M&Aや事業承継の現場に立ち会っていると、同じ会社を見ているはずなのに、売主と買主の価格目線が大きくずれていく場面に何度も出会います。
売主の頭の中には、「この会社には長年積み上げてきた顧客基盤がある」「従業員の技術力は確かなものだ」「この先も利益は出続けるはずだ」という思いがあります。一方の買主は、「オーナーが抜けた後も同じ売上が続くのか」「設備投資や人材採用に追加コストがかかるのではないか」「デューデリジェンス(DD)で見つかったリスクを、どう価格に織り込むべきか」と考えています。
このとき、どちらか一方が必ず間違っている、というわけではありません。本当の問題は、売主と買主が立っている「価値の前提」そのものが違っている、という点にあります。
企業価値評価の世界では、価格と価値は明確に区別されます。価格は、売り手と買い手の間で実際に決まった値段です。これに対して価値は、評価対象会社から生み出される経済的便益を指し、評価の目的、当事者の立場、経営権を取得するかどうかなどによって、いくつもの顔を見せる多面的なものです。
この記事では、売主の価値、買主の価値、そして第三者に説明できる価値の三つを分けて整理していきます。交渉テクニックや契約条項の細部には深入りせず、評価額をどのように意思決定・交渉・説明に使うべきか、その土台となる考え方を扱います。
売主と買主で価値が違うのは、見ている前提が違うから
M&Aの価値判断で、まず押さえておきたいのが次の三つです。
| 価値の種類 | 見ているもの | 主な関心 |
|---|---|---|
| 売主の価値 | 現在の株主・経営者から見た会社の価値 | 売却しない場合との比較、希望条件、手取り、従業員・取引先への影響 |
| 買主の価値 | 買主が取得後に実現できる価値 | スタンドアロン価値、シナジー、リスク、投資回収、統合コスト |
| 第三者に説明できる価値 | 資料・前提・手法に基づいて外部者に説明できる価値 | 取締役会、株主、金融機関、後継者、税務・会計・法務上の説明可能性 |
売主の価値は、単なる希望価格ではありません。会社を売らずに続けた場合、親族内で承継した場合、従業員に承継した場合、廃業した場合、別の買主に売却した場合。こうした、売主が取り得るさまざまな選択肢との比較から生まれてくるものです。
買主の価値も、「できるだけ安く買いたい価格」のことではありません。買主が対象会社を取得した後、どれだけのキャッシュ・フローを生み出せるのか。既存事業とのシナジーをどこまで実現できるのか。どのリスクを引き受けるのか。これらによって大きく変わってきます。
そして第三者に説明できる価値は、売主と買主の中間値という意味ではありません。評価目的、基準日、評価対象、利用資料、採用手法、事業計画、正常収益力、非事業資産、有利子負債、リスク調整などを明らかにしたうえで、後から見返しても判断の過程を追える価値のことです。
この三つを混同してしまうと、議論はたちまち「相手は高すぎる」「相手は安く見すぎている」という感情的なぶつかり合いに陥りがちです。
売主の価値とは何か
売主の価値とは、現在の株主・経営者から見た会社の価値です。
ただし、ここで注意したいのは、売主の価値を「売主が欲しい金額」とイコールで結んではいけない、ということです。希望価格は、売主の価値を出発点にしながら、生活資金、借入返済、退職金、相続・承継、従業員雇用、取引先との関係、個人保証の解除、税引後の手取りといった事情を踏まえて形づくられていく「条件」だからです。
売主の価値を整理するときには、少なくとも次の三つの視点が欠かせません。
第一に、会社を売らない場合の価値です。今後も自社で経営を続けるなら、どの程度の利益やキャッシュ・フローを得られるのか。後継者はいるのか。オーナーが退任した後も、同じ収益力を維持できるのか。設備投資や人材採用を続けていけるのか。この「売らないという選択肢の価値」を見ておかなければ、売却価格の最低ラインは整理のしようがありません。
第二に、売主に固有の条件です。税引後の手取り、役員退職慰労金、個人保証の解除、連帯保証や担保提供の整理、オーナー貸付金・役員借入金の精算、退任後の関与の有無、社名・屋号の維持、従業員雇用の継続といった項目が挙げられます。これらは評価額そのものではありませんが、売主が取引価格を受け入れられるかどうかには、強く影響します。
