医療機関の経営では、たいてい「人が足りない」という感覚が先に立ちます。
受付が回らない。看護師が忙しすぎる。検査や処置の待ち時間が長い。在宅医療を始めたいが、スタッフが足りない。分院や診療時間の延長を考えているが、採用できるかどうか不安が残る。
こうした悩みは、規模を問わず、どのクリニック・診療所・医療法人にも起こり得るものです。
ただ、採用は単なる人員補充ではありません。医療機関にとっての採用は、診療体制、売上計画、患者満足、スタッフの定着、固定費、資金繰り、法人運営、そして将来の承継可能性にまで直結する経営判断です。
特にこれからの医療機関経営では、人材確保が難しくなることを前提に計画を組む必要があります。ヘルスケア市場は、高齢化や医療の高度化を背景に堅調な需要が見込まれる一方で、生産年齢人口の減少によって労働供給の制約に直面していくと考えられます。
つまり、医療ニーズがあるからといって、必要な人材を必要な時期に採用できるとは限らない、ということです。
採用を事業計画に織り込むとは、「来年は看護師を1名増やす」と書くことではありません。いつ、どの職種を、何人、どの雇用形態で採用し、その人件費をどの売上・生産性・資金繰りで支えるのか。そこまでを月次の数字に落とし込むことです。
この記事では、医療機関が採用・人件費を事業計画に織り込む際に見るべき数字と、実務上の注意点を整理していきます。
採用は「必要か」だけでなく「維持できるか」で判断する
医療機関の採用判断で最初に問うべきなのは、「人が足りているか」ではありません。
より正確には、次の3つを分けて考える必要があります。
1つ目は、現在の業務量に対して、本当に人員が不足しているのか。 2つ目は、業務の整理やIT活用、役割分担の見直しで改善できないのか。 3つ目は、採用した場合、その人件費を継続的に負担し続けられるのか。
「忙しいから採用する」という判断だけでは、やはり危険です。
医療機関では、人件費は固定費としての性格が強くなります。患者数が一時的に増えたからといって常勤職員を増やせば、その後に患者数が落ち込んでも、給与・社会保険料・賞与・教育負担は続いていきます。
診療所経営においては、人件費率は利益の次に重要な指標とされます。平均的なケースでは、人件費率が43%程度、経常利益率が7%程度であれば、健全な経営が実現できていると整理できます。人件費率が50%を超えてくると、利益率や資金繰りへの影響を慎重に見ておく必要があります。
ただし、「人件費率が何%以下なら必ず安全」と単純に割り切ることはできません。診療科、診療時間、在宅医療の有無、自由診療の比率、院長の稼働、スタッフの熟練度、外注委託の使い方によって、適正な人件費率は変わってくるからです。
大切なのは、人件費率そのものの数字ではなく、その人件費が診療体制と売上、患者満足、将来の成長にどう結びついているかという点です。
人件費は給与だけではない
採用計画でよくある誤りが、月給だけを人件費として見積もってしまうことです。
実際には、採用1名に伴う人件費には、次のような項目が含まれます。
- 基本給
- 各種手当
- 通勤手当
- 時間外手当
- 賞与
- 法定福利費
- 退職金・退職給付
- 採用広告費
- 紹介手数料
- 制服・備品
- 研修費
- 教育担当者の時間
- 勤怠・給与計算の事務負担
- 社会保険・労働保険の手続負担
- 福利厚生費
医療法人の経理では、医師給与、看護師給与、職員給与、賞与、退職給付費用、法定福利費などを区分して把握しておくことが求められます。医療法人の経理規程モデルにおいても、給与、賞与、退職給付費用、役員報酬、法定福利費などは、医業費用の重要な構成要素として位置づけられています。
したがって、事業計画上は、採用人数を書くだけでは不十分です。
たとえば「看護師1名を月給30万円で採用する」という記載だけでは、賞与、社会保険料、採用費、教育期間中の非効率、残業代、退職リスクといった要素がすべて抜け落ちてしまいます。
人件費計画では、少なくとも次の式で見ておく必要があります。
