分院を出す。 駅前の広い物件へ移転する。 診察室を増やす。 検査室を広げる。 在宅部門や自由診療部門のためのスペースを確保する。
これらは、クリニック経営における「攻め」の判断です。設計がうまくいけば、患者数の増加、診療効率の向上、採用力の改善、診療機能の拡張、さらには将来の承継のしやすさにもつながっていきます。
一方で、分院・移転・拡張は、失敗したときの影響も大きい判断です。家賃、内装費、医療機器、リース、借入返済、人件費、広告費、システム費、管理コストといった支出が先に増え、売上は遅れて立ち上がります。
加えて、院長の稼働、スタッフ採用、管理者要件、保健所・厚生局・都道府県への手続、医療法人の定款変更や議事録整備など、数字以外の論点も同時に発生します。
ですから、最初に見るべきなのは「良い物件があるか」ではありません。 見るべきなのは、その投資をした後も、医療機関として説明できる利益と資金が残るかです。
分院・移転・拡張は、似ているようでリスクの性質が違う
分院、移転、拡張は、いずれも成長投資です。ただ、経営上の意味はそれぞれ異なります。
| 判断 | 主な目的 | 大きく増えるもの | 特に注意すべきリスク |
|---|---|---|---|
| 分院 | 診療圏の拡大、患者層の拡張、複数拠点化 | 家賃、人件費、管理者、事務管理、広告費、借入返済 | 院長依存、分院長退職、本院との患者分散、管理不能 |
| 移転 | 立地改善、面積拡大、診療機能強化、採用力向上 | 内装費、家賃、移転費、設備費、広告費 | 既存患者の離脱、家賃上昇、工事遅延、保険指定手続 |
| 拡張 | 現施設の処理能力向上、診療導線改善、検査・処置機能強化 | 内装費、設備費、人件費、減価償却費、リース料 | 実際の患者増につながらない、休診・縮小診療期間の売上減 |
分院は、単に「もう一つ診療所を出す」ことではありません。固定費と管理責任を二重に背負う判断です。
移転は、単に「広くなる」ことではありません。既存患者の通院動線を変えながら、家賃・内装・設備・広告をまとめて引き受ける判断です。
拡張は、単に「手狭だから広げる」ことではありません。現在のボトルネックが、本当に面積にあるのか、それとも予約設計、スタッフ配置、診療導線にあるのかを見極める判断です。
この違いを整理しないまま、「伸びているから広げる」「物件が出たから移る」「患者が多いから分院を出す」と進めてしまうと、拡大したあとで数字が合わなくなります。
まず見るべきは「本院単独で利益と現金が残っているか」
分院・移転・拡張を検討するとき、意識はどうしても新拠点や新物件の売上計画に向かいます。しかし、最初に確認すべきなのは、いま現在の本院の状態です。
本院が単独で十分な利益と現金を生み出せていない状態で分院を出せば、新拠点の赤字を支えきれません。移転や拡張でも事情は同じです。投資後に売上が伸びる前提で計画を組んでも、立ち上がりが遅れれば、先に資金が減っていきます。
最低限、次の数字は確認しておきたいところです。
| 確認すべき数字 | 見る理由 |
|---|---|
| 直近12か月の月次売上 | 季節変動、成長傾向、診療科特性を確認する |
| 月次利益 | 本院が投資前に利益を出せているかを見る |
| 月末現預金 | 投資後の赤字期間に耐えられるかを見る |
| 借入残高 | 追加借入余力を判断する |
| 毎月の元本返済額 | 損益には出ない資金流出を把握する |
| 税引後利益 | 実際の返済原資を確認する |
| 減価償却費 | 会計上の費用と資金支出のズレを整理する |
| 3か月先までの資金繰り | 賞与、税金、返済、家賃が重なる月に耐えられるかを見る |
| 院長の診療時間 | 拡大後に院長がどこまで現場に入る必要があるかを見る |
| スタッフ数・離職率 | 拡大に耐える組織かを見る |
借入を判断するときは、銀行別の残高を並べるだけでは足りません。銀行借入、リース、分割払い、親族借入、医療機器ローンなど、実質的に返済が必要なものをすべて一覧にして見る必要があります。
借入金の元本返済は損益計算書上の費用ではありません。そのため、黒字でも資金が残らないという事態が起こります。分院や移転の前には、利益だけでなく、返済を終えたあとに手元へ残る現金まで確認しておくことが重要です。
