企業価値評価で最初に検討すべきことは、DCF法を使うか、マルチプル法を使うか、時価純資産法を使うか、ではありません。
手法を選ぶ前に、答えを出しておくべき問いがあります。
何を評価するのか。 いつの時点で評価するのか。 どの資料を根拠とするのか。 決算書の数字を、どこまで実態として受け止められるのか。 評価に影響する未整理の社内論点は残っていないか。
同じ会社を評価する場合でも、会社全体を対象とするのか、一部の事業だけを対象とするのかによって、評価へ入力する情報は変わります。直近期末を基準日とするのか、それとも数か月後の月次情報まで反映するのか。この違いだけでも、結論は動き得ます。
決算書上は同じ利益が計上されていても、会計方針、収益認識、引当金、在庫評価、役員関連取引といった前提が異なれば、継続的な収益力に対する見方は変わってきます。
第2テーマ「評価対象と前提資料の整理」は、評価手法を学ぶ前に、評価へ入力する数字と事実を、意思決定に使える状態へ整えるためのテーマです。
このテーマで理解できること
このテーマで整理するのは、評価計算そのものではありません。計算を始める前に必要となる、次の5つの判断です。
1つ目は、会社、事業、株式、一部持分、個別資産・負債のうち、何を評価対象とするか。
2つ目は、どの時点の会社を評価し、直近決算、月次試算表、予算、事業計画、後発事象をどこまで反映するか。
3つ目は、決算書に表れた利益や純資産を、そのまま企業価値評価に使えるか。
4つ目は、評価相談や社内検討に向けて、どの資料を優先して準備すべきか。
5つ目は、株主、役員貸付金・役員借入金、金融機関借入、保証、関連当事者取引、非事業資産、簿外債務など、評価前に棚卸ししておくべき社内論点が残っていないか。
これらを順に整理することで、評価額は単なる「計算結果」ではなくなります。交渉、取締役会での判断、株主説明、金融機関への説明、後継者との協議に使える判断材料へと変わっていきます。
評価手法より先に、評価の前提を整える
企業価値評価は、与えられた数字を計算式へ入れれば自動的に答えが出るものではありません。
利用する資料が変われば、評価結果も変わります。資料の信頼性に疑義があれば、評価結果の確からしさも変わります。未確認事項が多ければ、一つの金額としてではなく、前提ごとに異なる評価レンジとして示す必要が出てきます。
日本公認会計士協会の「企業価値評価ガイドライン」でも、評価業務で提供された情報を無批判に使用するのではなく、その有用性・利用可能性を検討し、慎重さや批判性を発揮して分析する必要があると整理されています。同ガイドラインは法的拘束力のある会計基準ではありませんが、2026年4月30日現在の日本公認会計士協会の研究報告一覧にも、経営研究調査会研究報告第32号として掲載されています。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号「企業価値評価ガイドライン」の改正について
出典:日本公認会計士協会|実務指針等公表物一覧-研究報告
もっとも、評価実務でいう「資料の確認」は、財務諸表監査と同じ水準で、すべての数字の真実性・正確性・網羅性を保証することを意味するものではありません。
一方で、著しく不合理な前提や、資料間の矛盾に気づきながら、そのまま採用してよいということでもありません。提供された資料が評価に使えるものかどうかを判断し、必要に応じて訂正、再提出、追加説明を求める。この姿勢が欠かせません。
評価手法の選択についても同じことがいえます。会社の特性だけでなく、利用できる情報の質と量が影響してきます。精緻な事業計画がない会社に、形式だけ整えたDCF法を適用しても、説明力の高い評価になるとは限りません。反対に、帳簿価額と実態価値の差が大きい会社について、資産・負債の確認を行わないまま収益倍率だけを見るのも、やはり不十分です。
第2テーマの論点地図
第2テーマは、次の順序で評価前提を組み立てていきます。
評価対象を決める → 評価基準日と利用資料を決める → 会計数値と財務実態の差を確認する → 必要資料を揃える → 社内の未整理論点を棚卸しする
