就業規則・雇用契約・院内ルールを整える|医療機関の労務管理を属人化させない実務

医療機関の労務トラブルは、ある日突然起こるように見えて、その実、起こる前から小さなズレが積み重なっていることが少なくありません。

採用のときに説明した勤務条件と、実際の勤務実態が食い違っている。受付、会計、レセプト、診療補助、清掃、電話対応といった役割分担が曖昧なまま動いている。スタッフに注意したいけれど、何を根拠に注意すればよいのか分からない。副業、SNS、患者情報の取扱い、遅刻・欠勤、休職、復職、退職といったルールが、どこにも明文化されていない。院長や事務長の感覚で対応してきた結果、スタッフごとに扱いがそろっていない。

こうした状態のまま人が増えていくと、組織は次第に不安定になります。院長が直接目を配っているうちは、なんとか回っているように見えるものです。しかし、分院展開、在宅医療、診療時間の拡大、スタッフの増員、医療法人化、承継、M&Aといった段階を考えはじめると、属人的な労務管理は明確なリスクへと変わります。

就業規則や雇用契約書は、単なる労務書類ではありません。医療機関にとっては、患者さんの情報を守り、スタッフ間の役割を明確にし、院内の判断基準をそろえ、経営者が後から説明できる組織をつくるための、いわば管理の土台です。

目次

就業規則は「大きな医院だけのもの」ではない

労働基準法上、常時10人以上の労働者を使用する事業場では、就業規則を作成し、所轄の労働基準監督署へ届け出る必要があります。就業規則を変更した場合も同様です。ここでいう労働者には、正職員だけでなく、パートタイム労働者やアルバイトも含まれます。

出典:e-Gov法令検索|労働基準法 出典:厚生労働省|就業規則について

この「常時10人以上」は、医療機関全体ではなく、原則として事業場単位で判断します。たとえば複数の分院がある場合には、本院と分院をどう見るのか、実態に応じて確認しておく必要があります。

もっとも、常時10人未満のクリニックなら就業規則は不要だ、という発想は、経営管理としては不十分です。むしろ小規模な医療機関ほど、スタッフ一人ひとりの影響は大きくなります。ルールがないまま、遅刻、欠勤、患者対応、個人情報、会計ミス、SNS投稿、副業、休職、退職などに向き合おうとすると、院長や事務長の判断はその都度ぐらついてしまいます。

法律上の届出義務があるかどうかと、院内ルールを明文化すべきかどうかは、分けて考えるべきものです。スタッフ数が少ない段階であっても、最低限の労務ルールを整えておくことは、将来の採用、定着、分院、承継に向けた投資になります。

就業規則・雇用契約・院内ルールは役割が違う

労務管理を整えるとき、混同しやすいのが、就業規則・雇用契約・院内ルールの違いです。

就業規則は、医院全体に共通して適用される基本ルールです。労働時間、休日、休暇、賃金、退職、解雇、服務規律、懲戒、安全衛生、休職、ハラスメント、副業など、スタッフが働くうえでの共通の土台を定めます。

雇用契約書、あるいは労働条件通知書は、個別のスタッフとの労働条件を明示するものです。職種、雇用区分、契約期間、就業場所、業務内容、勤務日、勤務時間、賃金、賞与、退職に関する事項などを、その人ごとに確認していきます。

院内ルールは、日々の現場運用を具体化するものです。受付対応、電話対応、レセプト締め、窓口現金、電子カルテ入力、患者情報の取扱い、清掃、感染対策、備品管理、SNS利用、クレーム報告、緊急時連絡などが、これに当たります。

この3つを混ぜてしまうと、途端に運用しにくくなります。すべてを就業規則に細かく書き込めば、変更のたびに手続が重くなります。かといって、重要な労働条件や懲戒・解雇に関わる事項を院内マニュアルだけに置いてしまうと、後から根拠が弱くなってしまいます。

実務上は、次のように整理すると運用しやすくなります。

  • 就業規則には、全スタッフに共通する基本ルールと重要な労働条件を置く
  • 雇用契約書・労働条件通知書には、個別の勤務条件を置く
  • 院内ルール・業務マニュアルには、日々の業務手順と行動基準を置く