年間人件費総額 = 月額給与 × 12か月 + 賞与 + 事業主負担の社会保険料・労働保険料 + 採用関連費 + 教育・研修関連費
そして、これを月次の資金繰りに反映させます。
損益計算書の上では黒字であっても、賞与月、社会保険料の納付、税金の支払、借入返済が重なると、資金繰りが一気に苦しくなることがあります。人件費は、損益だけでなく、資金繰りの目線でも見るべき費用なのです。
採用計画は、診療体制から逆算する
採用を事業計画に織り込むときは、売上目標からではなく、まず診療体制から考えていきます。
たとえば、次のように整理してみます。
| 経営方針 | 必要になる人員計画の例 | 確認すべき数字 |
|---|---|---|
| 外来患者数を増やす | 受付・会計、看護師、診療補助の増員 | 1日患者数、診療時間、待ち時間、診療単価 |
| 検査件数を増やす | 看護師、臨床検査技師、検査補助 | 検査件数、機器稼働率、検査単価、材料費 |
| 在宅医療を始める | 看護師、事務、ドライバー、連携担当 | 訪問件数、移動時間、オンコール、書類作成時間 |
| 自由診療を伸ばす | カウンセリング、施術補助、予約管理 | 自費単価、成約率、説明時間、キャンセル率 |
| 診療時間を延長する | シフト増、非常勤、遅番体制 | 延長時間帯の患者数、残業代、スタッフ負担 |
| 分院を検討する | 分院長、看護師、事務長候補、管理担当 | 院長依存度、固定費、採用可能性、教育期間 |
このように、採用は「人が足りないから増やす」ではなく、「どの診療体制を実現するために、どの職種が、どのタイミングで必要になるのか」という順番で考えていきます。
特に東京のように競合医療機関が多く、スタッフの採用市場も流動的な地域では、採用できるかどうかそのものが、事業計画の制約条件になります。都市部は人口や通勤利便性の面では有利な一方、競合が多く、土地・家賃・人件費が高くなりやすいという側面もあります。
採用できることを前提に計画を作るのではなく、採用できなかった場合の診療体制まで考えておくことが大切です。
人員計画は「職種別・雇用形態別・月別」で作る
事業計画上の人件費計画は、年額だけでは粗すぎます。
少なくとも、次の3つに分けて作成します。
- 職種別
- 雇用形態別
- 月別
たとえば、看護師、医療事務、臨床検査技師、放射線技師、リハビリ職、歯科衛生士、歯科助手、管理栄養士、訪問診療同行スタッフ、事務長候補。これらはそれぞれ、採用難易度、給与水準、教育期間、生産性への影響が異なります。
また、常勤、非常勤、パート、短時間勤務、業務委託、派遣、外注のどれを選ぶかによって、固定費化の程度も変わってきます。
開業や拡張の計画でも、職種や職位ごとに1人当たり給与と採用人数を検討し、正職員かパート・アルバイトか、新規採用か中途採用かによって給与が変わってくるため、必要なスタッフ像を明確にしておくことが重要です。
そして、見落とされがちなのが採用時期です。
4月に採用するのか、10月に採用するのかで、年間の人件費は大きく変わります。さらに、採用したスタッフがすぐに売上へ貢献してくれるとは限りません。教育期間、試用期間、業務への習熟、患者対応への慣れ、院内ルールの理解には、いずれも時間がかかります。
そこで、月次計画では次のような視点で見ていきます。
- 採用月
- 試用期間
- 教育期間
- 実稼働開始月
- 売上貢献開始月
- 賞与支給月
- 社会保険加入月
- 退職リスク
- 代替採用期間
人材採用は、支出が先行し、効果が遅れて現れる投資だと捉えておく必要があります。
人件費率は「高い・低い」ではなく、構造で見る
人件費率は、次の式で計算します。
人件費率 = 人件費 ÷ 医業収益 × 100%
医療法人会計の実務でも、人件費率は人件費負担の大小を把握するための指標とされます。人件費は、雇用契約に基づいて支給額があらかじめ決まっている基本給部分が多いため、固定費的な性質を持つと整理できます。事業収益が増えれば人件費率は下がり、事業収益が減れば人件費率は上がる、という傾向があります。
ここで注意したいのは、人件費率だけを見て採用を止めてしまうことです。