この順序には意味があります。
評価対象が決まらなければ、必要な資料を選べません。基準日が決まらなければ、どこまでの月次実績や後発事象を反映するかも決まりません。
そして、利用資料が決まったとしても、その数字が実態を表しているとは限りません。財務実態を確認して初めて、追加で必要な資料や社内論点が見えてきます。
以下の5つの詳細コラムは、この流れに沿って役割を分けています。
2-1. 評価対象をどう決めるか|会社全体・事業・株式・一部持分の切り分け
最初に読んでいただきたい記事です。
「会社の価値を知りたい」という言葉だけでは、評価対象は十分に特定されていません。
会社全体の事業価値を知りたいのか、株主に帰属する株式価値を知りたいのか。一部の事業だけを売却するのか、100%の株式を譲渡するのか、少数持分だけを評価するのか。それによって、対象となるキャッシュ・フロー、資産、負債、権利内容が変わります。
この詳細コラムでは、会社全体、事業単位、株式、持分割合、譲渡対象となる資産・負債を、どのように切り分けるかを整理します。
次のような方は、まずこの記事から読み進めてください。
- 「企業価値」「株式価値」「譲渡価格」という言葉を同じ意味で使っている
- 株式譲渡と事業譲渡で、何を評価するのかが分からない
- 100%取得と一部取得で、価値の見方がどう変わるか整理できていない
2-2. 評価基準日と利用資料|いつの会社を、どの数字で評価するのか
評価対象の次に決めるのが、評価基準日です。
企業価値は、特定の時点における事業環境、財務状態、将来見通しを前提に判断されます。直近期末の決算書を使うのか、進行期の月次実績まで反映するのか、直近の予算や事業計画をどこまで採用するのか。この選択によって、評価結果は変わります。
また、評価基準日の後に発生した大型受注、主要取引先の離脱、災害、訴訟、資金調達、設備投資などを、どのような位置づけで確認するか。ここも重要な論点です。
この詳細コラムでは、直近決算、月次試算表、事業計画、予算、後発事象の関係を整理し、「いつの会社を、どの数字で評価したのか」を説明できる状態を目指します。
次のような疑問をお持ちの方に適した内容です。
- 決算から半年以上経過しているが、直近期決算を使ってよいのか
- 月次試算表と決算書の数字がつながっていない
- 評価基準日後の重要な変化を反映すべきか分からない
2-3. 決算書だけでは見えない財務実態|評価前に確認すべき数字の前提
決算書は、企業価値評価の重要な出発点です。
ただし、決算書に記載された利益や純資産が、そのまま正常収益力や実態価値を表しているとは限りません。会計方針、収益・費用の計上時期、引当金、棚卸資産、固定資産、関連当事者取引といった前提によって、同じ事業実態であっても会計数値の見え方は変わってきます。
また、社内の経理体制や内部統制の整備状況は、開示される財務情報の信頼性そのものにも影響します。評価に入る前に、重要な会計方針、オフバランス項目、会議体の議事録、外部調査や税務調査の結果などを通じて、重点的に確認すべき領域を把握しておく必要があります。
この詳細コラムは、粉飾調査や不正調査の手順を扱うものではありません。企業価値評価の入力値として、決算書上の数字をどこまで採用し、どの論点に留保や調整が必要かを考えるための入口です。
次のような方は、このコラムを優先してお読みください。
- 利益は出ているが、資金繰りは厳しい
- 役員報酬やオーナー関連費用が利益を歪めている可能性がある
- 在庫、売掛金、固定資産の帳簿価額に違和感がある
- 決算書と事業の実感が一致していない
2-4. 評価に必要な資料一覧|相談前に整理しておきたい決算・月次・契約・資金資料
評価相談では、資料が多ければ多いほどよい、というものではありません。
重要なのは、評価目的と評価対象に照らして、どの資料が何の判断に使われるのかを明確にすることです。
