M&Aや事業承継の場面で会社の価格を考えるとき、「純資産を時価に直せばよい」と説明されることがあります。
たしかに時価純資産法は、決算書上の資産・負債を実態に近い金額へ修正し、株主に帰属する価値を把握するための重要な評価手法です。とりわけ、不動産や有価証券、余剰資金、保険積立金、借入金、簿外債務といった項目が価格判断を大きく左右する会社では、この手法の検討を避けて通ることはできません。
ただ、実務で本当に難しいのは、「時価純資産法を使うかどうか」ではありません。
難しいのは、その先にあります。どの資産を、どの水準まで、どの前提で時価修正するのか。どの負債を、どこまで控除するのか。含み益に対する税効果をどう考えるのか。そして、その結果をM&Aの取引価格へどう結びつけるのか。ここに実務の判断が詰まっています。
時価純資産法は、単なる計算作業ではありません。貸借対照表を、M&Aの意思決定に使える実態ベースの数字へと引き直していく作業なのです。
時価純資産法とは何か
時価純資産法とは、貸借対照表上の資産・負債を評価基準日時点の実態価値へ修正し、修正後の資産から修正後の負債を差し引いて株主価値を把握する方法です。
企業価値評価の実務では、貸借対照表に記載された純資産に着目して価値を捉える考え方を、ネットアセット・アプローチと呼びます。その代表的な評価法として位置づけられているのが、簿価純資産法や時価純資産法です。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号 企業価値評価ガイドライン
このうち時価純資産法は、貸借対照表の資産・負債を時価で評価し直して純資産額を算出し、1株当たりの時価純資産額を株主価値とみなす方法です。もっとも、すべての資産・負債を時価評価することは実務上難しいため、土地や有価証券などの主要資産の含み損益のみを時価評価することが多く、その点で修正簿価純資産法と呼ばれることもあります。
出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号 企業価値評価ガイドライン
基本的な考え方を整理すると、次のようになります。
| 項目 | 考え方 |
|---|---|
| 資産 | 帳簿価額ではなく、評価基準日時点の実態価値へ修正する |
| 負債 | 帳簿上の負債だけでなく、実質的な負担や負債類似項目を確認する |
| 純資産 | 時価修正後の資産から時価修正後の負債を控除する |
| 株主価値 | 修正後の純資産を株主に帰属する価値として見る |
| 取引価格 | 時価純資産を参考にしつつ、収益力・交渉条件・税務・リスクを踏まえて判断する |
ここで押さえておきたいのは、時価純資産法は「決算書を時価に置き換えるだけ」の作業ではない、ということです。
評価目的、評価基準日、取引スキーム、売主・買主それぞれの立場、そして税務・会計上の説明先によって、どこまで時価修正すべきかは変わってきます。
「どこまで時価修正するか」は重要性で決める
時価純資産法では、理論上はすべての資産・負債を時価へ修正することが考えられます。
しかし実務では、すべての勘定科目を同じ精度で時価評価するのは現実的ではありません。時間も費用もかかりますし、重要性の低い項目を細かく修正したところで、取引価格の判断にはほとんど影響しないことが多いからです。
そのため、時価修正の範囲は、次のような観点から見極めていく必要があります。
| 判断軸 | 確認すべきこと |
|---|---|
| 金額的重要性 | 評価額に大きな影響を与える項目か |
| 含み損益の可能性 | 帳簿価額と実態価値に大きな差があり得るか |
| 換金可能性 | 売却・回収・解約できる資産か |
| 事業との関係 | 事業に必要な資産か、非事業資産か |
| リスクの有無 | 回収不能、陳腐化、老朽化、保証、訴訟などのリスクがあるか |
| 説明先 | 株主、金融機関、後継者、税務当局、監査人等に説明が必要か |
| 取引スキーム | 株式譲渡、事業譲渡、合併、会社分割等のどれか |
| 評価目的 | M&A価格判断、税務上の時価確認、会計処理、会社法上の説明のどれか |
時価純資産法で避けたいのは、重要性のある資産・負債を見落としたまま、重要性の低い項目だけを細かく修正してしまうことです。
たとえば、土地の含み益や滞留在庫、回収困難な貸付金、未計上の退職給付、保証債務、未払税金などが控えているのに、少額の備品や前払費用の修正に時間を割いても、価格判断の質はほとんど高まりません。
