み付けに明確な根拠がない
- 仲介会社から示された概算額をどこまで信頼してよいか分からない
- 取締役、株主、金融機関への説明を控えている
- 税務上の時価や会社法上の評価も関係する可能性がある
犬飼公認会計士・税理士事務所では、評価額の算定だけでなく、評価目的と対象の整理、手法選択、複数結果の差異分析、評価レンジの構築、取引価格との切り分け、意思決定資料への落とし込みまで、個別の事情に応じて検討します。
既に評価書や簡易査定がある場合でも、その前提と判断根拠を整理することで、次に確認すべき事項が明確になることがあります。
この記事の振り返り
| 重要事項 | 要点 |
|---|---|
| 第7テーマの役割 | 個別手法の計算ではなく、複数の評価結果を判断材料へ統合する |
| 手法ごとの違い | DCF、マルチプル、純資産では、見ている時間軸と価値の源泉が異なる |
| 手法選択 | 評価目的、会社の状況、資料の精度、収益力、比較可能性、資産構成から判断する |
| 複数手法の併用 | 数字の多数決ではなく、相互補完とクロスチェックのために行う |
| 評価レンジ | 曖昧さではなく、前提条件と感応度による説明可能な価値の幅 |
| 差異分析 | 平均する前に、事業計画、比較対象、資産負債、価値概念等の違いを確認する |
| 重み付け | 機械的に決めず、各手法の適合性と信頼性に基づく理由を示す |
| 取引価格との関係 | 評価レンジと交渉価格・最終取引価格は区別する |
| 説明責任 | 採用手法、資料、前提、レンジ、判断理由、留意事項を説明できる形にする |
| 推奨読書順 | 7-1 手法選択 → 7-2 レンジ → 7-3 結果統合 → 7-4 意思決定資料 |