相続対策を考えるとき、多くの方は「相続税を下げる方法」「生前贈与」「遺言」「家族信託」といった制度名から検討を始めがちです。
しかし、高齢期の相続対策では、制度を選ぶ前に確認しておくべきことがあります。
ご本人が自分の意思で判断できる状態にあるか。今後の財産管理を、誰がどの範囲で担うのか。そして、実行した対策が将来の遺産分割・相続税申告・税務調査に耐えられるものかどうか。この三点です。
認知症や判断能力の低下が関わる場面では、「使える制度を探す」だけでは足りません。ご本人の意思を尊重しながら、贈与、遺言、不動産売却、金融資産の管理、同族会社株式の承継、さらには施設費・介護費・納税資金の確保まで、時間軸を踏まえて整理していく必要があります。
この第十五テーマでは、認知症、意思能力、遺言能力、贈与能力、成年後見、任意後見、財産管理委任、見守り契約、死後事務委任、家族信託、金融機関対応、不動産処分を、相続対策の入口として整理します。
このテーマの中心メッセージ
高齢期の相続対策では、「節税できるか」より先に、「ご本人が理解し、納得し、意思を示せる状態で行われているか」を確認しなければなりません。
民法上、法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有していなかったときは、その法律行為は無効となります。贈与契約、不動産売買、家族信託契約、任意後見契約は、いずれも本人の意思能力が問われ得る法律行為です。
出典:e-Gov法令検索|民法
また、認知症施策推進基本計画では、認知症の人を単に支援の対象として捉えるのではなく、尊厳ある個人として尊重し、ご本人の意思により日常生活・社会生活を営むことができる共生社会を目指す考え方が示されています。高齢期の財産管理や相続対策も、この「本人意思の尊重」という発想と切り離して考えるべきではありません。
出典:厚生労働省|認知症施策推進基本計画
このテーマで扱うのは、認知症そのものの医療判断ではありません。医療・介護・法務・税務・家族関係が交わる場面で、相続対策として何を確認し、どの制度を比較し、どの段階で専門家に相談すべきか。その実務上の論点地図です。
高齢期の相続対策で起こりやすい誤解
高齢期のご相談でよく耳にするのが、「認知症になる前に家族信託を作ればすべて解決する」「任意後見契約を結んでおけば相続対策も自由にできる」「成年後見人がつけば相続税対策も進められる」といった受け止め方です。
実際には、それぞれの制度に役割と限界があります。
家族信託は、信託した財産について管理・処分・承継の設計をしやすくする手段です。ただし、ご本人の身上監護や信託外財産の管理までをすべてカバーする制度ではありません。
任意後見は、ご本人に判断能力のある段階で将来の後見人候補を選び、判断能力の低下に備える制度です。もっとも、実際に効力が発生する場面や監督の仕組みを理解しておく必要があります。
法定後見は、ご本人の保護を中心に据えた制度です。相続税対策や積極的な資産活用を当然に進められる制度ではありません。
任意後見、財産管理契約、見守り契約、死後事務委任契約、遺言、信託契約、成年後見制度は、いずれもご本人の認知能力・判断能力の状態に応じて選択する制度です。認知症の前段階や軽度認知障害の段階では財産管理契約や任意後見契約を検討できますが、判断能力が大きく低下した段階では法定後見制度が中心になります。
制度名だけを見て選んでしまうと、ご本人の意思、財産の種類、家族関係、税務上の説明可能性が置き去りになりかねません。
このテーマで理解できること
このテーマを読み進めることで、高齢期の相続対策を「制度の寄せ集め」ではなく、「本人意思・能力・財産管理・承継・税務申告をつなぐ判断」として整理できるようになります。
まず、認知症や判断能力の低下が、贈与、遺言、契約、不動産売却、預金引出しにどう影響するのかを理解します。次に、成年後見、任意後見、財産管理委任、見守り契約、死後事務委任、家族信託の役割を比較します。そして最後に、相続対策の相談に臨む前に、ご本人の意思、診断状況、財産一覧、管理者、既存契約、金融機関対応をどう整理しておくべきかを確認します。
とりわけ重要なのは、相続発生前の対策と相続発生後の申告実務を、分断して考えないことです。
認知症が疑われる段階で行った贈与や預金引出しは、後日の相続税申告において、名義財産、贈与認定、使途不明金として問題になることがあります。不動産の売却や賃貸物件の管理は、ご本人の意思だけでなく、権限、契約、登記、金融機関対応、納税資金にも影響します。遺言や信託は、相続税の特例、遺留分、二次相続、財産評価の根拠とも接続していきます。
まず押さえるべき制度環境の変化
成年後見制度と遺言制度については、令和8年6月24日に「民法等の一部を改正する法律」が公布されています。