「患者が多い」だけでは拡張理由にならない
患者数が多いことは、拡張を検討するきっかけにはなります。ただ、それだけでは判断材料として十分ではありません。
見るべきなのは、患者数の総量ではなく、患者数が増えている理由のほうです。
- 既存患者の再診が増えているのか
- 初診患者が増えているのか
- 健診や予防接種など、一時的な需要なのか
- 特定の曜日・時間帯だけ混雑しているのか
- 院長診察に偏っているのか
- スタッフ不足で処理能力が落ちているだけなのか
- 予約設計や診療導線を見直せば解決するのか
診療所経営では、外来患者数40人/日が一つの目安として示されることがあります。診療圏についても、都心で半径1〜3km、郊外で半径3〜5kmを目安に考える整理があります。
もっとも、これはすべての診療科・立地に機械的に当てはめられる数字ではありません。自院の診療科、患者層、交通動線、競合状況と照らし合わせて読む必要があります。
たとえば、待合室が混んでいても、その原因が予約枠の偏りにあるなら、拡張よりも予約設計の改善が先です。診察室が足りないように見えても、院長しか診察できない体制であれば、分院を出す前に医師採用や診療の標準化が必要になります。
患者数が多くても、単価が低く、検査や処置が少なく、スタッフの負荷だけが高い状態であれば、面積を増やしたところで利益率は改善しないこともあります。
拡張投資は、「忙しいから行う」ものではありません。どの制約を解消すれば利益と提供価値が改善するかを確認してから行うべきものです。
診療圏は「半径」ではなく、患者の移動実態で見る
分院・移転を判断するうえで、診療圏分析は欠かせません。
ただし、地図上に半径を描くだけでは不十分です。東京のような都市部では、直線距離よりも、駅、路線、バス、坂道、幹線道路、商業施設、オフィス街、住宅地、再開発エリア、競合クリニック、そして昼夜人口の差が、患者の行動を大きく左右します。
確認すべきなのは、次のような実態です。
| 見るべき項目 | 確認内容 |
|---|---|
| 既存患者の住所分布 | どのエリアから来院しているか |
| 駅・バス停からの動線 | 高齢者、子育て世帯、会社員が通いやすいか |
| 競合クリニック | 同一診療科、専門性、診療時間、口コミ、Web発信 |
| 昼間人口・夜間人口 | オフィス立地か住宅立地か |
| 患者層 | 慢性疾患、急性疾患、小児、女性、自由診療、在宅など |
| 現在の患者維持率 | 移転後も既存患者が通えるか |
| 新患獲得見込み | 新立地でどの患者層を増やすのか |
| 本院との重複 | 分院が本院の患者を奪わないか |
特に分院で見落とされやすいのが、本院とのカニバリゼーションです。本院から近いエリアに分院を出すと、全体の患者数が増えるのではなく、本院の患者が分院へ移るだけ、という結果になりかねません。その場合、グループ全体の売上はさほど増えず、家賃・人件費・管理コストだけが積み上がります。
移転では、既存患者の維持率が重要になります。駅前へ移れば新患は増えるかもしれませんが、現在通っている高齢患者や慢性疾患患者が通いにくくなれば、安定収益が失われてしまいます。
ですから移転後の売上計画では、「既存患者の何%が残るか」と「新患が何か月で立ち上がるか」を分けて考える必要があります。
初期投資は「内装費」だけで見てはいけない
分院・移転・拡張の初期投資は、内装費と医療機器費だけにとどまりません。
実務上は、次のような支出が発生します。
| 区分 | 主な内容 |
|---|---|
| 物件関連 | 保証金、敷金、礼金、仲介手数料、前家賃、共益費 |
| 設計・内装 | 設計料、施工費、電気・給排水・空調、X線防護、サイン工事 |
| 医療機器 | 診療科別機器、検査機器、処置機器、滅菌機器、ベッド |
| IT・システム | 電子カルテ、レセコン、予約、Web問診、会計、ネットワーク |
| 什器備品 | 受付、待合、診察室、バックヤード、ロッカー |
| 広報 | Webサイト、Google対応、看板、内覧会、パンフレット |