第三に、情報整理の程度です。売主側で、正常収益力、非事業資産、簿外債務、関連当事者取引、役員報酬、オーナー依存といった論点を整理できていないと、買主のDDで問題点が見つかるたびに、価格目線は下方に修正されやすくなります。
つまり、売主側で主要な論点を事前に整理しておくことには、単に高く売るためという以上の意味があります。本来説明できるはずの価値を守るために重要なのです。実際、セルサイドDDは、買主のDDに備え、売主としての売却価値を保護し、最大化するための情報提供に焦点を置いた手続として位置づけられています。
売主の価値を検討するとき、危ういのは二つの心理が混ざり込んでくることです。「自分が大事に育ててきた会社なのだから、高いに決まっている」という感情。そして、「過去にこの程度の利益が出ていたのだから、これからも続くはずだ」という楽観。この二つです。
売主の思いは、もちろん大切です。けれども、それを取引価格として説明するためには、思いを数字と事実に置き換えていく作業が、どうしても必要になります。
売主価値を構成する主な要素
売主の価値は、次のように分解して考えると見通しがよくなります。
| 構成要素 | 内容 | 価格判断への影響 |
|---|---|---|
| スタンドアロン価値 | 現在の会社が単独で継続した場合の価値 | 売主価値の基礎になる |
| 売却しない場合の選択肢 | 自力継続、親族内承継、従業員承継、廃業など | 売主の最低受入ラインに影響する |
| 非事業資産 | 余剰現金、遊休不動産、投資有価証券など | 価格に含めるか、事前整理するかが論点になる |
| 税引後手取り | 株式譲渡、退職金、配当、自己株式取得等の税務影響 | 額面価格ではなく実質手取りに影響する |
| 非金銭条件 | 雇用維持、社名、取引先、退任後の関与、個人保証解除 | 金額だけでは判断できない条件になる |
| 売却準備の程度 | 資料整備、論点整理、財務実態の説明可能性 | 買主DD後の価格下落リスクに影響する |
売主にとって大切なのは、「希望価格」を先に置くことではなく、「どの価値に基づく希望なのか」を整理することです。
たとえば、同じ5億円という希望価格でも、その内訳が事業価値3億円・余剰現金1億円・遊休不動産1億円なのか、それとも将来の成長を大きく見込んだ事業価値5億円なのかによって、買主への説明の仕方はまったく変わってきます。
同じ5億円でも、説明できる5億円と、説明できない5億円があるのです。
買主の価値とは何か
買主の価値とは、買主が対象会社を取得した後に実現できる価値を指します。
買主は、対象会社を単独で見た価値だけを見ているわけではありません。自社と組み合わせることで初めて生まれる価値も視野に入れています。これが、いわゆるシナジーです。
ただし、買主の価値は「シナジーを全部足し合わせた高い価値」ではありません。買主は、シナジーの実現可能性、統合コスト、追加投資、資金調達、リスク、投資回収期間といった要素を、あわせて検討します。事業会社であれば、既存事業との相互補完性や中長期戦略との整合性が重要になりますし、PEファンドであれば、投資期間、レバレッジ、出口価値、IRRなどが価格目線を左右します。
M&Aの実務では、売主側が期待する将来キャッシュ・フローなどを反映した「セラーズ価値」と、買主側がDDの結果や買収後に期待する将来キャッシュ・フロー、リスク、成長、シナジーを反映した「バイヤーズ価値」を、分けて考えることがあります。
買主の価値を考える際の基本式は、概念的に次のように整理できます。
買主価値 = 対象会社のスタンドアロン価値 + 買主固有のシナジー価値 − 統合コスト − 追加投資 − 引き受けるリスク − 必要な投資リターンを満たすための調整
ここで見落としてはならないのが、買主固有のシナジー価値を、そのまま売主に支払う必要はない、という点です。
買主が自社の販路、仕入網、人材、技術、ブランド、管理体制を活かして価値を高めるのであれば、その価値は買主の努力・資源・リスク負担によって生まれるものです。したがって、買主にとっての価値が高いからといって、その全額が売主に帰属するとは限りません。
シナジーとプレミアムを混同しない