時価純資産法では、「全部を細かく直す」ことよりも、「価値に影響する項目を外さない」ことのほうがはるかに大切です。
時価修正の出発点は評価基準日である
資産・負債を時価修正する前に、まず決めておかなければならないのが評価基準日です。
評価基準日が曖昧なまま時価純資産を算定すると、売主と買主のあいだで認識がずれてしまいます。直近期末の決算書を使うのか、直近月次の試算表を使うのか、基本合意日時点なのか、それともクロージング日時点なのか。どの時点を取るかによって、資産・負債の金額は変わってくるからです。
とりわけM&Aでは、検討の開始からクロージングまでに一定の時間を要します。その間にも、現預金、借入金、売掛金、在庫、未払金、納税額、運転資本は動き続けます。時価純資産法を価格交渉に用いるのであれば、評価基準日時点の純資産を価格に反映するのか、それともクロージング時に調整するのかを、あらかじめ整理しておく必要があります。
この点については、中小M&Aの実務でも、簿価純資産法、時価純資産法、類似会社比較法などで算定した株式価値・事業価値を土台に譲渡額を交渉するケースが多い一方、算出された金額がそのまま譲渡額になるわけではなく、最終的には当事者同士が合意した金額が譲渡額になる、と整理されています。
つまり、時価純資産は交渉の土台にはなりますが、最終価格そのものではありません。評価基準日と、価格決定日・クロージング日を混同しないこと。これが実務上は非常に重要になります。
不動産は時価修正の中心論点になりやすい
時価純資産法で最も大きな影響を及ぼしやすい資産のひとつが、不動産です。
土地は取得時期によって、帳簿価額と実勢価格が大きく乖離していることがあります。建物も同様で、帳簿上は減価償却後の金額で表示されていても、実際の使用価値や修繕負担、耐用年数、再調達コスト、解体費用などを踏まえると、帳簿価額だけでは判断できません。
不動産を時価修正する際には、少なくとも次の点を確認します。
| 確認項目 | 見るべきポイント |
|---|---|
| 所有者 | 会社所有か、代表者・親族所有か |
| 利用状況 | 事業用、賃貸用、遊休、社宅、役員利用など |
| 帳簿価額 | 取得価額、減価償却、過去の評価損益 |
| 時価資料 | 固定資産税評価額、路線価、近隣取引、鑑定評価等 |
| 権利関係 | 借地権、賃貸借、担保、共有、使用貸借 |
| 売却可能性 | 売れる資産か、事業継続に不可欠か |
| 処分コスト | 解体費、測量費、土壌汚染対応、仲介手数料等 |
| 税務影響 | 売却時の法人税等、消費税、不動産取得税等の接点 |
ここで特に意識したいのは、事業に使っている不動産と、事業に使っていない不動産を分けて捉えることです。
事業用不動産は、将来の収益を生み出すために必要な資産です。これを単純に「売却すればいくら」と見てしまうと、事業を継続するという前提と矛盾してしまうことがあります。
一方、遊休不動産や賃貸不動産、事業と直接関係のない不動産については、非事業資産として株主価値に別途反映すべき場合があります。ただしその場合でも、売却可能性や税負担、担保設定、利用制限はあわせて確認しておく必要があります。
なお、税務上の株式評価の場面でも、取引相場のない株式の純資産価額については、課税時期における各資産を所定の評価方法で評価した合計額から、各負債の金額および評価差額に対する法人税額等相当額を控除して算出することとされています。さらに、一定の土地等・家屋等については、通常の取引価額に相当する金額による評価が求められる場面があります。これはあくまで税務上の株式評価に関する定めであり、M&Aの時価純資産法とは目的が異なりますが、不動産評価が純資産評価へ大きな影響を与えることを理解するうえで参考になります。
出典:国税庁|財産評価基本通達 第8章 第1節 株式及び出資 185 純資産価額
有価証券・投資資産は「時価」と「事業性」を分けて見る
有価証券や投資資産も、時価純資産法では重要な修正対象になります。
上場株式や投資信託であれば、市場価格を把握しやすい場合があります。一方で、非上場株式、関係会社株式、出資金、投資事業有限責任組合への出資などは、単純に帳簿価額で評価してよいとは限りません。
確認すべき点は、おおむね次のとおりです。
| 投資資産 | 主な確認論点 |
|---|---|
| 上場有価証券 | 市場価格、含み益・含み損、売却可能性、税負担 |
| 非上場株式 | 評価方法、財務内容、支配関係、回収可能性 |