ここで大切なのは、3つの文書の内容が互いに矛盾しないことです。求人票には「残業なし」と書き、雇用契約では「時間外労働あり」とし、実際には毎日残業している、といった状態は、そのままトラブルの火種になります。

労働条件通知書は、採用後のトラブルを防ぐ最初の管理資料

労働基準法第15条は、労働契約を結ぶ際、使用者が労働者に対して賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならないと定めています。具体的に何を明示するかは、労働基準法施行規則第5条に定められています。

出典:e-Gov法令検索|労働基準法 出典:e-Gov法令検索|労働基準法施行規則

とりわけ注意したいのは、令和6年4月1日から、労働条件明示のルールが改正されている点です。すべての労働者について、就業場所・業務の変更の範囲を明示する必要があります。また、有期契約労働者については、更新上限の有無と内容、契約更新の判断基準などの明示が重要になります。

出典:厚生労働省|令和6年4月から労働条件明示のルールが改正されます 出典:厚生労働省|令和6年4月より、募集時等に明示すべき事項が追加されます

医療機関では、業務の変更範囲が曖昧になりやすい傾向があります。

受付として採用したのに、会計、電話、レセプト補助、清掃、物品管理まで担当する。看護師として採用したのに、診療補助だけでなく、検査、患者さんへの説明、物品管理、感染対策、在宅医療補助まで担う。本院勤務の予定だったが、将来は分院や訪問診療拠点で働く可能性がある。午前勤務として採用したが、繁忙期やスタッフ欠勤時には午後勤務をお願いすることがある。

こうした可能性があるなら、どこまでを職務範囲として説明するのか、どこからは本人との合意が必要になるのかを、あらかじめ整理しておく必要があります。採用時に曖昧にしたまま入職させると、後になって「聞いていない」という不満につながります。

雇用契約書や労働条件通知書は、労務管理のための形式書類ではありません。採用の時点で、医院側とスタッフ側が同じ前提に立つための資料です。

就業規則に必ず入れるべき事項、医院ごとに設計すべき事項

就業規則には、法律上必ず記載すべき事項と、制度を設ける場合に記載すべき事項があります。労働時間、休憩、休日、休暇、賃金、昇給、退職に関する事項などは、就業規則の中心になります。退職手当、賞与、安全衛生、職業訓練、災害補償、表彰・制裁などは、制度を設ける場合に記載すべき事項です。

出典:e-Gov法令検索|労働基準法 出典:厚生労働省|モデル就業規則について

医療機関で、とりわけ設計を誤りやすいのは、次の項目です。

労働時間とシフト

診療時間と勤務時間は、同じではありません。診療開始前の準備、診療終了後の片付け、レセプト作業、会議、研修、清掃、在宅医療の移動時間などをどう扱うのか、整理しておく必要があります。

休日と休暇

木曜午後、土曜午後、日祝休診といった診療体制と、労働基準法上の休日、年次有給休暇、特別休暇は、別のものとして考える必要があります。

賃金

基本給、時給、資格手当、職務手当、固定残業代、賞与、昇給、通勤手当、退職金の有無を明確にします。固定残業代を導入する場合は、通常の賃金部分と固定残業代部分、そして対象となる時間数を、はっきりと分けておく必要があります。

服務規律

医療機関では、患者情報、カルテ、レセプト、窓口現金、SNS、患者さんとの私的連絡、医薬品・備品の持ち出し、院内撮影、院外での発言など、一般企業以上に慎重なルールが求められます。

懲戒

遅刻、無断欠勤、情報漏洩、ハラスメント、横領、虚偽報告、患者さんへの不適切な対応などに、どう対応するかを定めます。ただし、懲戒は重い処分になるほど、慎重な手続と事実確認が必要になります。

休職・復職

メンタル不調、私傷病、産前産後、育児・介護との関係で、診断書、休職期間、復職判断、再休職、職場復帰支援をどう扱うのかを整理します。

退職・解雇

自己都合退職の申出時期、引継ぎ、貸与物の返却、守秘義務、競業や患者情報の取扱い、解雇事由、普通解雇と懲戒解雇の区分などを明確にします。

就業規則は、ひな形をそのまま使えば足りる、というものではありません。診療時間、職種構成、レセプト体制、在宅医療の有無、分院の有無、夜間・休日対応の有無、医療法人か個人開業か。こうした条件によって、実務に合う内容は変わってきます。