売主と買主の価格目線が大きくずれる典型例が、このシナジーの扱いです。
売主は、「この買主なら当社をもっと伸ばせるはずだ。その分も価格に反映してほしい」と考えます。買主は、「シナジーは当社が買収後に実現するものだし、その実現リスクも当社が負う。全額を価格に乗せることはできない」と考えます。
どちらの言い分にも、一定の合理性があります。問題は、シナジーの性質を分けないまま、ひとまとめに議論してしまうことです。
シナジーには、少なくとも次のような種類があります。
| シナジーの種類 | 内容 | 価格への反映で注意すべき点 |
|---|---|---|
| 売上シナジー | 買主の販路で対象会社の商品を販売する、クロスセルする | 実現時期・確度が不確実になりやすい |
| コストシナジー | 仕入統合、物流統合、管理部門統合など | 統合コスト、退職費用、システム費用を控除する必要がある |
| 投資シナジー | 設備、研究開発、採用、DX投資の効率化 | 追加投資を見落とすと過大評価になる |
| 財務シナジー | 資金調達力、資本構成、税務上の効果など | 買主固有の事情であり、売主価格に全額反映しにくい |
| リスク低減効果 | 買主傘下で与信・管理・人材面が安定する | 買主側の統制コストも必要になる |
支配権の移動を伴う買収では、シナジー効果に着目して、市場価格にプレミアムを上乗せした価格で取引が行われることがあります。ただし、コントロール・プレミアムは「支配権を獲得するための支出」であり、シナジー効果は「支配権を獲得することによって実現し得る価値の増加」です。両者は、必ずしも一致しません。
シナジーを価格に織り込むのであれば、次の点の確認が欠かせません。
- そのシナジーは、誰が実現するのか
- 対象会社単独でも実現できるのか、それとも買主固有の資源が必要なのか
- 売上の増加なのか、コストの削減なのか
- 実現時期はいつか
- 実現に必要な投資・人員・システム・退職費用はいくらか
- 失敗した場合のダウンサイドはどの程度か
- 事業計画にすでに含まれていないか
- DCFやマルチプルの中で二重計上していないか
「シナジーがあるから高く買える」という説明は、実務上、ほとんど説明になっていません。本当に説明すべきなのは、どのシナジーを、どの前提で、どの程度の確度で、どの価格上限まで反映するのか、という中身のほうです。
買主価値の上限を決めるのは、期待ではなく投資判断
買主にとっての価格上限は、「払える金額」ではなく「払っても投資として成り立つ金額」です。
資金があるから買ってよい、というわけではありません。銀行借入がつくから妥当だ、ということでもありません。M&Aの後、対象会社が計画どおりのキャッシュ・フローを生み、統合コストや追加投資を吸収し、必要な投資リターンを確保できるかどうか。ここが肝心です。
買主が確認しておくべき主な論点は、次のとおりです。
- 対象会社単独の正常収益力はどの程度か
- オーナー退任後も売上・利益は維持できるか
- キーパーソンや主要取引先の離脱リスクはあるか
- DDで判明した財務・税務・法務上のリスクは価格に反映されているか
- 追加の設備投資や運転資本の増加は必要か
- 統合後の管理コストはどの程度か
- シナジーの実現時期・実現確度は説明できるか
- 想定外の事態でも資金繰りが破綻しないか
- のれんや無形資産、将来の減損リスクを許容できるか
買主は、初期の段階では売主よりも情報面で不利な立場に置かれています。だからこそDDを通じて、価値評価の仮説を検証し、リスク評価や価格調整、交渉上の判断材料を手にしていくことになります。
中小M&Aガイドラインでも、バリュエーションは企業または事業の価値を定量的に評価するものであり、その評価額は譲渡額を決める際の目安の一つとして扱われると整理されています。評価手法も、企業の実態や事業の特性に応じて選択されるものとされています。
評価額は、買主にとって「買ってもよい価格」を自動的に示してくれるものではありません。買主は、評価額を出発点としながら、DD、シナジー、リスク、資金繰り、会計上の影響、説明責任を踏まえて、自ら許容価格を決めていく必要があります。
第三者に説明できる価値とは何か