| 関係会社株式 | 事業上必要か、投資目的か、実質価値があるか |
| 出資金 | 返還可能性、評価資料の有無、損失負担 |
| 投資事業組合等 | 純資産報告、未実現損益、流動性、契約条件 |
有価証券は、時価が把握しやすいように見えても、それをM&A価格へどう反映するかはまた別の問題です。
事業上必要な関係会社株式であれば、事業価値の一部として見るべき場合があります。反対に、余剰運用資産として保有している上場株式であれば、非事業資産として別途加算すると考えるほうが自然な場合もあります。
ここでも大切なのは、時価の有無だけにとらわれないことです。その資産が事業価値を生む資産なのか、それとも株主に帰属する余剰資産なのかを、しっかり分けて捉える必要があります。
棚卸資産は「売れる金額」と「帳簿価額」がずれやすい
棚卸資産は、帳簿上の金額がそのまま実態価値を表しているとは限りません。
商品、製品、仕掛品、原材料は、販売可能性や陳腐化、滞留期間、品質、返品リスク、評価損の計上状況によって価値が変わります。とくに、長期間動いていない在庫や型落ち品、特定顧客向けの専用品、保管状態に問題がある在庫などは、帳簿価額をそのまま時価純資産に用いると、過大評価になってしまう可能性があります。
棚卸資産で確認すべき論点は、次のとおりです。
| 確認項目 | 見るべきポイント |
|---|---|
| 滞留在庫 | 長期間動いていない在庫はないか |
| 陳腐化 | 型落ち、品質劣化、需要減少はないか |
| 評価損 | 会計上、必要な評価減が行われているか |
| 販売可能額 | 実際に売れる金額は帳簿価額を上回るか |
| 仕掛品 | 完成可能性、追加原価、顧客検収リスク |
| 原価計算 | 原価配賦や棚卸評価に大きな歪みがないか |
| 返品・値引き | 販売後の返品・値引きリスクがないか |
棚卸資産は、M&A価格だけでなく、正常運転資本やクロージング時の価格調整にもつながってきます。
ですから時価純資産法では、棚卸資産の金額を直すだけでは十分ではありません。その在庫が事業運営上必要なものなのか、過大在庫なのか、あるいは買主が引き受けるべき在庫なのかというところまで整理しておく必要があります。
売掛金・貸付金は回収可能性を見る
売掛金、未収入金、貸付金は、帳簿上は資産であっても、回収できなければ価値はありません。
とりわけ、長期滞留債権、特定取引先への大口債権、代表者・役員・関係会社への貸付金は、時価純資産法で注意すべき項目です。
確認すべき点は、次のとおりです。
| 項目 | 確認すべき内容 |
|---|---|
| 売掛金 | 入金遅延、貸倒懸念、回収条件 |
| 未収入金 | 発生原因、回収予定、証憑 |
| 貸付金 | 相手先、契約書、返済実績、担保、利息 |
| 役員貸付金 | 実質的な回収可能性、税務上の問題、承継時の扱い |
| 関係会社貸付金 | 関係会社の財務状態、返済原資 |
| 仮払金 | 内容不明な支出、実質的な費用・貸付の可能性 |
時価純資産法では、債権を「あるかないか」ではなく、「回収できるかどうか」で見る必要があります。回収可能性の低い資産を帳簿価額のまま残してしまうと、純資産を過大に評価することになりかねません。
なかでも役員貸付金や関係会社貸付金は、売主側では資産として認識していても、買主側からは回収リスクや税務リスクとして見られることがあります。M&Aの価格判断では、単なる資産項目としてではなく、交渉論点として整理しておくべきものです。
固定資産は「使えるか」「売れるか」「更新が必要か」を見る
機械装置、車両、工具器具備品、建物附属設備といった固定資産は、帳簿価額と実態価値がずれやすい項目です。
減価償却が進んで帳簿価額が小さくなっている資産でも、実際には事業に欠かせない設備であることがあります。反対に、帳簿価額が残っていても、老朽化が進み、買主が追加投資を迫られる設備もあります。
固定資産の確認では、次の3つの視点が重要になります。
| 視点 | 内容 |
|---|---|
| 使用価値 | 事業継続に必要で、今後も使えるか |
| 処分価値 | 売却・廃棄した場合に価値があるか |
| 更新負担 | 近い将来に修繕・更新投資が必要か |
時価純資産法で固定資産を評価するときは、「売ればいくらか」だけでなく、「買主が引き継いだ後にどれだけ追加投資が必要になるか」まで見ておく必要があります。
たとえば、帳簿上の固定資産が大きくても、老朽化した設備が多く、数年以内に大規模な更新投資が必要であれば、買主はその負担を価格へ反映しようとします。逆に、帳簿価額は低くても、稼働状態が良好で更新投資の負担が小さい設備であれば、事業価値を支える資産として評価されます。