周知されていない就業規則は、現場では機能しない

就業規則は、作成してファイルにしまっておくだけでは意味がありません。労働基準法第106条は、就業規則などを常時、各作業場の見やすい場所へ掲示・備え付ける、書面で交付する、あるいは一定の方法で労働者へ周知することを求めています。

出典:e-Gov法令検索|労働基準法

労働契約法第7条は、使用者が合理的な労働条件を定めた就業規則を労働者に周知していた場合、労働契約の内容はその就業規則で定める労働条件によるものとする、と定めています。つまり就業規則は、「作ったかどうか」だけでなく、「合理的か」「周知されているか」が問われるのです。

出典:e-Gov法令検索|労働契約法

医療機関のなかには、就業規則をスタッフに見せると権利主張が強くなるのではないか、と感じる経営者もいます。しかし、ルールを隠したままでは、スタッフ側も何を守ればよいのか分かりません。それどころか、院長や事務長の判断がその都度変わって見え、かえって現場の不信感を生んでしまいます。

就業規則は、スタッフを縛るための文書ではありません。医院としての基本姿勢を明らかにし、同じルールで運用していくための共通基盤です。

服務規律は、医療機関の信頼を守る中心項目

医療機関の服務規律では、一般的な勤怠や職場秩序だけでなく、患者さんの信頼に直結する行動基準を、明文化しておく必要があります。

なかでも重要なのが、患者情報の取扱いです。カルテ、問診票、レセプト、予約情報、検査結果、紹介状、診療内容、そして患者さんが来院したという事実。これらが外部に漏れれば、患者さんの信頼を大きく損ないます。院内で見聞きした情報を家族や知人に話す、患者さんの情報を私物のスマートフォンで撮影する、業務上必要のないカルテを閲覧する、退職後に患者さんへ個別に連絡をする——こうした行為は、明確に禁止すべきです。

個人情報保護法上、病歴などは要配慮個人情報に該当し、その取扱いには特に慎重な対応が求められます。医療機関は患者情報を日常的に扱うからこそ、職員の守秘義務、アクセス権限、持ち出し禁止、廃棄方法、委託先管理を、院内ルールへ落とし込んでおく必要があります。

出典:個人情報保護委員会|個人情報の保護に関する法律についてのガイドライン(通則編)

出典:e-Gov法令検索|個人情報の保護に関する法律

次に重要なのが、患者さんへの対応です。患者さんへの説明、クレーム時の対応、金銭の授受、予約変更、診療内容への回答範囲、医師へ確認すべき事項、謝罪や返金の判断権限。これらをスタッフ個人の判断に委ねすぎないことが、大切です。

また医療機関では、越権行為も問題になりやすい領域です。経験のあるスタッフが、院長や事務長の承認なく、他のスタッフへ強い指示を出す。受付スタッフが、医療判断に近い説明をしてしまう。看護師や事務職員が、患者さんとの間で、医院として約束していない対応をしてしまう。こうした行為は、本人に悪意がなくても、組織運営上のリスクになります。

服務規律は、「してはいけないこと」を並べるだけでは機能しません。誰が判断し、誰に報告し、どこまでを自分で対応してよいのか。そこまで具体化することが重要です。

試用期間は「自由に解雇できる期間」ではない

試用期間を設ける医療機関は、数多くあります。しかし試用期間は、「合わなければ簡単に辞めてもらえる期間」ではありません。

労働契約法第16条は、解雇について、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合には、権利の濫用として無効になると定めています。これは試用期間中であっても、解雇の判断は慎重に行うべきだということを意味します。

出典:e-Gov法令検索|労働契約法

また、解雇を行う場合には、労働基準法上の解雇予告や解雇予告手当の問題も生じます。少なくとも30日前の予告、あるいは一定の解雇予告手当が必要となる場面があります。

出典:厚生労働省|労働契約の終了に関するルール
出典:厚生労働省|確かめよう労働条件 解雇予告期間は30日ですが、予告期間が足りない場合の対応は?