人件費率が高い場合でも、次のようなケースでは、単純な削減が適切とは限りません。
- 新規採用の直後で、教育期間中である。
- 在宅医療や分院など、成長投資の準備段階にある。
- 診療時間延長に向けた、先行採用である。
- 患者満足や医療安全のために、必要な人員配置である。
- 院長依存を減らすために、事務長・幹部候補を育成している。
反対に、人件費率が低い場合でも、安心できるとは限りません。
- 人員不足で、スタッフが疲弊している。
- 残業が恒常化している。
- 院長や家族が、無償・低額で業務を抱え込んでいる。
- 患者対応が悪化している。
- 採用市場より低い給与水準で、離職リスクが高い。
- 医療安全や内部管理が、後回しになっている。
人件費率は、単なるコスト指標ではなく、診療体制の健全性を映し出す指標でもあるのです。
採用の採算は「必要患者数」で見る
採用してよいかどうかを判断するには、その人件費を支えるために必要な患者数を計算します。
たとえば、年間人件費総額が600万円増える採用をする場合、その採用によって年間どれだけの粗利が増えればよいのかを見ていきます。
考え方は次のとおりです。
必要増収額 = 追加人件費 ÷ 限界利益率
あるいは、
必要患者数 = 追加人件費 ÷ 患者1人あたり限界利益
患者1人あたり限界利益とは、診療単価から医薬品、材料費、検査委託費などの変動費を差し引いた金額のことです。
たとえば、患者1人あたりの限界利益が6,000円で、年間の追加人件費が600万円であれば、単純計算では年間1,000人、月に約83人、診療日が20日なら1日あたり約4人強の追加患者が必要になる計算です。
ただし、この計算だけで判断してはいけません。
採用したスタッフが、直接患者数を増やすとは限らないからです。受付・会計の増員は、患者数を直接増やすというより、待ち時間の短縮や患者満足、予約枠の消化、クレーム予防に効いてくることがあります。看護師の増員は、処置や検査を増やし、医師の診療効率を上げる方向に働きます。事務長候補の採用は、短期的な売上増よりも、院長の経営時間を確保し、組織運営を安定させる効果のほうが大きいでしょう。
したがって、採用の採算は、直接の売上と間接的な効果を分けて見ていく必要があります。
生産性は「スタッフ1人当たり売上」だけで見ない
医療機関の生産性を見るとき、「スタッフ1人当たり売上」だけで判断すると、見立てを誤ります。
医療機関では、職種ごとに役割が大きく異なるからです。
受付スタッフは、会計、予約、電話、レセプト、患者対応を支えています。看護師は、診療補助、処置、検査、患者説明、感染対策を担います。事務長は、採用、労務、金融機関対応、行政対応、資料管理を引き受けます。
そのため、生産性は複数の指標で見ていきます。
- 医師1時間あたり患者数
- 診療時間1時間あたり医業収益
- スタッフ1人あたり患者数
- スタッフ1人あたり医業収益
- 診察室1室あたり患者数
- 受付・会計の待ち時間
- 検査件数
- 予約枠消化率
- 残業時間
- 患者クレーム件数
- 離職率
- 教育期間後の業務到達度
特に医療機関では、スタッフの定着が何より重要です。
診療所経営では、毎年14%程度のスタッフが辞めていくとも言われます。人手不足の時代だからこそ、選考を丁寧に行い、既存のスタッフを大切にし、スタッフと情報を共有していくことが欠かせません。
採用計画とは、新しい人を採るための計画であると同時に、いま働いてくれている人を辞めさせないための計画でもあるのです。
採用時期は、売上増加より早すぎても遅すぎても危ない
採用時期の判断は、なかなか難しいところです。
遅すぎれば、現場が疲弊し、患者対応が悪化し、既存スタッフの離職を招きます。早すぎれば、売上がまだ立っていない時期に人件費だけが先行し、資金繰りを圧迫します。
事業計画では、採用時期を次の3段階に分けて考えると整理しやすくなります。
必須人員
診療の継続、医療安全、施設基準、受付・会計、レセプト、患者対応に必要な、最低限の人員です。