決算書や税務申告書は、過去実績を確認するために使います。月次試算表や予算実績比較は、直近の業績動向を確認するために使います。借入一覧や資金繰り表は、負債とキャッシュ・フローの前提を整理するために使います。重要契約、株主名簿、事業計画は、評価対象、収益の継続性、将来見通しを確認するうえで欠かせません。
実務上お願いする資料は、財務諸表にとどまりません。月次試算表、勘定科目明細、固定資産台帳、設備投資計画、借入契約、税務申告書、定款、株主名簿、重要契約、許認可、事業別業績資料など、複数の領域にまたがります。
この詳細コラムでは、資料様式やデータルームの具体的な運用手順には踏み込みません。相談前に何を準備し、何が不足しているかをどのように伝えるべきかを整理します。
次のような方に向いた内容です。
- 専門家へ相談する前に、何を揃えればよいか分からない
- 資料はあるが、部署や保管場所が分散している
- すべて揃うまで相談できないと思っている
- 評価に必要な資料と、DDで求められる資料を混同している
2-5. 評価前に整えるべき社内論点|株主・役員・借入・関連当事者・非事業資産
第2テーマの最後に読んでいただく記事です。
評価対象、基準日、利用資料、財務実態を確認していくと、計算に入る前に社内で整理すべき論点が見えてきます。
- 株主名簿と実際の株主構成は一致しているか
- 役員貸付金・役員借入金を、取引時にどう扱うか
- 金融機関借入、担保、経営者保証はどうなるか
- 関連当事者取引は、M&A後も同じ条件で継続できるか
- 余剰現金や遊休不動産を、事業価値とは別に扱うべきか
- 未払債務、保証、退職給付、訴訟など、決算書に十分表れていない負担はないか
これらは、必ずしも評価前にすべて解消できるとは限りません。
重要なのは、まず存在を把握すること。そのうえで、評価額へ反映するもの、取引前に整理するもの、契約条件で対応するものを分けて考えることです。
中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」でも、M&Aに向けた事前準備として、株式や事業用資産等の「見える化」「磨き上げ」が位置づけられています。2026年2月公表の中小企業庁資料においても、2024年8月に公表された第3版について、登録支援機関に引き続き遵守が求められていることが確認できます。
出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン 出典:中小企業庁|令和8年度 中小M&A支援の実態把握に関する事業
推奨する読む順番は「2-1から2-5まで」
第2テーマは、原則として次の順番でお読みいただくことを推奨します。
2-1 → 2-2 → 2-3 → 2-4 → 2-5
最初に評価対象を定め、次に基準日と利用資料を決めます。そのうえで、会計数値と実態の差を確認し、必要資料を揃え、最後に社内論点を棚卸しする、という流れです。
この順番を逆にすると、必要以上に資料を集めてしまったり、評価対象に含まれない資産・負債まで検討してしまったり、基準日の異なる数字を混在させてしまったりしやすくなります。
一方で、すでに課題が明確になっている場合は、該当するコラムから読み始めていただいて構いません。
提示された評価額が何の価値を示しているか分からない場合は、2-1。
直近期決算と足元業績のどちらを使うか迷っている場合は、2-2。
決算書の利益や純資産をそのまま信頼してよいか不安な場合は、2-3。
評価相談を予定しているが資料準備が進んでいない場合は、2-4。
株主、役員貸借、借入、保証、非事業資産が未整理の場合は、2-5が入口になります。
このテーマで扱わないこと
第2テーマは、財務デューデリジェンスそのものを解説するテーマではありません。
DDの調査手続、サンプリング、インタビュー方法、報告書作成、契約書レビュー、不正調査の詳細は扱いません。
また、DCF法の計算、EBITDA倍率の選定、時価純資産の具体的な評価方法にも踏み込みません。これらは後続テーマで扱います。
第2テーマの役割は、それらの評価手法へ入る前に、入力情報の範囲、時点、信頼性、未確認事項を整えることにあります。