保険積立金・解約返戻金は実現可能額を見る
中小企業では、生命保険や長期保険に係る保険積立金が貸借対照表に計上されていることがあります。
この場合、帳簿価額と解約返戻金が一致するとは限りません。時価純資産法では、評価基準日時点で実際に解約した場合の返戻金、契約者貸付の有無、税務影響、そして事業継続上の必要性を確認していきます。
保険は、単なる金融資産にとどまりません。経営者保障、退職金準備、借入金返済原資、節税目的、福利厚生など、さまざまな背景を抱えていることがあります。そのため、買主が引き継ぐのか、それとも売主側で解約・整理するのかによって、価格への反映のしかたが変わってきます。
繰延税金資産は慎重に見る
繰延税金資産は、将来の税金負担を軽減する効果が期待される会計上の資産です。
しかし、M&Aの時価純資産法において、この繰延税金資産をそのまま価値として認めてよいかどうかは、慎重に判断する必要があります。将来の課税所得が見込めなければ、繰延税金資産の回収可能性は限られてしまいます。さらに、買主の事業計画や取引スキームによって、税務メリットを実現できるかどうかも変わってきます。
繰延税金資産については、次の点を確認します。
| 確認項目 | 見るべきポイント |
|---|---|
| 発生原因 | 繰越欠損金、引当金、減損、税務否認項目など |
| 回収可能性 | 将来課税所得で利用できるか |
| スキーム影響 | 株式譲渡、合併、会社分割等で利用可能性が変わらないか |
| 期限 | 繰越欠損金等の期限があるか |
| 買主価値 | 買主にとって実際に経済的便益があるか |
繰延税金資産は、会計上は資産に見えても、M&A価格へそのまま加算できるとは限りません。将来の利用可能性とスキーム上の制約を確認したうえで、評価に反映していく必要があります。
退職給付・賞与・未払費用は負債の時価修正で見落とされやすい
時価純資産法では、どうしても資産の時価修正に目が向きがちです。しかし実務上は、負債の確認も同じくらい重要になります。
とくに、退職給付、賞与、未払残業代、未払社会保険料、未払税金、未払費用などは、会計上十分に計上されていない場合があります。これらを見落とすと、純資産を過大に評価してしまうことになります。
確認すべき負債・負債類似項目は、次のとおりです。
| 負債項目 | 確認すべき内容 |
|---|---|
| 借入金 | 金額、返済条件、担保、保証、期限の利益喪失条項 |
| 未払金・未払費用 | 発生済み債務が漏れていないか |
| 未払税金 | 法人税、消費税、源泉税、地方税等 |
| 賞与引当 | 支給対象期間に対応する負担が計上されているか |
| 退職給付 | 退職金規程、要支給額、未認識債務 |
| 未払残業代 | 労務リスク、過去分の潜在債務 |
| リース債務 | 実質的な債務として把握すべきものがないか |
| 資産除去債務 | 原状回復、撤去、環境対応の負担 |
| 保証債務 | 代表者・関係会社・第三者への保証 |
| 訴訟・紛争 | 将来の支払可能性、補償義務 |
時価純資産法では、「決算書に載っている負債を控除する」だけでは足りません。買主が実質的に引き受ける負担を確認したうえで、必要に応じて負債、あるいは価格調整項目として反映していくことが求められます。
簿外債務・偶発債務は価格ではなく契約で処理する場合もある
簿外債務や偶発債務は、時価純資産法のなかでも最も難しい論点のひとつです。
金額を合理的に見積もれる場合には、純資産から控除することが考えられます。一方、金額や発生可能性が不確実な場合には、価格で一括して減額するのではなく、表明保証、補償、エスクロー、クロージング前対応、譲渡対象からの除外といった方法で処理することもあります。
法務デュー・ディリジェンスの実務でも、発見された法的問題点やリスクが、M&A取引の実行可否やストラクチャー、対価算定に影響を与えることがあります。法的リスクが対象会社・事業の価値に悪影響を及ぼす場合には、取引対価の算定にあたって考慮され得るものです。だからこそ、時価純資産法で把握する財務上の修正と、契約上のリスク配分とを、きちんと切り分けて考える必要があります。
ここで大切なのは、簿外債務や偶発債務を「価格に入れるか、入れないか」という二択で捉えないことです。
| 状況 | 対応の方向性 |
|---|---|