医療機関側がすべきことは、試用期間を雇用契約書に書くことだけではありません。試用期間中に何を評価するのかを、あらかじめ決めておくことです。

たとえば、勤怠、患者対応、報告・相談、個人情報の取扱い、電子カルテ入力、会計処理、確認の習慣、院内ルールの理解、チーム連携など。問題があった場合には、いつ、どのような事実があり、どのように指導し、改善状況はどうだったかを記録しておきます。

「何となく合わない」「院内の雰囲気に合わない」というだけでは、後から説明するのが難しくなります。試用期間は、感覚で判断する期間ではなく、職務適性と行動基準を確認する期間として運用する必要があります。

休職・復職ルールは、メンタル不調への備えとしても重要

医療機関では、患者対応、緊張感のある業務、少人数体制、職種間の連携、院長との距離の近さといった事情から、スタッフの心身の不調が表面化することがあります。

休職制度は、法律上必ず設けなければならない制度ではありません。しかし制度を設ける以上、就業規則で明確にしておかなければ、対応はどうしても属人的になってしまいます。

休職規定では、少なくとも次の点を整理しておきます。

  • どのような場合に休職となるのか
  • 診断書の提出を求めるのか
  • 休職期間は勤続年数や雇用区分によって異なるのか
  • 休職期間中の賃金や社会保険料負担をどう扱うのか
  • 休職期間満了時に復職できない場合はどうなるのか
  • 復職判断は誰が、どの資料に基づいて行うのか
  • 再発・再休職の場合に休職期間を通算するのか
  • 配置転換や業務軽減を検討する範囲はどこまでか

ここで注意したいのは、診断書があるから直ちに復職させる、あるいは直ちに復職不可とする、というものではないという点です。実際に従前の業務を安全に遂行できるかどうかを確認することが大切です。

医療機関には、患者対応、金銭管理、医療情報、診療補助など、ミスが患者さんや医院運営に直結する業務があります。復職の判断には、本人の意向だけでなく、業務内容、勤務時間、症状の安定性、主治医の意見、そして必要に応じて専門家の意見を踏まえる必要があります。

休職・復職ルールは、スタッフを排除するためのものではありません。本人、既存のスタッフ、患者さん、そして医院運営を守るために、あらかじめ判断手順を整えておくものです。

副業・兼業は「全面禁止」ではなく、管理すべきリスクを明確にする

副業・兼業については、以前より柔軟な取扱いが広がっています。厚生労働省は副業・兼業の促進に関するガイドラインを公表しており、モデル就業規則でも、副業・兼業に関する規定が整備されています。

出典:厚生労働省|副業・兼業 出典:厚生労働省|副業・兼業の促進に関するガイドライン

ただし医療機関では、副業を自由放任にすべきではありません。副業先が競合する医療機関であれば、患者情報や院内ノウハウの流出リスクがあります。夜間や休日に別の勤務をして疲労が蓄積すれば、患者対応や医療安全に影響しかねません。SNSや美容・健康関連ビジネスなどで、医院の信用に関わる発信をするケースも考えられます。

副業・兼業規定では、次の観点を整理しておきます。

  • 事前届出制にするのか
  • 副業先、業務内容、勤務時間をどこまで確認するのか
  • 長時間労働により本業に支障が出る場合の対応
  • 競業や患者勧誘に関する禁止事項
  • 患者情報、医院情報、営業秘密の漏洩防止
  • 医院の名誉・信用を損なう行為への対応
  • 副業による事故、感染症、体調不良が本業に影響する場合の報告義務

「副業は禁止」と一行で書くだけでは、今の実務には合いにくい場合があります。一方で、医療機関として守るべき患者情報、医療安全、職場秩序、信用は、明確に管理すべきです。

労使協定は「必要になったとき」では遅い

医療機関では、診療が長引く、急患対応がある、レセプト時期に残業が発生する、スタッフの欠勤でシフト変更が生じる——こうしたことが日常的に起こります。

法定労働時間を超える時間外労働や休日労働を行わせる場合には、いわゆる36協定を締結し、所轄の労働基準監督署へ届け出る必要があります。36協定は、届出の範囲で法定労働時間を延長し、または休日に労働させることができる制度です。

出典:e-Gov電子申請|時間外労働・休日労働に関する協定届
出典:厚生労働省|主要様式ダウンロードコーナー(労働基準法等関係主要様式)