参議院の議案要旨では、高齢化の進展等を背景に、成年後見および遺言の制度を国民がより利用しやすくする観点から、後見・保佐制度の廃止、補助制度の対象拡大、保管証書遺言の創設、自筆証書遺言等の押印要件廃止、任意後見契約に関する法律の見直しなどが掲げられています。施行は、原則として公布の日から起算して2年6月を超えない範囲内において政令で定める日とされています。
出典:参議院|民法等の一部を改正する法律案
そのため、2026年7月時点の実務では、現行制度を前提に判断しながらも、今後の施行日、経過措置、そして登記・公証・家庭裁判所・金融機関の実務運用を確認していく姿勢が欠かせません。
このテーマの記事では、詳細コラムごとに、現行制度に基づく判断軸を示しつつ、制度改正によって確認が必要となる論点にも適宜触れていきます。
推奨する読み進め方
第十五テーマは、15-1から15-8までを順に読むことで、高齢期の相続対策の全体像から相談前の整理まで進められる構成にしています。
まず、15-1で認知症と相続対策の入口を確認し、15-2で意思能力・遺言能力・贈与能力の基本を押さえます。次に、15-3で成年後見制度の役割と限界を理解し、15-4で任意後見・財産管理委任・見守り契約を比較します。
そのうえで、15-5で家族信託の基本を確認し、15-6で家族信託・遺言・任意後見の役割分担を整理します。15-7では、認知症が疑われる場合の贈与、不動産売却、預金引出しといったリスクの高い行為を確認し、最後に15-8で相談前に整理すべき情報をまとめます。
制度の名前をすでにご存じの方でも、できれば15-1から順に読み進めていただくことをお勧めします。高齢期の相続対策では、制度の比較よりも前に、本人意思と判断能力の確認が前提になるからです。
15-1. 認知症と相続対策で最初に確認すべきこと
15-1は、このテーマの入口にあたります。
親の判断能力に不安が出てくると、相続対策を急ぎたくなるものです。しかし、最初に確認すべきなのは「どの制度を使うか」ではありません。ご本人の意思、日常生活の状況、財産管理の現状、そして家族がどのように関与しているかです。
このコラムでは、認知症が相続対策に与える影響を、贈与、遺言、契約、不動産管理、預金管理の入口として整理します。医学的診断の詳細に踏み込むのではなく、相続対策の実務で何を確認すべきかに焦点を当てます。
親の財産を動かしたい、遺言を作りたい、家族信託を検討したい、相続税対策を進めたい。そうお考えの方は、まずここから読んでいただくと、以後の制度比較の前提がつかみやすくなります。
15-2. 意思能力・遺言能力・贈与能力の基本
15-2では、能力判断の基本を扱います。
高齢期の相続対策では、「認知症でも遺言できるのか」「軽度認知障害なら贈与できるのか」「診断書があれば大丈夫なのか」といった疑問が生じます。ここで重要になるのは、行為ごとに必要な能力が異なるという点です。
贈与契約、不動産売買、家族信託契約、任意後見契約、遺言。これらはそれぞれ法律上の性質が異なります。そのため、ご本人がどの内容を理解し、どの結果を受け入れて意思表示していたのかを、行為ごとに確認する必要があります。
任意後見契約については、ご本人が健常なうちに、判断能力低下後の財産管理等について代理権を付与する契約であり、公正証書によることが求められます。意思能力に疑いがある場合には、医師の診断記録や介護記録などの確認が重要になります。
このコラムは、遺言、贈与、任意後見、信託を検討する前に読んでおきたい基本記事です。
15-3. 成年後見制度の基本と相続対策への影響
15-3では、法定後見制度を中心に整理します。
現行の法定後見制度には、ご本人の状態に応じて補助、保佐、後見の3類型が用意されています。家庭裁判所によって選ばれた成年後見人等が、ご本人の利益を考えながら契約等の法律行為を代理し、また同意・取消しによってご本人を保護・支援する仕組みとされています。
出典:厚生労働省|成年後見はやわかり 法定後見制度とは
ただし、成年後見制度は、あくまで本人保護と財産保全を中心とする制度です。相続税を下げるための贈与、積極的な不動産活用、相続人間の公平調整を目的とする対策が、当然に認められるわけではありません。
また、ご本人の居住用不動産を処分する場合には、家庭裁判所の許可が必要になる場面があります。裁判所は、ご本人が現在施設等に入所している場合であっても、将来居住する可能性がある場合や入所前に居住していた場合などを含めて、居住用不動産として扱うことがあると説明しています。
出典:裁判所|成年被後見人(被保佐人、被補助人)の居住用不動産の処分についての許可