| 金額が合理的に見積もれる | 時価純資産から控除する |
| 金額は不明だが発生可能性が高い | 価格調整・補償条項を検討する |
| 発生可能性は低いが影響が大きい | 表明保証・補償・エスクローを検討する |
| リスクが重大で切り離し可能 | スキーム変更や譲渡対象除外を検討する |
| 事業継続に不可避 | 買主が引き受ける前提で価格に反映する |
時価純資産法は財務上の評価手法ですが、M&Aにおいては契約条件と切り離して考えることができません。価格で調整すべきリスクと、契約で守るべきリスクを分けて整理しておくことが重要です。
税効果を控除するかどうかは機械的に決めない
時価純資産法では、含み益や含み損に対する税効果をどう扱うかが問題になります。
たとえば、会社が帳簿価額より高い土地を保有しているとします。その土地を売却すれば、含み益に対して法人税等が発生する可能性があります。このとき、時価評価額から税負担相当額を控除すべきかどうかが論点になります。
ただ、M&Aの時価純資産法においては、税効果を常に控除するとも、常に控除しないともいえません。
判断には、次のような観点が必要になります。
| 判断軸 | 税効果を考えるポイント |
|---|---|
| 資産の保有目的 | 売却予定か、継続使用予定か |
| 取引スキーム | 株式譲渡か、事業譲渡か、組織再編か |
| 買主の意図 | 買収後に資産を売却する予定があるか |
| 含み益の実現可能性 | 近い将来に課税が現実化するか |
| 価格交渉 | 売主・買主のどちらが税負担を織り込むべきか |
| 評価目的 | M&A価格判断か、税務上の株式評価か、会計目的か |
企業価値評価の実務でも、再調達時価純資産法と清算処分時価純資産法とでは前提が異なり、含み損益に係る法人税相当額を控除するかどうかは、評価目的や資産の保有目的などに応じて個別に検討する必要があります。
また、税務上の非上場株式評価では、財産評価基本通達の純資産価額方式において、評価差額に対する法人税額等相当額を控除する仕組みが設けられています。
出典:国税庁|財産評価基本通達 第8章 第1節 株式及び出資 185 純資産価額
ただし、これはあくまで相続税・贈与税等における取引相場のない株式評価のルールです。M&Aの取引価格判断に、同じ考え方をそのまま当てはめられるとは限りません。M&Aの価格判断では、資産を売却する前提なのか、継続保有する前提なのか、そして買主が実際に税負担を負うのかを、ひとつひとつ確認していく必要があります。
会計上の「時価」とM&Aの「時価」は同じではない
時価純資産法でいう「時価」は、会計基準上の時価、公正価値、税務上の時価、M&A交渉上の実態価値と混同されやすい言葉です。
会計基準では、時価を、算定日において市場参加者間で秩序ある取引が行われると想定した場合に、資産の売却によって受け取る価格、または負債の移転のために支払う価格、と定義しています。そのうえで、時価の算定にあたっては、状況に応じて十分なデータが利用できる評価技法を用い、関連性のある観察可能なインプットを最大限に利用することなどが求められています。
出典:企業会計基準委員会|企業会計基準第30号 時価の算定に関する会計基準
もっとも、この会計基準上の時価は、会計処理や開示のための概念です。M&Aの時価純資産法で用いる実務上の時価は、取引価格の判断や交渉、説明責任のために使われるものであり、会計基準上の時価と常に一致するわけではありません。
また、M&A後にPPA(取得原価の配分)を行う場合には、取得原価を被取得企業の資産・負債の時価へ配分し、残余をのれん、または負ののれんとして認識する会計処理が問題になります。PPAでは、貸借対照表に計上されていなかった識別可能無形資産等も評価の対象になり得ます。
ですから、時価純資産法で作成した買収前の価格判断資料と、買収後のPPA目的の公正価値評価とを、混同してはいけません。
時価純資産法で無形資産をどう扱うか
時価純資産法は、基本的には貸借対照表上の資産・負債を基礎とする方法です。
そのため、顧客基盤、技術、ブランド、ノウハウ、営業権、人材、許認可、取引先との関係といった、貸借対照表に十分には表れていない価値を反映しにくい、という限界があります。
収益力のある会社では、時価純資産よりも、DCF法やマルチプル法による評価額のほうが高くなることがあります。その差額は、会社の超過収益力、のれん、無形資産、シナジー期待などを反映している可能性があります。