| 採用 | 求人広告、紹介料、採用面接、研修期間の人件費 |
| 手続 | 保健所、厚生局、医療法人手続、各種届出、専門家報酬 |
| 移転特有 | 旧施設原状回復、引越し、休診期間の売上減、二重家賃 |
| 予備費 | 工事追加、納期遅延、物価上昇、開業遅延への備え |
初期投資で特に危ういのは、見積金額をそのまま「投資総額」と思い込んでしまうことです。工事の追加、設備の変更、開業の遅延、採用難、広告の追加、旧物件の原状回復、保険指定のタイミングのずれといった要因で、当初の予定より資金が必要になることは珍しくありません。
また、内装や設備に投資したからといって、すぐに売上が立ち上がるとは限りません。初期投資は、投資額そのものだけでなく、黒字化までの赤字資金を含めて見ておく必要があります。
固定費の増加が、損益分岐点をどれだけ上げるかを見る
分院・移転・拡張の判断で最も重要なのが、固定費の増加です。
医療機関の費用は、患者数や売上に応じて増減する変動費と、売上にかかわらず発生する固定費に分けて考える必要があります。医薬品、検査外注費、診療材料などは変動費に近い性質を持ち、家賃、人件費、減価償却費、リース料、広告費、システム費などは固定費に近い性質を持ちます。損益分岐点を見るには、この区分が欠かせません。
基本的な考え方は、次のとおりです。
損益分岐点売上 = 固定費 ÷ 限界利益率 限界利益率 = 1 - 変動費率 必要患者数 = 損益分岐点売上 ÷ 平均診療単価 ÷ 診療日数
たとえば移転にともなって月額家賃が上がり、スタッフを2名増やし、医療機器リースが追加されれば、毎月の固定費は確実に増えます。その固定費を回収するには、何人の患者が、どの単価で、何か月後から来院する必要があるのかを計算しなければなりません。
ここで大切なのは、売上計画ではなく、固定費を先に見ることです。
固定費は、契約した瞬間から発生します。 患者数は、計画通りには増えません。 借入返済は、黒字化を待たずに始まります。 採用費と教育費は、開業前から発生します。
この順番を読み違えると、「売上は伸びているのに、資金が残らない」という状態に陥ります。
人件費は「採用できるか」まで含めて計画する
分院・移転・拡張では、人件費の計画がどうしても甘くなりがちです。
特に分院では、受付、会計、看護師、検査技師、事務長的な役割、分院長、非常勤医師、清掃、レセプト確認、労務管理、採用教育など、本院と同じような機能をもう一つ作り上げる必要があります。
確認すべきなのは、給与額だけではありません。
- 採用広告費
- 紹介会社手数料
- 採用までの期間
- 入職前の研修期間
- 社会保険料
- 賞与
- 退職リスク
- 教育担当者の時間
- 分院長・非常勤医師の報酬
- シフトの穴を埋める追加人件費
- 本院スタッフの応援負荷
医療機関では、スタッフ教育を後回しにすると、ミス、患者対応のばらつき、クレーム、ベテランへの負担集中、新人の離職、採用費の増加、そして院長が現場から離れられない状態へとつながっていきます。
教育は、短期的には時間を使います。しかし中長期で見れば、院長の時間を取り戻すための投資です。
分院や拡張は、採用できる前提で進めるのではなく、採用できなかった場合まで含めて計画しておく必要があります。
院長の稼働を「売上に換算」して見る
分院・移転・拡張の成否を大きく左右するのが、院長の稼働です。
多くのクリニックでは、売上の大部分が院長の診療時間に依存しています。分院を出しても、分院長が安定して診療できなければ、結局は院長が本院と分院を行き来することになります。移転や拡張でも、院長が採用、内装、機器選定、行政対応、スタッフ教育、広報対応に追われれば、その分だけ本院の診療や管理が手薄になります。
そのため院長の稼働は、時間で見るだけでは足りません。売上への影響として捉える必要があります。
| 確認項目 | 見方 |
|---|---|
| 院長の週当たり診療時間 | 現在の売上を支えている時間を把握する |
| 分院対応に使う時間 | 本院から抜ける時間を見積もる |
| 院長不在時の本院売上 | 代診医・勤務医で維持できるか |
| 院長が診ない場合の患者離脱 | 院長指名患者がどの程度いるか |