この人員を削れば、診療の質や法令遵守、請求実務に支障が出ます。
成長準備人員
在宅医療、分院、自由診療、検査拡大、診療時間延長など、将来の成長のために先行して採用する人員です。
この人員は、短期的には人件費率を押し上げます。そのため、採用後何か月で売上貢献が見込めるのかを、あらかじめ計画に織り込んでおきます。
改善・効率化人員
事務長、幹部スタッフ、レセプト管理者、採用担当、経理担当など、院長依存や属人化を減らすための人員です。
短期的な売上増には直結しないこともありますが、内部管理、月次決算、資料管理、そして承継・M&Aへの備えとしては重要な役割を担います。
採用計画を立てるときは、全員を同じ「人件費」として一括りにせず、どの目的のための人員なのかを明確にしておくことが大切です。
賞与は「利益が出たら払う」ではなく、資金繰りに織り込む
賞与は、医療機関の資金繰りに大きく影響します。
賞与を事業計画に入れていないと、夏・冬の支給月に資金残高が急減します。さらに賞与には、源泉徴収や社会保険料の処理も関わってきます。
賞与に対する源泉徴収については、通常の場合、前月の給与から社会保険料等を差し引いた金額をもとに税率を求め、賞与から社会保険料等を差し引いた金額にその税率を乗じて税額を計算する取扱いとされています。
出典:国税庁|No.2523 賞与に対する源泉徴収
医療法人の経理では、賞与や賞与引当金繰入額を職種別に把握できるよう、勘定科目を設計しておくことも考えられます。
賞与計画では、次の点を確認しておきます。
- 賞与の支給方針
- 支給月
- 支給対象者
- 支給計算期間
- 業績連動の有無
- 社会保険料・源泉所得税
- 賞与引当金の計上要否
- 資金繰り表への反映
- 賞与支給後の月末現預金
賞与を完全な裁量支給にしている場合でも、採用市場では「賞与あり」として期待されることがあります。求人票や労働条件通知書との整合性も、あわせて確認しておく必要があります。
社会保険負担を見落とすと、人件費計画は崩れる
人件費計画で必ず確認しておきたいのが、社会保険負担です。
法人の事業所で常時従業員を使用するもの、また常時5人以上の従業員が働いている一定の個人事業所は、厚生年金保険・健康保険の適用対象となります。医療機関の法人化やスタッフ増員を検討する際には、この社会保険の適用関係が人件費計画に直接効いてきます。
出典:日本年金機構|事業所が健康保険・厚生年金保険の適用を受けようとするとき
また、短時間労働者への社会保険の適用拡大にも注意が必要です。令和6年10月からは、従業員数51人以上の企業で働く一定の短時間労働者が、社会保険の適用対象となっています。
出典:政府広報オンライン|社会保険の適用が拡大!従業員数51人以上の企業は要チェック
さらに、令和9年10月以降は、従業員数36人以上の企業へ対象が拡大されることも案内されています。
出典:厚生労働省|社会保険加入の要件(社会保険適用拡大特設サイト)
クリニック単体では対象外であっても、医療法人グループとして複数施設を運営する場合や、分院展開を進める場合には、将来の従業員規模を踏まえた人件費計画が必要になります。
社会保険料の事業主負担を見込まずに採用計画を作ると、実際の人件費は計画を上回ってしまいます。
最低賃金・採用市場・賃上げを事業計画に入れる
人件費計画では、現在の給与水準だけでなく、将来の賃上げまで見込んでおきます。
東京でスタッフを採用する場合、最低賃金は毎年確認すべき項目です。東京都最低賃金は、令和7年10月3日から時間額1,226円に改正されています。
出典:東京労働局|最低賃金に関すること
ただし、医療機関の採用では、最低賃金を満たしていれば十分というわけではありません。
看護師、医療事務、歯科衛生士、リハビリ職、検査技師などは、地域の採用市場、勤務時間、診療科、業務内容、職場環境によって、応募状況が大きく変わります。
賃金水準が低すぎれば、採用費をかけても応募が来ない、採用してもすぐに辞めてしまう、既存スタッフの不満が高まる、といった形で、かえってコストが膨らむことすらあります。