DDで後から新たな事実が判明すれば、評価前提や価格判断は更新されます。その意味で、評価前の整理はDDの代替ではありません。
しかし、評価前提が整理されていれば、DDで発見された事項が、正常収益力、純資産、ネットデット、価格調整、契約条件のどこに影響するかを判断しやすくなります。
このテーマを読んだ後に進む論点
第2テーマを読み終えた後は、第3テーマ「正常収益力と事業計画」へ進みます。
第2テーマで整理するのは、「どの数字を評価に使えるか」でした。第3テーマでは、その数字をもとに、「会社が継続的にどれだけ稼げるか」「将来キャッシュ・フローをどのように見積もるか」を整理していきます。
直近期の利益が一時的なものではないか。
役員報酬や関連当事者取引をどう調整するか。
売上、粗利、固定費、運転資本、設備投資を、どう将来計画へつないでいくか。
こうした正常収益力と事業計画の論点は、評価対象と基礎資料が定まって初めて検討できるものです。
資料が揃っていないことより、揃っていない資料を把握していないことが問題になる
実務では、評価開始の時点ですべての資料が揃っているとは限りません。
月次決算を行っていない。事業別損益を作成していない。古い契約書が見つからない。株主名簿が更新されていない。役員貸付金の発生経緯を説明できない。事業計画が社長の頭の中にしかない。
こうした状態であっても、直ちに評価が不可能になるわけではありません。
ただし、不足資料や未確認事項が評価へ与える影響を明確にしないままでは、評価額を過信することになります。
不足している資料が、評価結果をほとんど動かさないものなのか。
評価レンジを大きく広げるものなのか。
取引価格を判断する前に、必ず確認すべき事項なのか。
価格ではなく契約条件で対応すべき事項なのか。
この優先順位を付けることも、評価前提を整える作業の一部です。
評価対象と資料の整理に迷った段階で、相談する意味がある
企業価値評価の相談は、資料が完全に揃い、希望価格が固まってから行うものとは限りません。
むしろ、何を評価すべきか分からない、決算書と月次資料のどちらを使うべきか迷っている、社内論点が価格へどう影響するか整理できていない。そうした段階でこそ、専門家へ相談する意味があります。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、M&A・事業承継・資本政策・組織再編における企業価値評価について、評価額の算定だけにとどまらず、評価対象、基準日、利用資料、財務実態、未確認事項を整理し、数字を意思決定に使える状態へ整えることを重視しています。
仲介会社や相手方から提示された価格を、どう受け止めるべきか。
どの資料を追加で確認しなければならないか。
現時点で、どこまでの評価レンジを説明できるか。
取締役、株主、金融機関、後継者へ、何を根拠として示すべきか。
こうした評価前の論点整理が必要な場合は、犬飼公認会計士・税理士事務所HPのお問い合わせページからご相談ください。
振り返り|第2テーマで整理する5つの前提
| 読む順番 | 詳細コラム | 整理する問い | 読了後に目指す状態 |
|---|---|---|---|
| 1 | 2-1 評価対象をどう決めるか | 会社、事業、株式、一部持分のうち何を評価するのか | 評価対象と譲渡対象を混同せず説明できる |
| 2 | 2-2 評価基準日と利用資料 | いつの会社を、どの数字で評価するのか | 決算、月次、計画、後発事象の関係を整理できる |
| 3 | 2-3 決算書だけでは見えない財務実態 | 会計数値をそのまま評価に使ってよいか | 調整・留保・追加確認が必要な数字を識別できる |
| 4 | 2-4 評価に必要な資料一覧 | 相談前に何を準備し、何が不足しているか | 資料の優先順位と利用目的を整理できる |
| 5 | 2-5 評価前に整えるべき社内論点 | 株主、役員、借入、関連当事者、非事業資産等をどう扱うか | 価格、評価前提、契約条件に影響する論点を見える化できる |