| 分院長退職時の代替体制 | 急な退職時に誰が診るか |
| 経営管理時間 | 月次確認、採用、会議、法人運営に必要な時間 |
分院を買収・承継する場面でも、院長個人の能力に依存しすぎた運営は大きなリスクになります。承継後に医師が退職し、患者数の減少や収益性の低下につながった事例を踏まえると、医師個人に依存しすぎずに運営できる診療上の特徴や仕組みを、あらかじめ検討しておく必要があります。
分院・移転・拡張は、院長の診療能力だけで乗り切れるものではありません。院長が現場を離れても回る仕組みをどこまで作れるか。それが投資判断の前提になります。
借入可能額ではなく「返済しながら続けられるか」を見る
金融機関が融資してくれるかどうかは、たしかに重要です。しかし、それは経営判断の最終基準ではありません。
借りられることと、返せることは違います。 返せることと、返しながら経営を続けられることも、また違います。
診療所経営では、借入金が売上高の1.5倍程度を一つの警戒ラインとして見る整理があります。ただし、この数字は安全圏を意味するものではありません。診療科、利益率、設備更新需要、返済期間、院長報酬、税負担、既存借入、リース契約によって、実際の安全性は大きく変わってきます。
追加借入を検討するときは、次のように整理します。
| 見るべき数字 | 確認内容 |
|---|---|
| 既存借入残高 | 本院の返済負担を把握する |
| 新規借入額 | 投資総額のうち借入で賄う金額 |
| 返済期間 | 月次返済額が過大にならないか |
| 据置期間 | 黒字化までの時間と合っているか |
| 元本返済額 | 損益に出ない資金流出を把握する |
| 支払利息 | 金利上昇時の影響を見る |
| 税引後返済原資 | 実際に返済に使える資金を見る |
| 設備更新余力 | 追加投資後も将来の更新資金が残るか |
| 資金繰り表 | 3か月、6か月、12か月先を確認する |
とりわけ注意したいのが、既存借入が残ったまま、次の大型投資を重ねるケースです。古い設備投資の返済が残っている状態で分院や移転の借入を上乗せすると、売上が少し下振れしただけで資金繰りが苦しくなります。
分院・移転・拡張では、金融機関に提出する事業計画だけでなく、自院自身が日常的に使う資金繰り表が必要です。
収支計画は「楽観・標準・保守」の3パターンで作る
分院・移転・拡張の計画では、標準ケースだけを描いても不十分です。
少なくとも、次の3パターンは作っておきたいところです。
| シナリオ | 前提 |
|---|---|
| 楽観ケース | 計画通り患者数が増え、採用も順調、工事遅延なし |
| 標準ケース | 患者数の立ち上がりは遅め、採用に一定期間、費用は見積通り |
| 保守ケース | 患者数が計画の70%程度、開業遅延、採用難、広告追加、工事増額 |
ここで重要なのは、保守ケースでも資金が尽きないかどうかです。
分院や移転は、開業初月から黒字になるとは限りません。むしろ立ち上げ期には、広告費、採用費、教育費、二重家賃、想定外の工事費、機器調整費、システム設定費が重なります。
そのため、次のような月次計画が必要になります。
- 売上
- 患者数
- 診療単価
- 人件費
- 家賃
- 医療機器リース
- 減価償却費
- 広告費
- システム費
- 借入返済
- 税金
- 月末現金
- 累積資金不足
- 黒字化月
- 投資回収期間
「年間では黒字になる予定」では足りません。月次で資金が足りなくなる月があれば、その時点で経営判断は行き詰まってしまいます。
移転では「既存患者の維持率」を必ず置く
移転計画では、新しい立地でどれだけ患者が増えるかに目が向きます。しかし、最も重要なのは、現在の患者がどれだけ残るかです。
移転後の売上は、おおまかに次のように分解できます。
移転後売上 = 既存患者維持分 + 新規患者獲得分 + 診療単価変化分
既存患者維持分を見ない移転計画は危険です。
駅前への移転で新患が増えても、慢性疾患患者や高齢患者が離脱すれば、継続収益が落ちることがあります。特に内科、整形外科、皮膚科、小児科、心療内科などでは、受診行動が診療科ごとに異なります。移転によって「便利になる患者」と「通いにくくなる患者」を分けて見ておく必要があります。