その一方で、採用競争に追随して無計画に賃上げを行えば、固定費が上がり、損益分岐点も押し上がってしまいます。
事業計画では、最低でも次の3つの賃金シナリオを置いておくとよいでしょう。
- 現状維持シナリオ
- 年率数%の賃上げシナリオ
- 採用難による追加賃上げシナリオ
人件費は、一度上げると簡単には下げられません。採用市場への対応はもちろん必要ですが、生産性と資金繰りを伴わない賃上げは、将来の選択肢を狭めてしまいます。
残業代・労働時間を「見えない人件費」にしない
医療機関では、残業代が見えにくくなりがちです。
院長が現場の忙しさを十分に把握できていない。スタッフが遠慮して残業申請をしない。昼休みの電話対応や準備時間が曖昧になっている。診療時間後の清掃・レセプト・翌日準備が常態化している。
こうした状態のまま人件費計画を作ると、表面上は人件費率が低く見えても、実態としては現場に大きな負担がかかっていることになります。
中小企業についても、令和5年4月1日から、月60時間を超える時間外労働に対する割増賃金率が50%となっています。
出典:厚生労働省|月60時間を超える時間外労働の割増賃金率が引き上げられます
医療機関の勤務実態によっては、労働時間管理、36協定、残業代、休憩時間、休日労働の確認が必要になります。
勤務医を雇用する医療機関では、医師の働き方改革も無視できません。令和6年4月から医師の働き方改革の新制度が施行され、勤務医の時間外・休日労働の上限規制などが導入されています。出典:厚生労働省|医師の働き方改革
医師の採用、分院展開、有床診療所、病院経営においては、医師の労働時間と人件費計画を一体で見ていく必要があります。
労働条件の明示は、採用計画の前提である
採用は、数字だけの話ではなく、労働条件の設計ともつながっています。
給与、勤務時間、休日、業務内容、就業場所、残業、試用期間、更新条件。これらが曖昧なまま採用してしまうと、後からトラブルになりやすくなります。
令和6年4月からは、労働条件明示のルールが改正され、すべての労働者に対する明示事項として、就業場所・業務の変更の範囲などが追加されています。
出典:厚生労働省|令和6年4月から労働条件明示のルールが改正されます
これは、事業計画の観点からも重要です。
たとえば、「今後は在宅医療も担当してもらう可能性がある」「分院勤務の可能性がある」「受付だけでなくレセプト、会計、広報補助も担当する」など、将来の役割をどう設計するかによって、採用条件も人件費も変わってきます。
採用した後に「思っていた業務と違う」となれば、離職リスクは一気に高まります。離職が起きれば、採用費、教育時間、現場負荷、患者対応の低下が連鎖的に発生します。
労働条件の整理は、法務・労務の問題であると同時に、事業計画の精度を高めるための前提でもあるのです。
教育期間と離職コストを計画に入れる
採用したスタッフが、初日から完全に戦力になるわけではありません。
医療機関では、受付、会計、レセプト、診療補助、患者対応、院内ルール、医療安全、感染対策、電子カルテ、予約システム、電話対応など、覚えるべきことが本当に多くあります。
教育期間中は、本人の生産性が低いだけでなく、教える側のスタッフの時間も使うことになります。
つまり、教育期間には、目に見えにくいコストがあるのです。
- 教育担当者の時間
- 院長・事務長の指導時間
- 業務ミスの修正時間
- 患者対応のフォロー
- レセプト・会計ミスの確認
- システム操作の教育
- 院内ルールの定着
- 試用期間中の見極め
採用・教育・定着においては、仕組みと基準づくりが重要になります。採用の計画と基準設定、面接手順の具体化、採用後の育成・定着までを一体として扱うべきものです。
そして、離職した場合には、さらにコストがかかります。
- 採用広告費
- 紹介手数料
- 面接時間
- 教育時間
- 既存スタッフの残業
- 患者対応品質の低下
- 院内雰囲気の悪化
- ノウハウの喪失
したがって、事業計画では、採用人数だけでなく、教育期間と離職率も見込んでおく必要があります。
採用しない選択肢も事業計画に入れる