第三者に説明できる価値とは、売主にも買主にも都合よく寄せすぎることなく、資料・事実・前提・手法に基づいて説明できる価値のことです。
ここでいう第三者には、次のような相手が含まれます。
- 取締役会
- 株主
- 金融機関
- 後継者
- 従業員・役員
- 親族・共同株主
- 税務当局
- 監査人
- 会計上の評価担当者
- 将来、取引を検証する専門家
第三者に説明できる価値は、「誰からも反対されない価値」を意味するわけではありません。評価には、どうしても不確実性が伴います。前提条件が変われば、価値も変わります。
ですから、第三者に説明できる価値とは「ただ一つの絶対的な正解」ではなく、「なぜそのレンジになるのか、どこに判断の幅があるのか、どの前提を変えると価値がどう動くのかを説明できる状態」と捉えるべきものです。
経済産業省は、公正なM&Aの在り方を明らかにし、関係者の共通認識を形成することが、M&A実行の予見可能性を高め、企業価値の向上に資するM&Aを促進し、ひいては日本のM&Aの健全な発展や資本市場への信頼向上にもつながる、と整理しています。
上場会社の支配権取引と中小M&Aとでは、制度上の要請は異なります。とはいえ、「関係者に説明できる判断過程を持っておくべきだ」という発想そのものは、非上場会社のM&A、事業承継、資本政策、組織再編においても、変わらず重要です。
第三者説明で見られるのは、結論ではなく前提
第三者に説明する場面では、評価額の結論だけを示しても、十分とはいえません。
むしろ問われるのは、次のような前提のほうです。
| 確認項目 | 説明すべき内容 |
|---|---|
| 評価目的 | M&A、承継、自己株式取得、組織再編、税務、会計、内部検討のどれか |
| 評価基準日 | いつ時点の会社を評価しているのか |
| 評価対象 | 会社全体、事業、株式、少数持分、特定種類株式のどれか |
| 利用資料 | 決算書、月次試算表、事業計画、借入一覧、契約資料、DD結果など |
| 財務実態 | 一過性損益、役員報酬、関連当事者取引、簿外債務、会計処理の妥当性 |
| 正常収益力 | 今後も継続すると見込める利益・キャッシュ・フロー |
| 採用手法 | DCF、マルチプル、時価純資産等をなぜ使ったか |
| 評価レンジ | 一点ではなく、どの前提で上下限が変わるか |
| シナジー | 誰に帰属する価値か、価格に入れるか、除外するか |
| リスク | DD発見事項、偶発債務、税務リスク、事業リスクをどう扱ったか |
| 取引条件 | 支払条件、価格調整、個人保証、退職金、非事業資産の扱い |
評価報告書や株式価値算定書が手元にあっても、前提が曖昧であれば、説明可能性は高まりません。逆に、評価額に幅があっても、前提条件と判断理由が整理されていれば、意思決定資料としての有用性は高まります。
企業価値評価ガイドラインでも、企業価値評価は依頼人の意思決定を補助するための参考資料として利用されるものであり、保証業務ではない、とされています。
つまり、評価額は「この価格なら必ず正しい」と保証してくれるものではありません。評価額をどの意思決定に使うのか、どの前提なら受け入れられるのか、どこに留意すべき点があるのか。そこまで整理して初めて、第三者に説明できる判断になるのです。
「売主価値」と「買主価値」の間に交渉余地が生まれる
M&Aの取引価格は、売主価値か買主価値のどちらか一方で、自動的に決まるものではありません。
通常、売主には「これ以下なら売らない」という最低受入ラインがあり、買主には「これ以上なら投資として成り立たない」という許容上限があります。この二つの間に重なりがあれば、そこに価格交渉の余地が生まれます。
概念的には、次のように整理できます。
売主の最低受入価格 < 交渉可能レンジ < 買主の許容上限価格
ただし、実務では価格だけでなく、条件もあわせて判断します。
たとえば、売主が5億円を希望していたとしても、税引後の手取り、個人保証の解除、役員退職慰労金、退任後の報酬、従業員雇用、支払時期などを総合すると、額面の価格だけでは比較できないことがあります。
買主のほうも、「4億円なら買える、5億円なら買えない」という単純な線引きではありません。価格調整、アーンアウト、分割払い、表明保証、補償、エスクロー、譲渡対象からの除外といった工夫によって、価格とリスク配分は変わってきます。