移転前に確認すべき数字は、次のとおりです。
| 数字 | 見方 |
|---|---|
| 患者住所別売上 | どのエリアの患者が売上を支えているか |
| 年齢別患者数 | 高齢者が移転後も通えるか |
| 疾患別患者数 | 慢性疾患患者を維持できるか |
| 来院頻度 | 継続患者の離脱影響を測る |
| 移転先までの所要時間 | 既存患者の通院負担を見る |
| 移転告知期間 | 患者離脱を防げるか |
| 休診期間 | 移転中の売上減を見込む |
| 旧物件原状回復費 | 移転費用に含める |
| 二重家賃 | 開業前後の資金繰りに入れる |
移転は、立地の改善であると同時に、患者との関係の再構築でもあります。既存患者を軽く見れば、計画上は成長投資であっても、実際には売上の入れ替えで終わってしまうことがあります。
分院では「本院との合算」ではなく、拠点別損益で見る
分院計画では、グループ全体の売上が増えるかどうかだけでは足りません。本院と分院を分けて損益を管理する必要があります。
分院別に見ておきたい数字は、次のとおりです。
| 分院別に見る数字 | 確認理由 |
|---|---|
| 分院売上 | 拠点単独の収益力を見る |
| 分院患者数 | 診療圏の立ち上がりを見る |
| 分院診療単価 | 本院と収益構造が違わないか |
| 分院人件費 | 拠点単独の人員過不足を見る |
| 分院家賃 | 固定費負担を把握する |
| 分院広告費 | 集患効率を見る |
| 分院医療機器費 | 稼働率と投資回収を見る |
| 本院からの応援人件費 | 実態として分院にかかるコストを見る |
| 本部管理費 | 経理・労務・レセプト・管理の負荷を配賦する |
| 分院利益 | 単独で黒字化できているかを見る |
全体では黒字でも、分院が赤字を垂れ流しているということがあります。逆に、分院が黒字でも、本院の院長不在やスタッフ応援によって本院の利益が減っていれば、グループ全体では期待した成果が出ていない、ということも起こります。
分院を出すなら、最初から拠点別損益を作る前提で、経理・会計・レセプト・給与・共通費配賦を設計しておくべきです。
拡張では「面積不足」か「運用不足」かを分ける
院内の拡張は、分院や移転に比べるとリスクが小さく見えます。しかし、現在の課題が本当に面積不足なのかを確認しないまま進めると、投資効果が出ません。
次のような場合は、拡張よりも運用改善が先かもしれません。
- 予約枠が偏っている
- 受付・会計に時間がかかっている
- 検査の段取りが悪い
- スタッフの役割分担が曖昧
- 電子カルテ・レセコンの入力が遅い
- 院長の説明が長く、標準化されていない
- 診察室はあるが、使えていない時間帯がある
- Web問診や予約システムを活用しきれていない
一方で、次のような場合には、拡張投資を検討する余地があります。
- 診療導線を改善すれば処理能力が上がる
- 検査室を増やすことで診療単価・患者満足が上がる
- 処置室を増やすことで待ち時間が減る
- 感染対策・プライバシー確保のために必要
- スタッフ休憩室やバックヤード整備により定着率が改善する
- 在宅医療・自由診療・健診などの部門を分けることで採算管理しやすくなる
拡張を判断するときは、投資後に増える売上だけでなく、待ち時間の短縮、スタッフ残業の削減、患者満足、離職防止、医療安全、感染対策への効果まで含めて見る必要があります。ただし、これらを理由にする場合でも、投資額、固定費、資金繰りへの影響は、必ず数字で確認すべきです。
保健所・厚生局・都道府県の手続を、資金計画に入れる
分院・移転・拡張では、行政手続の順番も経営判断に影響します。
法人が診療所を新たに開設する場合や移転する場合には、医療法上の開設許可申請、開設届、実地検査などが関係してきます。たとえば東京都北区の案内では、法人が区内に診療所を新たに開設する場合、北区へ移転する場合、また開設者を医師・歯科医師以外の者へ変更する場合には、事前の開設許可申請が必要とされ、事前相談、開設許可申請、許可、開設、開設届提出、実地検査という流れが示されています。