人員不足を感じたとき、採用だけが解決策とは限りません。
次のような選択肢も考えられます。
- 業務フローを見直す。
- 予約枠を調整する。
- 電話対応を減らす仕組みを入れる。
- Web問診や自動精算を導入する。
- レセプト業務を標準化する。
- 外注委託を活用する。
- 非常勤・パートで、繁忙時間だけ補う。
- 診療時間を見直す。
- 患者導線を改善する。
- 院長が抱えている業務を、事務長・外部専門家に移す。
固定費の中でも大きい人件費は、常勤をパートで補うなどの工夫によって押し下げ、経営効率を上げることができるという考え方もあります。
ただし、単純に常勤を減らせばよいというものではありません。医療安全、患者対応、施設基準、スタッフの定着を損なうような削減は、長期的には経営リスクになります。
採用しないという選択肢は、現場に我慢を強いるためのものではなく、限られた人材を最大限に活かすために検討するものです。
事業計画への織り込み方
採用・人件費を事業計画に織り込むには、次の順番で整理していきます。
1. 診療方針と成長方針を確認する
まず、自院が何を伸ばすのかを決めます。
外来患者数を増やすのか。在宅医療を始めるのか。自由診療を伸ばすのか。分院を出すのか。診療時間を広げるのか。院長依存を減らすのか。
採用は、経営方針に従属するものです。方針が曖昧なまま採用すると、役割もまた曖昧になってしまいます。
2. 必要業務を洗い出す
次に、現在と将来の業務を分けて書き出します。
受付、会計、レセプト、電話、予約管理、診療補助、処置、検査、患者説明、訪問診療同行、広報、採用、労務、経理、資料管理、金融機関対応、行政対応。
こうして業務を洗い出すと、採用すべき職種と、採用せずに改善すべき業務とが見えてきます。
3. 職種別の人員計画を作る
職種別に、常勤・非常勤・パートを分けて人数を設定します。
このとき、採用時期を月別に落とし込みます。
1月から必要なのか。4月からでよいのか。売上が一定水準を超えてから採用するのか。退職予定者の補充なのか。教育期間を見越して前倒しで採用するのか。
採用時期を月次に落とし込まなければ、資金繰り表には反映できません。
4. 人件費総額を計算する
給与だけでなく、賞与、社会保険料、採用費、教育費まで含めて計算します。
医療法人設立時の予算明細でも、職員給与、法定福利費、役員報酬、福利厚生費、旅費交通費などを収支計画上で整理する例が示されています。
人件費計画では、以下を分けておくと、実務で使いやすくなります。
- 固定給与
- 変動給与
- 賞与
- 法定福利費
- 採用費
- 研修費
- 退職給付関連費用
- 外注・業務委託費
5. 売上計画・患者数計画とつなげる
採用によって、どの数字が改善するのかを明確にします。
患者数、初診数、診療単価、検査件数、処置件数、予約枠消化率、待ち時間、自由診療成約率、訪問件数、院長の診療時間、残業時間、離職率。
採用しても、それが売上や業務改善にどう効くのかを説明できなければ、結局は単なる固定費増にとどまってしまいます。
6. 資金繰り表に入れる
最後に、月次の資金繰り表へ反映します。
給与支払月、賞与支払月、社会保険料納付、源泉所得税納付、住民税特別徴収、労働保険料、採用費支払、紹介手数料、教育費支払、借入返済、納税、月末現預金。
開業後の月別収支では、借入返済、税金、人件費などの経費から逆算して、必要な医業収入や患者数を確認し、現預金残を見ながら資金計画に無理がないかを点検していくことが大切です。
採用の判断は、損益だけでなく、月末の現預金で行うものだと考えておきましょう。
賃上げ促進税制は補助線であり、採用判断の主役ではない
人件費計画では、賃上げ促進税制などの税制が関係してくる場合もあります。
中小企業向けの賃上げ促進税制は、令和6年4月1日から令和9年3月31日までの間に開始する各事業年度を対象として案内されています。
出典:中小企業庁|中小企業向け「賃上げ促進税制」
また、法人については令和6年4月1日から令和9年3月31日までの間に開始される各事業年度、個人事業主については令和7年から令和9年までの各年を対象とする制度として案内されています。