この記事では契約条項の細部までは踏み込みませんが、ここで強調したいのは、取引価格の交渉に入る前に、売主価値・買主価値・第三者説明可能価値を分けておく、という点です。
分けておかなければ、価格交渉は「希望価格のぶつけ合い」になってしまいます。分けておけば、「どの前提が違うのか」「どのリスクを価格で見るのか」「どの価値は買主固有のものなのか」「どの部分は第三者にも説明できるのか」を、落ち着いて整理できます。
第三者に説明できない価格の典型例
次に挙げるような価格は、当事者間では合意できる可能性があっても、第三者への説明には注意が必要です。
希望価格から逆算した評価額
売主が「この金額で売りたい」と先に決めてしまい、その金額に合わせて事業計画や倍率を調整していくケースです。
この場合、評価額は判断材料ではなく、希望価格を正当化するための数字になってしまいます。金融機関や株主、後継者に説明する際、「なぜその成長率なのか」「なぜその倍率なのか」と問われると、答えに窮することになります。
買主のシナジーをすべて売主価格に乗せた価格
買主が取得後に実現する販路拡大、仕入統合、管理コスト削減などを、すべて売主価格に反映してしまうケースです。これでは、買主の手元に残る価値が乏しくなります。
買主固有のシナジーは、買主の資源投入と実行リスクによって生まれるものです。その全額を売主に支払ってしまえば、買主の投資判断としては成り立たなくなる可能性があります。
DD発見事項を無視した価格
未払残業代、税務リスク、回収不能債権、過大在庫、簿外債務、契約解除リスク、主要取引先への依存、キーパーソンへの依存。こうした事項が見つかっているにもかかわらず、当初の提示価格を維持しようとするケースです。
もちろん、すべてを価格の減額で処理する必要はありません。ただ、価格に反映しないのであれば、契約、スキーム、引継ぎ、補償、リスク分担といった形でどう対応するのかを、きちんと説明する必要があります。財務DDで検出された事項は、買収価格の算定だけでなく、ストラクチャー、買収契約、買収後のシナジー、財務諸表への影響、統合作業を検討する際の材料にもなるからです。
事業計画の楽観シナリオだけで算定した価格
売上成長、利益率の改善、採用の成功、設備投資の抑制、値上げの成功。これらがすべて都合よく進む前提だけで評価してしまうと、説明可能性は低くなります。
大切なのは、ベースケース、アップサイド、ダウンサイドを分けて考えることです。評価額に幅が出ること自体は、問題ではありません。むしろ、不確実性を隠さず、どの前提で価値がどの程度動くのかを示したほうが、実務上は説明しやすくなります。
税務・会社法・会計上の目的を混同した価格
M&Aの合意価格、税務上の時価、会社法上の公正価格、会計上の取得原価や公正価値。これらは、同じものではありません。
親族間取引、同族関係者間取引、自己株式取得、少数株主からの買取り、組織再編、PPAなどの場面では、M&Aの交渉価格だけでなく、税務・会社法・会計上の説明可能性が問われます。
「当事者間で合意したのだから問題ない」とは、必ずしも言い切れません。合意した価格であっても、関係者間取引や少数株主が絡む場面では、別の観点から検証されることがあるのです。
売主・買主・第三者の価値をどう接続するか
実務では、次の順番で整理していくと、判断がしやすくなります。
1. まずスタンドアロン価値を置く
対象会社が単独で事業を継続した場合の価値を、最初に整理します。
ここでは、買主固有のシナジーを入れすぎないことが肝心です。過去の実績、正常収益力、事業計画、運転資本、設備投資、非事業資産、有利子負債、事業リスクを土台にして、対象会社単独の価値を見ていきます。
スタンドアロン価値がなければ、売主価値も買主価値も整理のしようがありません。
2. 売主の最低受入条件を整理する
売主にとって、どの条件なら売却する意味があるのかを整理します。
価格だけでなく、税引後の手取り、個人保証の解除、役員退職慰労金、オーナー貸付金、従業員雇用、社名、取引先、退任後の関与、支払時期まで含めて検討します。
ここを整理しておかないと、価格交渉が進んだ末に、最後の最後で条件面の合意に至らない、ということが起こり得ます。