出典:東京都北区|診療所・歯科診療所の手続き(法人)
また医療法では、医師・歯科医師でない者が診療所を開設しようとするとき、開設地の都道府県知事等の許可が必要とされ、診療所に病床を設ける場合や、病床数・病床種別等を変更する場合にも許可が関係します。
出典:厚生労働省|医療法
保険診療を行うには、保険医療機関としての指定申請も必要です。関東信越厚生局は、保険医療機関または保険薬局の指定を受けようとするときの申請書類、指定事項の変更、廃止・休止・再開などの手続を案内しています。
出典:関東信越厚生局|保険医療機関・保険薬局の指定等に関する申請・届出
指定申請は、定められた様式に基づいて、医療機関・薬局が所在する都県を管轄する事務所に申請し、地方社会保険医療協議会への諮問を経て指定が行われる流れです。
出典:関東信越厚生局|保険医療機関・保険薬局の指定申請手続きの流れ及び添付書類等
この手続のタイミングを見誤ると、開業予定日に保険診療を始められない、家賃だけが先に発生する、スタッフ人件費が空回りする、といった資金繰りリスクが生じます。
ですから手続は、「法務・行政の問題」として別枠にせず、開業月、売上開始月、家賃発生月、借入実行月、返済開始月と合わせて、資金繰り表のなかに入れておく必要があります。
令和8年4月以降の管理者要件も確認する
分院や移転では、管理者の確保も重要です。特に新たに管理者となる医師・歯科医師については、最新の制度を確認しておくことが欠かせません。
厚生労働省は、令和8年4月1日から、保険医療機関の管理者となるためには一定の要件を満たす必要があるとし、保険医であること、一定期間の保険診療等への従事経験などを示しています。また管理者には、従業者の監督、保険医療機関の管理・運営、療担規則遵守の監督、診療報酬請求や施設基準届出の適正性、診療録・帳簿書類の整備保存、地域連携といった責務が求められます。
出典:厚生労働省|保険医療機関の管理者の要件・責務について
これは、分院計画に直接影響します。
「分院長候補がいる」というだけでは不十分です。
- その候補者が管理者要件を満たすか
- 常勤性・勤務体制に問題がないか
- 退職時の代替体制があるか
- 管理者として診療報酬請求や施設基準管理に関与できるか
- 本院の院長が実質的にすべてを見なければならない状態にならないか
分院は、医師を採用できれば終わり、というものではありません。管理者として機能できる医師を確保できるかどうかが、投資判断の前提になります。
外来医師過多区域では、事前届出・期限付指定にも注意する
都市部で分院や移転を検討する場合は、外来医師過多区域の論点にも注意が必要です。
関東信越厚生局の案内では、令和8年4月1日から、医療法において、都道府県知事が設定する外来医師過多区域で新たに無床診療所を開設し、保険医療機関の指定を受けようとする方について、開設の6か月前までに、地域外来医療の提供に関する意向等の事前届出を都道府県に行うこととされています。さらに、その内容を踏まえて都道府県知事が地域で不足する医療機能の要請・勧告を行う場合があり、要請・勧告に従っていないときは、健康保険法上、保険医療機関の指定期間が通常の6年ではなく、3年以内の期限付指定となることが示されています。
出典:関東信越厚生局|保険医療機関・保険薬局の指定申請手続きの流れ及び添付書類等
東京で分院や移転を検討する場合、この論点は特に重要です。物件契約、内装工事、採用を進めたあとで制度対応が遅れていると分かれば、開業時期や保険指定に影響する可能性があります。
新規開設・分院・移転を検討するときは、診療圏や採算だけでなく、地域医療の提供体制のなかで自院がどの機能を担うのかを説明できるようにしておく必要があります。
医療法人では、定款変更・議事録・登記も経営判断の一部になる
医療法人が分院を開設する場合は、単なる店舗展開のようには進みません。
医療法人の設立認可や届出等の手続については、医療法人の主たる事務所所在地の都道府県に問い合わせることとされています。また、2以上の都道府県で病院等を開設する医療法人の監督等に係る事務・権限も、平成27年4月1日から、主たる事務所所在地の都道府県知事へ移譲されています。