出典:経済産業省|賃上げ促進税制
ただし、「税額控除があるから賃上げする」という順番は危険です。
賃上げは、その後もずっと続く固定費増です。一方で、税制メリットはあくまで要件を満たした場合の税額控除であり、利益が出ていない場合や、控除限度、繰越、適用要件によって、その効果は変わってきます。
ですから、賃上げ促進税制は、採用・昇給計画の補助線として位置づけるべきものです。
本来の判断は、次の順番で行います。
- 診療体制上、必要か。
- 採用市場上、必要な水準か。
- 生産性向上と結びつくか。
- 資金繰り上、継続できるか。
- 税制メリットがある場合、その適用要件を満たすか。
税制は、最後に確認するものなのです。
採用計画が甘い医療機関で起こりやすい問題
採用・人件費を事業計画に織り込めていない医療機関では、次のような問題が起こりやすくなります。
- 人件費が毎年増えているのに、患者数や単価が伸びていない。
- 常勤採用が先行し、固定費が重くなっている。
- 採用後の教育体制がなく、早期離職が続いている。
- 賞与月に、資金繰りが苦しくなる。
- 社会保険料の事業主負担を見込んでいない。
- 残業代が予算化されていない。
- 最低賃金や採用市場の上昇を反映していない。
- 院長や事務長が、属人的に採用判断をしている。
- 人件費率は低いが、現場が疲弊している。
- 人件費率は高いが、どの部門が原因か分からない。
こうした状態では、採用が経営改善ではなく、むしろ経営悪化の要因になってしまいます。
承継・M&Aでも人件費計画は見られる
採用・人件費の整理は、日常の経営だけの問題ではありません。
将来の承継やM&Aの場面でも、人件費は重要な確認項目になります。
買い手や後継者は、次のような点を確認していきます。
- 職種別人員
- 常勤・非常勤の内訳
- 給与水準
- 賞与制度
- 退職金制度
- 社会保険加入状況
- 未払残業代リスク
- 就業規則・雇用契約書
- 勤怠管理
- 離職率
- 事務長・幹部スタッフの有無
- 院長依存度
- 採用難易度
- 人件費率の推移
医療機関の事業承継やデューデリジェンスでは、給与手当、賞与引当金、退職給付費用、退職給付引当金、社会保険料を含む潜在債務の確認が必要になることがあります。
つまり、採用と人件費の管理は、将来の説明責任にも関わってくるのです。
いまのうちから、人員計画、労務資料、給与台帳、勤怠、就業規則、社会保険手続を整えておくこと。これは、承継できる医療機関をつくるための基盤にもなります。
採用・人件費計画で毎月確認すべきKPI
採用した後は、月次で数字を確認していきます。
見るべきKPIは、次のとおりです。
- 人件費率
- 職種別人件費
- 常勤・非常勤比率
- 残業時間
- 有給取得状況
- 患者数
- 診療単価
- スタッフ1人あたり患者数
- 診療時間1時間あたり医業収益
- 受付・会計待ち時間
- 検査件数
- レセプト返戻・査定
- 離職率
- 採用費
- 教育期間
- 月末現預金
- 賞与引当・賞与予定額
採用した後に数字を追わなければ、その採用が成功だったのか、失敗だったのかを判断できません。
採用は、採って終わりではありません。
採用後の人件費、業務効率、患者対応、離職率を月次で見ながら、必要に応じて配置、役割、教育、給与体系、診療体制を修正していく。そこまでが、事業計画の運用なのです。
まとめ:人件費はコストであると同時に、医療機関の提供価値を支える投資である
医療機関の人件費は、単なる削減の対象ではありません。
患者さんに安全で継続的な医療を提供するためには、適切な人員配置が欠かせません。スタッフが疲弊すれば、患者対応、医療安全、院内の雰囲気、離職率に影響が及びます。院長がすべてを抱え込めば、成長投資、法人運営、資金繰り、承継準備に時間を割けなくなります。
その一方で、人件費は固定費です。
採用を誤れば、売上が伸びても資金が残らない医療機関になってしまいます。採用市場に流されて賃上げだけを行えば、損益分岐点が上がります。教育や定着を軽視すれば、採用費と離職コストが繰り返し発生します。