一方で、収益力が乏しい会社や、資産保有会社、不動産保有会社、休眠・清算に近い会社では、時価純資産法の重要性が高まります。
つまり時価純資産法は、無形資産や将来収益力を完全に評価するための方法ではありません。この手法で把握できるのは、主として「資産負債ベースの株主価値」です。事業の将来性まで評価しようとすれば、インカム・アプローチやマーケット・アプローチとの比較が欠かせません。
中小M&Aの実務でも、バリュエーションの方法はコストアプローチ、マーケットアプローチ、インカムアプローチに分類され、中小M&Aでは時価純資産法で算定されるケースが多い一方、判断が困難な場合にはM&Aを専門とする公認会計士等の専門家や公的機関と連携することが必要とされています。
時価修正すべき資産・負債の整理
実務では、次のように分類して考えると、時価修正の範囲を整理しやすくなります。
| 区分 | 主な項目 | 時価修正の考え方 |
|---|---|---|
| 現金性資産 | 現預金、定期預金 | 原則として額面ベース。ただし拘束性・担保設定を確認 |
| 債権 | 売掛金、未収入金、貸付金 | 回収可能性を確認し、貸倒リスクを反映 |
| 棚卸資産 | 商品、製品、仕掛品、原材料 | 滞留、陳腐化、販売可能額、評価損を確認 |
| 不動産 | 土地、建物、賃貸物件、遊休地 | 事業用・非事業用を分け、時価資料と税負担を確認 |
| 有価証券 | 上場株式、非上場株式、投資信託 | 市場価格、実質価値、流動性、税負担を確認 |
| 固定資産 | 機械、車両、設備、備品 | 使用価値、処分価値、更新投資負担を確認 |
| 保険 | 保険積立金、解約返戻金 | 解約返戻金、契約者貸付、税務影響を確認 |
| 繰延税金資産 | 繰越欠損金等 | 回収可能性とスキーム上の利用可能性を確認 |
| 借入金 | 金融機関借入、役員借入 | 返済条件、保証、担保、期限の利益を確認 |
| 未払債務 | 未払金、未払費用、未払税金 | 発生済み債務の網羅性を確認 |
| 人件費関連 | 賞与、退職給付、未払残業代 | 規程、実態、潜在債務を確認 |
| 偶発債務 | 保証、訴訟、環境、補償 | 金額見積りまたは契約上のリスク対応を検討 |
この表で大切なのは、すべてを機械的に時価修正することではありません。
評価額に影響する項目を特定し、根拠資料を確認したうえで、修正の要否と金額を説明できる状態にしておくこと。そこに意味があります。
時価純資産法の評価手順
時価純資産法を実務で進める場合、次の順序で整理していくと、判断がぶれにくくなります。
1. 評価目的を確認する
最初に確認すべきなのは、何のための評価か、という点です。
M&A価格交渉のためなのか、株主間取引の説明のためなのか、税務上の時価確認のためなのか、会社法上の手続のためなのか、それともPPAのためなのか。目的によって、評価の考え方は変わります。
同じ「時価純資産」という言葉を使っていても、評価目的が違えば、時価の意味も、税効果の扱いも、説明先も変わってくるのです。
2. 評価対象と基準日を決める
会社全体を評価するのか、一部事業を評価するのか。株式価値を評価するのか、事業価値を評価するのか。まずはここを決めます。
あわせて、評価基準日を明確にします。直近期末、直近月次、基本合意日、クロージング日など、どの時点の資産・負債を見るのかを定めておかないと、評価額の意味そのものが曖昧になってしまいます。
3. 貸借対照表を実態ベースに整理する
決算書、月次試算表、勘定科目内訳書、固定資産台帳、借入明細、契約書、税務申告書などを確認し、貸借対照表の数字が実態を表しているかどうかを見ていきます。
この段階では、会計処理の誤り、未計上債務、役員関連取引、実在性に問題のある資産などを洗い出します。
財務デュー・ディリジェンスの主たる目的は、対象会社の過去の損益・キャッシュ・フローの実績を把握し、現在の財務状況を評価してリスクを特定するとともに、将来の事業計画の基礎となる情報を入手することにあります。時価純資産法はデュー・ディリジェンスそのものではありませんが、財務実態の確認なしに適切な時価修正を行うことはできません。
4. 重要な資産・負債を時価修正する
すべての項目を細かく評価するのではなく、評価額に影響する重要項目から時価修正していきます。
不動産、有価証券、棚卸資産、貸付金、固定資産、保険積立金、借入金、退職給付、未払税金、簿外債務などが、その主な対象になります。
5. 税効果を検討する
含み益・含み損について、法人税等相当額を控除するかどうかを検討します。