3. 買主の許容上限を整理する
買主は、スタンドアロン価値に加えて、自社固有のシナジー、統合コスト、追加投資、リスク、資金調達、投資リターンを踏まえて、許容上限を考えます。
ここでシナジーを過大に見込めば、買収後にのれん減損や投資回収未達の問題が生じかねません。逆に、自社で実現できるシナジーをまったく見込まなければ、競争入札で価格負けすることもあります。
大切なのは、シナジーを入れるか入れないかという二択ではなく、どのシナジーをどの確度で入れるのかを整理することです。
4. 第三者に説明できる評価レンジを作る
最後に、売主・買主の立場を踏まえつつ、第三者に説明できる評価レンジを整理します。
このレンジは、単なる平均値ではありません。採用手法、前提条件、リスク調整、シナジーの扱い、非事業資産、有利子負債、そして税務・会計・会社法上の留意点を踏まえた、判断のレンジです。
評価レンジが示されたら、次に考えるべきは「最終価格がそのレンジのどこに位置するのか」「レンジの外であれば、どの条件・どの事情で説明するのか」という点です。
第三者説明では「誰に説明するか」も重要
ひとくちに第三者説明といっても、説明する相手によって、関心のありどころは異なります。
| 説明先 | 主な関心 |
|---|---|
| 取締役会 | 取引の合理性、代替案、利益相反、意思決定過程 |
| 株主 | 価格の公正性、少数株主への影響、売却しない場合との比較 |
| 金融機関 | 買収後の返済可能性、資金繰り、のれん、財務制限条項 |
| 後継者 | 承継後の経営負担、借入、個人保証、事業継続性 |
| 従業員・役員 | 雇用継続、処遇、経営方針の変化、会社の安定性 |
| 税務当局 | 関係者間取引、低額譲渡・高額譲渡、時価の合理性 |
| 監査人・会計担当者 | 取得原価、PPA、のれん、減損、無形資産 |
| 将来の検証者 | 資料根拠、前提条件、判断過程、議事録・算定資料 |
たとえば金融機関に対しては、価格そのものよりも、買収後のキャッシュ・フローと返済可能性が重要になります。株主に対しては、なぜその価格で売却・取得するのか、他の選択肢と比べて合理的なのかが問われます。税務上は、当事者間の合意だけでなく、時価として説明できるかどうかが論点になります。
ですから、「第三者に説明できる価値」を考えるときには、誰に、何を、どの資料で説明するのかを、あらかじめ想定しておく必要があるのです。
売主と買主の価値差は、悪いものではない
売主と買主とで価値が違うこと自体は、M&Aにおいてはむしろ自然なことです。
価値差があるからこそ、取引が成立する、という側面もあります。
買主が対象会社を取得することで、売主単独では実現しにくい成長や効率化を実現できるのであれば、買主価値は売主のスタンドアロン価値を上回ります。その一部を売主が価格として受け取り、残りを買主が買収後の価値創造として享受できるなら、双方にとって意味のある取引になります。
問題は、価値差そのものではなく、その理由が説明されていないことのほうにあります。
売主は「なぜこの価格以上でなければ売らないのか」を説明する必要があります。買主は「なぜこの価格までなら払えるのか」を説明する必要があります。そして第三者に対しては「なぜその価格で合意することが合理的なのか」を説明する必要があります。
この三つを分けて整理できれば、価格交渉は感覚論から構造論へと変わっていきます。
相談前に整理しておきたい事項
M&Aの価格や企業価値評価について専門家に相談する前に、次の事項を整理しておくと、検討の質が大きく高まります。
売主側で整理したい事項
- 売却の目的は何か
- 売却しない場合の選択肢は何か
- 希望価格の根拠は何か
- 税引後の手取りはいくら必要か
- 個人保証、担保、役員貸付金・役員借入金をどう整理するか
- 従業員雇用、社名、取引先、退任後の関与について、譲れない条件は何か
- 非事業資産や余剰現金を価格に含めるのか、事前に整理するのか
- 買主DDで問題になりそうな論点は何か
買主側で整理したい事項
- 買収の目的は何か
- 対象会社単独の価値はいくらか
- 自社固有のシナジーは何か
- シナジーの実現に必要な投資・コストはいくらか
- オーナー退任、取引先、従業員、契約、許認可のリスクは何か