このコラムでは、後見制度を使えば何でもできるわけではないこと、そして相続対策としては早めの準備が重要であることを確認します。
15-4. 任意後見・財産管理委任・見守り契約の使い分け
15-4では、生前の財産管理を支える契約を比較します。
判断能力がある段階であれば、財産管理委任契約、見守り契約、任意後見契約、死後事務委任契約などを組み合わせることで、ご本人の生活と財産管理に備えることができます。
財産管理委任契約は、身体が不自由になった、金融機関や役所に行くことが難しくなったといった場面で、判断能力が残っているご本人が財産管理を任せる仕組みとして検討されます。見守り契約は、定期連絡や訪問によってご本人の健康状態や判断能力の変化を把握し、任意後見契約へ移行する時期を見極める役割を担います。
任意後見契約については、任意後見監督人が選任される前の解除なども含めて、任意後見契約に関する法律に定めがあります。
出典:e-Gov法令検索|任意後見契約に関する法律
このコラムでは、「任意後見を作るかどうか」だけでなく、いつから誰が何を支援するのか、任意後見が発効するまでの空白期間をどう埋めるのかを整理します。
15-5. 家族信託を相続対策で使う場合の基本
15-5では、家族信託の基本を扱います。
家族信託は、委託者、受託者、受益者、信託財産を設計し、特定の財産について管理・処分・承継の仕組みを作る制度です。賃貸不動産、自宅、同族会社株式、金融資産と、財産の種類によって検討すべき論点は変わってきます。
家族信託は、認知症による資産凍結への備えとして注目されますが、万能ではありません。信託した財産については柔軟な管理を設計できる一方、信託していない財産、ご本人の生活・療養看護、税務申告、遺留分、受託者の監督といった論点は、別途検討が必要になります。
民事信託には、遺言や後見を補充し、その一部を代替する機能があります。その一方で、財産管理の範囲や受託者の責任、信託外財産の管理まで含めて考えなければなりません。
このコラムは、「家族信託で何ができるのか」を知りたい方はもちろん、「家族信託を使うべきではない場面」を見極めたい方にとっても重要な内容です。
15-6. 家族信託・遺言・任意後見の役割分担
15-6では、制度同士の役割分担を整理します。
家族信託、遺言、任意後見は、それぞれ似た目的で語られることがありますが、同じ制度ではありません。
遺言は、原則として死後の財産承継を定める手段です。任意後見は、判断能力が低下した後の本人保護と財産管理を支える制度です。そして家族信託は、信託した財産について、生前管理と死後承継を設計しやすくする仕組みです。
認知症対策では、任意後見契約と家族信託のどちらを使うか、あるいは併用するかを検討する必要があります。任意後見契約の方が本人保護の範囲は広い一方、財産管理の自由度は家族信託の方が高い、という整理もあります。
このコラムでは、「家族信託か、任意後見か」という二択で考えるのではなく、本人保護、財産管理、死後承継、身上監護、税務申告、受託者リスクを分けて考える視点をお示しします。
15-7. 認知症が疑われる場合の贈与・不動産売却・預金引出し
15-7では、トラブルになりやすい行為を扱います。
高齢の親の生活費や施設費を支払うために、家族が預金を引き出す。相続税対策として、子や孫に贈与する。不動産を売却して介護費に充てる。こうした行為には必要性が認められる場面もありますが、ご本人の意思と権限が曖昧なまま進めてしまうと、後日大きな問題になりかねません。
認知症によりご本人の判断能力が著しく低下している場合には、成年後見制度を利用し、法定代理人が対応することが基本になります。また、親が存命中の預貯金取引履歴については、ご本人の同意や個人情報保護の問題もあり、家族であっても当然に入手できるとは限りません。
このコラムでは、贈与、不動産売却、預金引出しを「家族だから大丈夫」と考えず、本人意思、代理権、記録、税務調査、親族間紛争という観点から整理します。
15-8. 高齢期の相続対策相談前に整理すべき情報
15-8は、第十五テーマのまとめにあたる記事です。
高齢期の相続対策のご相談では、制度の説明を受ける前に、ご本人の意思、診断状況、財産一覧、管理者、家族関係、既存契約、遺言、金融機関対応を整理しておくことが重要です。
とりわけ、診断書、介護認定資料、認知機能検査、ご本人の行動記録、通帳管理者、過去の贈与、預金引出し、不動産の利用状況、生命保険の受取人、既存の遺言・任意後見・信託契約。これらは相談の精度を大きく左右します。
任意後見契約や財産管理契約では、後日、契約時の判断能力や契約意思が争われる可能性があります。そのため、医師の診断記録、介護保険サービスの認定票や提供記録、認知機能検査結果、ご本人の行動記録などを整理しておくことが、説明可能性を高めるうえで重要になります。