この判断は、資産の売却予定、保有目的、取引スキーム、買主の意図、評価目的によって変わります。税務上の純資産価額方式と、M&Aの時価純資産法とを混同しないように注意してください。
6. 事業価値・取引価格との関係を確認する
最後に、時価純資産法による評価額を、DCF法やマルチプル法、交渉価格、価格調整条件と比較します。
時価純資産より収益価値が高い場合、その差は何を表しているのか。反対に、時価純資産より収益価値が低い場合、資産が収益を生んでいないのか、それとも将来リスクが大きいのか。ここまで整理して、はじめて時価純資産法は意思決定資料として使えるようになります。
時価純資産法を使うべき会社・使うだけでは足りない会社
時価純資産法が有効な会社もあれば、時価純資産法だけでは不十分な会社もあります。
| 会社の特徴 | 時価純資産法の位置づけ |
|---|---|
| 不動産保有会社 | 主要な評価手法になりやすい |
| 投資資産・余剰資金が多い会社 | 非事業資産の把握に有効 |
| 収益力が乏しい会社 | 清算価値・残存価値の確認に有効 |
| 資産超過だが低収益の会社 | 収益価値との比較が重要 |
| 安定して利益を生む事業会社 | DCF・マルチプルとの併用が必要 |
| 成長性が高い会社 | 時価純資産だけでは過小評価になりやすい |
| 知的財産・人材・顧客基盤が価値の源泉の会社 | 無形資産・収益力の評価が必要 |
| 事業譲渡・会社分割 | 譲渡対象資産負債の特定が重要 |
| 株式譲渡 | 会社全体の負債・簿外リスクまで確認が必要 |
時価純資産法は、資産・負債の実態を把握するうえで強力な方法です。
しかし、将来の収益力、成長性、シナジー、人的資本、顧客基盤、ブランド、組織力までを十分に反映する方法ではありません。収益力のある会社や成長企業で、時価純資産法だけを頼りに価格判断をすると、会社の価値を過小に見てしまうおそれがあります。
反対に、DCFやマルチプルで高い評価額が出ていても、時価純資産を確認することで、非事業資産、過大負債、簿外リスク、資産の含み損を発見できることがあります。
時価純資産法は、単独で価格を決めるための方法というより、会社の財務実態を確認し、他の評価手法の結果を検証するための基礎資料でもあるのです。
時価純資産法でよくある誤解
誤解1:時価純資産がそのまま譲渡価格になる
時価純資産は、たしかに重要な参考値です。しかし、最終的な譲渡価格は、収益力、将来性、交渉状況、支払条件、リスク分担、税務影響、契約条件によって変わります。
とくに中小M&Aでは、時価純資産に一定年数分の利益を加算して交渉されることもあります。ただし、その加算額に理論的な唯一の正解があるわけではありません。正常収益力、事業リスク、買主の期待、売主の希望、そして交渉環境を踏まえて判断していく必要があります。
誤解2:時価修正は資産だけ見ればよい
時価純資産法では、どうしても資産の含み益にばかり目が向きがちです。
しかし実務上は、負債の見落としこそが価格判断に大きく影響します。未払税金、退職給付、保証、訴訟、環境対応、役員関連取引などを確認しなければ、純資産を過大に評価してしまうおそれがあります。
誤解3:税務上の純資産価額方式と同じでよい
税務上の純資産価額方式と、M&Aの時価純資産法は似ていますが、その目的は異なります。
税務上の純資産価額方式は、相続税・贈与税等における取引相場のない株式の評価ルールです。一方、M&Aの時価純資産法は、取引価格判断や交渉、説明資料のために財務実態を把握する方法です。両者を混同すると、税務上は説明できても、取引価格としては説明しにくい評価になってしまうことがあります。
誤解4:鑑定評価や専門家評価を取れば自動的に正しい
不動産鑑定、株式評価、PPA評価などの専門家評価は、もちろん重要です。
しかし、評価書があることと、その評価をM&Aの価格判断にどう使うかは、別の問題です。評価目的、評価基準日、前提条件、利用制限、税効果、取引スキームとの整合性を確認しなければ、評価結果を誤って使ってしまう可能性があります。
時価純資産法を意思決定に使うための整理
時価純資産法を実務で使う際には、最終的に次の問いへ答えられる状態にしておくことが重要です。
| 問い | 判断のために必要な整理 |
|---|---|
| どの時点の純資産か | 評価基準日、利用資料、後発事象 |
| 何を時価修正したか | 重要な資産・負債、修正理由、根拠資料 |
| 何を時価修正しなかったか | 重要性、資料制約、影響額の見込み |