採用・人件費を事業計画に織り込むとは、次の問いに答えられる状態をつくることです。
- なぜ採用するのか。
- どの職種を採用するのか。
- いつ採用するのか。
- 常勤か、非常勤か。
- 総人件費はいくらか。
- 社会保険料や賞与まで含めているか。
- 採用後、どの数字が改善するのか。
- 何か月で戦力化するのか。
- 資金繰りに耐えられるか。
- 採用しない場合の代替策はあるか。
採用は、人の問題であると同時に、数字の問題でもあります。
人を大切にする医療機関ほど、人件費を感覚ではなく、計画と数字で管理していく必要があるのです。
採用・人件費を事業計画に織り込みたい医療機関の方へ
採用したいが、人件費がどこまで許容されるのか分からない。スタッフを増やすべきか、業務改善で対応すべきか迷っている。分院、在宅医療、診療時間延長に向けた人員計画を作りたい。賞与や社会保険料まで含めた資金繰りを確認したい。人件費率が高いのか、それとも必要な投資なのかを判断したい。金融機関や後継者に説明できる人員計画を整えたい。
こうした課題は、採用だけ、税務だけ、労務だけを見ていても、整理しきれるものではありません。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、医療機関の月次決算、資金繰り、事業計画、予実管理、人件費率分析、採用計画、法人運営、承継を一体で整理し、経営判断に使える数字へと整える支援を行っています。
採用・人件費を事業計画に織り込み、自院の成長と資金繰りの両方を見通したいとお考えの方は、犬飼公認会計士・税理士事務所HPのお問い合わせページからご相談ください。
重要ポイントの振り返り
| 論点 | 確認すべき数字・資料 | 経営判断へのつながり |
|---|---|---|
| 採用の目的 | 診療方針、患者数、診療時間、在宅・分院・自由診療の方針 | 採用が単なる補充か、成長投資かを判断できる |
| 人員計画 | 職種別人数、常勤・非常勤、採用時期、教育期間 | 必要な人材と採用タイミングを明確にできる |
| 人件費総額 | 給与、賞与、法定福利費、採用費、研修費、退職給付 | 月給だけでなく実質的な負担を把握できる |
| 人件費率 | 人件費 ÷ 医業収益 | 人件費が収益構造に対して重いかを確認できる |
| 労働分配率 | 人件費 ÷ 粗利 | 人件費が付加価値に見合っているかを判断できる |
| 採用の採算 | 追加人件費、必要増収額、必要患者数 | 採用を支える売上・患者数を逆算できる |
| 生産性 | スタッフ1人あたり患者数、診療時間あたり収益、残業時間 | 人を増やすべきか、業務改善すべきかを判断できる |
| 採用時期 | 採用月、試用期間、戦力化時期、売上貢献時期 | 支出先行による資金繰り悪化を防げる |
| 賞与計画 | 支給月、支給基準、賞与引当、源泉徴収、社会保険料 | 賞与月の資金不足を防げる |
| 社会保険負担 | 適用事業所、被保険者、短時間労働者、事業主負担 | 採用後の実質人件費を正しく見積もれる |
| 最低賃金・採用市場 | 地域別最低賃金、職種別給与水準、求人反応 | 採用できる条件と資金繰りのバランスを取れる |
| 残業・労働時間 | 勤怠、36協定、残業代、休憩、休日労働 | 見えない人件費と労務リスクを把握できる |
| 教育期間 | 研修計画、教育担当者、試用期間、業務到達度 | 採用後すぐに戦力化しない前提で計画できる |
| 離職コスト | 離職率、採用費、再教育費、既存スタッフ負担 | 採用より定着が重要な場面を判断できる |
| 代替策 | 業務改善、IT化、外注、非常勤活用、診療時間見直し | 採用以外の選択肢も含めて判断できる |
| 月次管理 | 予実差異、人件費率、残業、患者数、現預金残高 | 採用後の効果を継続的に検証できる |
| 承継・M&A対応 | 雇用契約、給与台帳、勤怠、就業規則、社会保険 | 将来第三者に説明できる医療機関に近づく |