出典:厚生労働省|医療法人・医業経営のホームページ
さらに医療法人では、定款または寄附行為の変更は、厚生労働省令で定める一部の事項を除き、都道府県知事の認可を受けなければ効力を生じないとされています。
出典:厚生労働省|医療法
分院開設にあたっては、少なくとも次のような法人運営上の確認が必要になります。
- 定款・寄附行為上、分院開設が可能か
- 社員総会・理事会の決議が必要か
- 議事録を整備しているか
- 資金計画・予算を法人内で承認しているか
- 管理者・理事構成に問題がないか
- 分院所在地が登記事項や届出事項に影響しないか
- 都道府県への認可・届出の順番を確認しているか
- 金融機関への事前説明が必要か
- 既存借入契約に投資制限・事前承諾条項がないか
医療法人の定期的な届出・登記としては、決算届出、登記事項届出、役員変更届出、理事長変更登記、資産総額変更登記などが整理されています。分院や移転では、こうした法人運営手続の不備が、後になって金融機関対応、承継、M&A、行政対応の場面で問題化します。
金融機関には「物件の魅力」ではなく「返済可能性」を説明する
金融機関に対して、「駅前の良い物件です」「患者は増えると思います」と説明しても、それだけでは十分ではありません。
金融機関が見たいのは、返済可能性です。つまり、投資後にどのような収益構造になり、どの時点で黒字化し、返済しながら資金が残るのか、という点です。
説明資料には、少なくとも次の内容を入れておくべきです。
- 本院の過去3期決算書
- 直近12か月の月次試算表
- 既存借入一覧
- 月次資金繰り表
- 投資総額の内訳
- 自己資金と借入の内訳
- 新拠点・移転後・拡張後の月次損益計画
- 患者数・単価・診療日数の前提
- 採用計画
- 開業スケジュール
- 保健所・厚生局・都道府県手続の見通し
- 保守ケースの資金繰り
- 撤退・縮小条件
- 院長稼働と管理体制
金融機関向け資料を作る意味は、融資を通すことだけにあるのではありません。自院自身が、投資判断を説明できる状態になることにあります。
撤退条件は、投資前に決める
分院・移転・拡張では、撤退条件を投資前に決めておくべきです。
撤退条件というと、失敗を前提にしているように感じるかもしれません。しかし、実務上はむしろ逆です。撤退条件があるからこそ、冷静に挑戦できます。
たとえば、次のような基準を設けます。
- 開業後12か月で月間患者数が計画の70%未満の場合、診療時間を見直す
- 18か月で単月黒字化しない場合、固定費削減策を実施する
- 24か月で累積赤字が上限を超える場合、撤退・統合を検討する
- 分院長退職後3か月以内に後任を確保できない場合、本院統合を検討する
- 月末現預金が一定水準を下回った場合、広告・採用・設備投資を停止する
- 本院利益が一定割合以上減少した場合、分院運営方針を見直す
あわせて、賃貸借契約の解約予告期間、原状回復費、医療機器の売却可能性、リースの中途解約、スタッフ雇用、患者引継ぎ、保健所・厚生局への廃止届も確認しておきます。
撤退条件は、後ろ向きなものではありません。資金と組織を守るための経営管理です。
判断前に作るべき「一枚の数字表」
分院・移転・拡張を検討するときは、まず次の数字を一枚にまとめておくことをお勧めします。
| 区分 | 数字 |
|---|---|
| 現在の本院 | 月次売上、月次利益、月末現預金、患者数、診療単価 |
| 現在の固定費 | 家賃、人件費、リース、減価償却、外注費、広告費 |
| 借入 | 既存借入残高、毎月返済額、追加借入予定、返済開始月 |
| 投資 | 保証金、内装、機器、IT、広告、採用、移転費、予備費 |
| 新計画 | 患者数、診療単価、診療日数、売上、固定費、利益 |
| 院長稼働 | 本院診療時間、新拠点対応時間、管理時間 |
| 人員 | 必要職種、採用時期、給与、社会保険、教育期間 |
| 資金繰り | 開業前後12か月の月末現金、赤字期間、黒字化月 |
| 手続 | 保健所、厚生局、都道府県、法人議事録、登記 |
| 撤退条件 | 患者数、利益、資金残高、分院長退職時対応 |
この表を作ると、判断の質が変わります。
- 「なんとなく良い話」なのか