| 税効果をどう扱ったか | 売却前提、継続保有前提、税務上の整理 |
| 非事業資産を分けたか | 余剰現金、不動産、有価証券、保険等 |
| 簿外債務を確認したか | 保証、訴訟、税務、退職給付、未払債務 |
| 収益価値と比較したか | DCF、マルチプル、正常収益力との整合 |
| 取引価格にどう使うか | 交渉レンジ、価格調整、契約条件への接続 |
| 誰に説明するか | 株主、金融機関、後継者、税務・会計関係者 |
この整理がないまま「時価純資産はいくらです」とだけ示しても、M&Aの意思決定には十分とはいえません。
大切なのは、評価額そのものではなく、その評価額がどの前提に基づいているのか、どのリスクを織り込んでいるのか、そしてどの論点を別途確認すべきなのかを、きちんと説明できることです。
時価純資産法は、貸借対照表を「取引判断に使える数字」へ変える作業である
時価純資産法は、帳簿上の純資産を時価に修正する評価手法です。
しかし、その本質は、単に資産を高く直し、負債を差し引くことではありません。
事業に必要な資産と不要な資産を分ける。帳簿価額と実態価値の差を把握する。回収できない資産を見直す。未計上の負担を確認する。含み益に対する税負担を考える。収益価値と比較する。そして、交渉価格や契約条件へ接続する。
ここまで整理して、はじめて時価純資産法はM&Aの判断材料になります。
時価純資産法は、会社の「現在の財務実態」を見るための方法です。一方で、M&Aで問われる価格は、将来の収益力、買主の期待、リスクの引受け、交渉条件によって決まります。
だからこそ、時価純資産法は、価格を決めるための答えではなく、価格を判断するための土台として使うべきものなのです。
時価純資産法による価格判断を整理したい場合
M&A・事業承継・資本政策・組織再編の場面で、時価純資産法をどこまで精緻に行うべきかは、会社の資産構成、収益力、株主構成、税務関係、取引スキームによって変わります。
とくに、次のような場合には、早い段階で資産・負債の時価修正論点を整理しておくことが重要です。
- 不動産、有価証券、余剰資金、保険積立金などが多い
- 帳簿価額と実態価値に大きな差がありそうな資産がある
- 棚卸資産、貸付金、固定資産の実在性・回収可能性に不安がある
- 借入金、保証、未払債務、退職給付、税務リスクがある
- 税務上の時価や会社法上の説明可能性も問題になりそうである
- 仲介会社等から提示された価格の根拠を確認したい
- DCFやマルチプルによる評価額と純資産額に大きな差がある
犬飼公認会計士・税理士事務所では、M&A・承継・資本政策・組織再編における企業価値評価や取引価格判断について、決算書上の数字だけにとどまらず、時価純資産、非事業資産、簿外債務、税務上の時価、会計上の影響、説明可能性を踏まえた論点整理を支援しています。
時価純資産法を使って、自社の価格判断をどこまで説明できる状態にすべきか。それを整理したいとお考えの場合は、お問い合わせページからご相談ください。
この記事の振り返り
| 論点 | 押さえるべきポイント |
|---|---|
| 時価純資産法の本質 | 貸借対照表の資産・負債を実態価値へ修正し、株主価値を把握する方法 |
| 修正範囲の決め方 | すべてを細かく直すのではなく、評価額に影響する重要項目を外さない |
| 評価基準日 | 直近期末、直近月次、クロージング時点など、どの時点の数字かを明確にする |
| 不動産 | 事業用・非事業用、含み益・含み損、税負担、権利関係を確認する |
| 有価証券 | 市場価格だけでなく、事業性、流動性、税負担を確認する |
| 棚卸資産 | 滞留、陳腐化、販売可能額、評価損を確認する |
| 債権・貸付金 | 回収可能性、役員・関係会社取引、貸倒リスクを確認する |
| 固定資産 | 使用価値、処分価値、更新投資負担を確認する |
| 負債 | 借入金だけでなく、未払債務、退職給付、保証、偶発債務を確認する |
| 税効果 | 含み益に対する法人税等相当額を控除するかは、評価目的・保有目的・取引スキームで判断する |
| 税務上の純資産価額方式 | M&A価格判断とは目的が異なるため、同じものとして扱わない |
| 会計上の時価 | 会計基準上の時価やPPA目的の公正価値と、M&A交渉上の時価純資産を混同しない |
| 取引価格との関係 | 時価純資産は価格交渉の土台であり、最終価格そのものではない |
| 実務上の使い方 | DCF・マルチプル・取引条件と比較し、価格判断の説明材料として使う |