このコラムは、親の相続対策を相談したい方、すでに家族が財産管理をしている方、遺言・信託・後見のどれを選ぶべきか迷っている方に向けた、相談前整理の記事です。
他テーマとのつながり
第十五テーマは、相続税対策の特殊論点ではありません。相続対策全体の前提となるテーマです。
生前贈与を検討する場合は、第4テーマの「生前贈与と相続時精算課税・みなし贈与」と接続します。ご本人の意思能力や贈与の証拠が不十分であれば、将来の相続税申告で名義財産や贈与否認の問題が生じます。
遺言や遺産分割を検討する場合は、第5テーマの「遺言・遺産分割・遺留分と課税関係」と接続します。遺言能力、遺留分、特別受益、寄与分、配偶者居住権、未分割申告まで含めて考える必要があります。
不動産がある場合は、第8テーマの「不動産承継・土地分割・共有・登記」と接続します。ご本人が自宅に住み続けるのか、施設入所後に売却するのか、賃貸物件を誰が管理するのか、共有化を避けるのか。いずれも高齢期の財産管理と直結する論点です。
生命保険や名義預金がある場合は、第12テーマの「生命保険・金融資産・名義財産」と接続します。保険料負担者、受取人、名義預金、預金引出し、資金移動の説明可能性が重要になります。
納税資金や相続税申告を見据える場合は、第13テーマ・第14テーマと接続します。ご本人の財産管理の仕組みを整えても、相続発生後に納税資金が不足したり、申告資料が足りなかったりすれば、対策としては不十分です。
このテーマで避けたい短絡的な判断
高齢期の相続対策では、次のような判断は慎重に避けるべきです。
「認知症になる前に急いで贈与すればよい」という判断は、本人意思や贈与契約の成立、相続税申告での説明可能性を欠くおそれがあります。
「家族信託を作れば後見は不要」という判断は、信託外財産や身上監護、本人保護の範囲を見落とす可能性があります。
「任意後見を結んだから相続税対策も自由にできる」という判断は、任意後見の目的と本人保護の考え方を誤解している可能性があります。
「親族だから預金を動かしても問題ない」という判断は、使途不明金、名義財産、贈与、横領疑義、相続人間の紛争につながることがあります。
「成年後見人がつけば不動産を自由に売れる」という判断も危険です。ご本人の居住用不動産の処分には家庭裁判所の許可が必要となる場面があり、処分の必要性やご本人の生活状況が問われます。
このテーマでは、制度を否定するのではなく、制度を正しく使うための前提を整理します。
相談前に持っておきたい視点
高齢期の相続対策のご相談では、最初から完璧な結論を出す必要はありません。
むしろ重要なのは、ご本人の意思、判断能力、財産、家族関係、税務リスクについて、分からない点を分からないままにせず、専門家と一緒に確認できる状態にしておくことです。
ご相談の前に、ご本人が何を望んでいるか、診断や介護認定の状況、財産一覧、誰が何を管理しているか、過去の贈与や預金引出し、既存の遺言・任意後見・信託契約、不動産や保険の状況を、大まかにでも整理しておく。それだけで、相談の質は大きく変わります。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、高齢期の相続対策について、相続税額だけでなく、本人意思、判断能力、財産管理、贈与履歴、遺言・信託・後見の役割分担、そして将来の相続税申告と税務調査での説明可能性まで含めて整理します。
親の判断能力に不安がある。すでに家族が財産管理をしている。家族信託や任意後見を検討している。贈与や不動産売却を進めてよいか迷っている。このような課題をお持ちの場合は、現在分かる範囲の資料を整理したうえで、ぜひご相談ください。
重要ポイントの振り返り
| 振り返り項目 | このテーマでの位置づけ | 次に読むべき詳細コラム |
|---|---|---|
| 認知症と相続対策の入口 | 制度選択の前に、本人意思・財産管理・家族関係を確認する | 15-1 |
| 意思能力・遺言能力・贈与能力 | 贈与、遺言、契約、不動産売却の前提となる | 15-2 |
| 成年後見制度 | 本人保護と財産保全を中心に考える制度 | 15-3 |
| 任意後見・財産管理委任・見守り契約 | 判断能力低下前後の支援を段階的に設計する | 15-4 |
| 家族信託 | 信託財産の管理・処分・承継を設計する手段 | 15-5 |
| 家族信託・遺言・任意後見の役割分担 | 生前管理、死後承継、身上監護、税務を分けて考える | 15-6 |
| 贈与・不動産売却・預金引出し | 本人意思、権限、記録、税務調査リスクが問題になる | 15-7 |
| 相談前整理 | 本人の意思、診断状況、財産、管理者、既存契約を整理する | 15-8 |