- 「本院の利益で支えられる投資」なのか
- 「資金繰り上、危険な投資」なのか
- 「院長依存が強すぎる計画」なのか
- 「法人手続が間に合わない計画」なのか
数字にしてみると、経営判断の論点が自然と見えるようになります。
分院・移転・拡張は、成長戦略である前に管理体制の試験である
分院・移転・拡張は、医療機関の成長戦略です。
しかし実際には、現在の管理体制が試される場面でもあります。
- 月次決算が遅い
- 現預金残高をすぐに確認できない
- 借入一覧がない
- 部門別損益がない
- スタッフの役割分担が曖昧
- 院長しか判断できない
- 採用基準がない
- 議事録や契約書の管理が弱い
- 保健所・厚生局・都道府県の手続を区別できていない
- 固定費と変動費を分けていない
- 資金繰り表がない
この状態のまま拡大すると、成長どころか、経営管理の弱さが一気に表面化します。
反対に、月次決算、資金繰り、借入一覧、部門別損益、人員計画、法人運営資料が整っていれば、分院・移転・拡張はぐっと検討しやすくなります。守りの仕組みは、成長を止めるためのものではありません。次の挑戦を、説明可能なものにするための基盤です。
犬飼公認会計士・税理士事務所へのご相談について
分院・移転・拡張を検討するとき、最終的に判断するのは院長・理事長です。
ただし、その判断には、診療圏、患者数、診療単価、固定費、初期投資、借入返済、人件費、院長稼働、資金繰り、医療法人手続、行政対応、将来の承継可能性を一体で整理した数字が必要になります。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、医療機関を単なる申告の対象ではなく、継続的に経営管理すべき事業体として捉えています。分院・移転・拡張を検討する際の月次数字、投資計画、資金繰り、借入返済、部門別採算、法人運営資料の整理を支援しています。
- 分院を出したいが、本院の資金耐久力が不安である
- 移転候補物件があるが、家賃と内装費が妥当か判断できない
- 拡張すべきか、運用改善で対応すべきか迷っている
- 金融機関に説明できる事業計画を作りたい
- 分院別損益や資金繰り表を整えたい
- 医療法人の定款変更、議事録、決算届と、法人運営・投資判断をつなげて整理したい
このような段階では、物件契約や借入申込の前に、まず現在の月次試算表、借入一覧、現預金残高、患者数、候補物件の見積、想定人員を整理しておくことが重要です。
お問い合わせページより、自院の状況と検討中の投資内容をお知らせください。判断に必要な数字と論点を、順番に整理してまいります。
この記事の重要ポイント振り返り
| 重要論点 | 確認すべき数字・資料 | 判断の意味 |
|---|---|---|
| 本院の安定性 | 月次利益、月末現預金、借入返済額 | 本院が投資後の赤字期間を支えられるか |
| 診療圏 | 患者住所、競合、駅動線、昼夜人口 | 分院・移転で本当に患者が増えるか |
| 既存患者維持率 | 年齢別患者数、通院距離、慢性疾患患者数 | 移転後に安定収益が残るか |
| 初期投資 | 保証金、内装、機器、IT、広告、採用、予備費 | 借入額と自己資金を判断する |
| 固定費 | 家賃、人件費、リース、減価償却、外注費 | 損益分岐点がどれだけ上がるか |
| 損益分岐点 | 固定費、変動費率、診療単価、診療日数 | 必要患者数を計算する |
| 資金繰り | 12か月資金繰り、税金、返済、賞与 | 黒字化前に資金ショートしないか |
| 借入安全性 | 借入残高、返済額、税引後返済原資 | 借りられるかではなく返し続けられるか |
| 院長稼働 | 診療時間、管理時間、分院対応時間 | 院長依存のまま拡大していないか |
| 採用・人員 | 必要職種、採用時期、給与、教育期間 | 組織が拡大に耐えられるか |
| 法人運営 | 定款、議事録、登記、決算届、理事会承認 | 医療法人として説明できる手続か |
| 行政手続 | 保健所、厚生局、都道府県、施設基準 | 開業時期と保険診療開始に影響しないか |
| 撤退条件 | 患者数、利益、現金残高、退職時対応 | 感情ではなく基準で見直せるか |