- DD発見事項を価格・条件にどう反映するか
- 投資回収期間や必要リターンはどの程度か
- 金融機関や社内の決裁者にどう説明するか
共通して整理したい事項
- 評価目的
- 評価基準日
- 評価対象
- 利用資料
- 正常収益力
- 事業計画
- 非事業資産
- 有利子負債・簿外債務
- 税務・会計・会社法上の論点
- 第三者に説明する相手と説明資料
これらを整理しないまま評価額だけを出しても、その金額は、交渉や意思決定には使いにくいものになってしまいます。
説明できる価値判断を行うために
売主の価値、買主の価値、第三者に説明できる価値。この三つには、それぞれ異なる役割があります。
売主の価値は、売却しない場合との比較や、売主固有の条件を整理するために必要です。買主の価値は、買収後に投資として成り立つかどうかを判断するために必要です。そして第三者に説明できる価値は、取締役会、株主、金融機関、後継者、税務・会計・法務上の関係者に対して、判断の過程を示すために必要です。
価格判断において大切なのは、最初から一つの正解を探そうとすることではありません。
- どの立場から見た価値なのか
- どの前提に基づく価値なのか
- どこまでが対象会社単独の価値なのか
- どこからが買主固有のシナジーなのか
- どのリスクを価格に反映しているのか
- 第三者に説明するとき、どの資料で根拠を示せるのか
こうした点を一つひとつ整理していくこと。それが、M&Aバリュエーションを「経営判断に使える状態」へと整えていく、ということなのです。
価値の立場差を整理したい場合はご相談ください
M&Aや事業承継の価格判断では、「高いか安いか」だけを見ていると、判断を誤りやすくなります。
売主としては、希望価格の根拠、税引後の手取り、非事業資産、譲れない条件を整理しておく必要があります。買主としては、スタンドアロン価値、シナジー、統合コスト、DDリスク、投資回収を、冷静に検討しておく必要があります。そして双方に共通して、第三者に説明できる評価レンジと判断過程を整えておくことが重要です。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、M&A・事業承継・資本政策・組織再編における企業価値評価や取引価格の判断について、売主価値・買主価値・第三者説明可能価値の切り分け、正常収益力、非事業資産、有利子負債、税務・会計上の論点を踏まえた整理をご支援しています。
提示された価格の前提を確認したい場合、希望価格を第三者に説明できる形へ整えたい場合、買収価格の上限をシナジーやリスクを踏まえて検討したい場合は、犬飼公認会計士・税理士事務所HPのお問い合わせページからご相談ください。
取引を本格的に進める前の段階であっても、価値の立場差を整理しておくことで、確認すべき資料、交渉前に詰めておくべき前提、専門家に相談すべき論点が、はっきりと見えてきます。
この記事の振り返り
| 論点 | 重要ポイント |
|---|---|
| 売主の価値 | 現在の株主・経営者から見た価値。希望価格だけでなく、売却しない場合、税引後手取り、非金銭条件も含めて整理する |
| 買主の価値 | 買収後に買主が実現できる価値。スタンドアロン価値、シナジー、統合コスト、リスク、投資回収を踏まえる |
| 第三者に説明できる価値 | 売主・買主の中間値ではなく、資料・前提・手法・判断過程を説明できる価値 |
| シナジー | 買主固有の価値であり、全額が売主価格に反映されるとは限らない |
| コントロール・プレミアム | 支配権取得のための支出。シナジー価値そのものとは一致しない |
| 評価レンジ | 一つの金額ではなく、前提条件による幅として見る必要がある |
| DD発見事項 | 価格、スキーム、契約条件、リスク分担に影響する。無視すると説明可能性が低下する |
| 第三者説明 | 取締役会、株主、金融機関、後継者、税務・会計・法務関係者など、説明先ごとに関心が異なる |
| 実務上の基本姿勢 | 「高い・安い」ではなく、「どの立場の価値か」「どの前提か」「誰に説明できるか」を整理する |
| 相談前整理 | 評価目的、評価基準日、評価対象、利用資料、正常収益力、非事業資産、負債、シナジー、税務論点を事前に確認する |