クリニックでは、「少しの残業だから」「スタッフも分かってくれているから」と考えがちです。しかし、診療終了後の片付け、会計締め、レセプト、清掃、会議、研修、翌日の準備も、業務として行わせていれば、労働時間に該当する可能性があります。

また、シフト運用のために変形労働時間制を導入する場合、年次有給休暇の計画的付与を行う場合、賃金控除を行う場合など、労使協定が必要となる場面があります。医療機関の勤務体制は現場の実態に合わせて柔軟に設計すべきですが、その柔軟性を支えるためには、必要な労使協定と記録が前提になります。

有給休暇は「取れそうなときに取る」では管理できない

医療機関では、スタッフが少ないがゆえに、年次有給休暇を取得しづらい雰囲気になりやすいものです。しかし、年10日以上の年次有給休暇が付与される労働者については、使用者が年5日について時季を指定して取得させる義務があります。これは、管理監督者や有期雇用労働者も対象に含まれる場合があります。

出典:厚生労働省|年5日の年次有給休暇の確実な取得
出典:東京労働局|年5日の年次有給休暇の確実な取得

小規模なクリニックでは、有給休暇を取られると診療が回らない、という現実があります。だからこそ就業規則や院内ルールでは、有給申請の方法、繁忙期の調整、シフト作成の期限、半日単位・時間単位の取扱い、代替要員の考え方を、あらかじめ整えておく必要があります。

有給休暇の管理は、単なる労務対応ではありません。スタッフの定着、採用力、患者対応の品質にまで影響する、経営管理項目です。

ハラスメント規定は、院長・幹部も対象にしなければ機能しない

医療機関では、院長、配偶者、事務長、看護師長、ベテランスタッフの影響力が大きくなります。そのためハラスメント規定は、「スタッフ同士の問題」だけを想定していては不十分です。

パワーハラスメント防止措置は、中小企業についても令和4年4月1日から義務化されています。職場におけるハラスメント対策では、事業主の方針の明確化、相談体制、事後対応、再発防止、プライバシー保護、不利益取扱いの禁止などが重要になります。

出典:厚生労働省|労働施策総合推進法に基づく「パワーハラスメント防止措置」が中小企業の事業主にも義務化されます!
出典:厚生労働省|職場におけるハラスメントの防止のために

さらに、令和8年10月1日からは、カスタマーハラスメントや、求職者等に対するセクシュアルハラスメントの防止措置も、事業主の義務となる予定です。医療機関では、患者さんやご家族からの強い要求、暴言、長時間のクレーム、スタッフ個人への執着などが、現場の負担になることがあります。今後は、患者対応ルールやスタッフ保護の仕組みも、院内ルールとしていっそう重要になっていきます。

出典:厚生労働省|職場におけるハラスメントの防止のために

ハラスメント規定は、形式的に就業規則へ入れるだけでは不十分です。誰に相談するのか、院長が当事者の場合はどうするのか、相談者を不利益に扱わないことをどう周知するのか、事実確認は誰が行うのか。そこまで決めておく必要があります。

院内ルールは「口頭の注意」から「判断基準」へ変える

医療機関では、次のようなルールが、口頭で運用されがちです。

  • 遅刻したら電話する
  • 患者さんには丁寧に対応する
  • カルテは勝手に見ない
  • 現金が合わなければ報告する
  • クレームは院長に相談する
  • SNSに医院のことを書かない
  • 備品を持ち帰らない
  • 退職時には引継ぎをする

どれも、当然のことのように見えます。しかし、当然だと思っていることほど、スタッフ間で認識が食い違うものです。

たとえば「患者さんには丁寧に対応する」というルールだけでは、クレーム時にどこまで謝罪してよいのか、返金を約束してよいのか、医師の診療方針について受付がどこまで説明してよいのか、判断がつきません。

「SNSに医院のことを書かない」だけでは、制服姿の写真、院内の写真、患者さんからの差し入れ、職場の不満、退職後の投稿、採用サイトへの写真掲載など、どこまでが禁止されるのかが曖昧です。

院内ルールは、抽象的な標語ではなく、行動の判断基準にする必要があります。

医療機関で優先して整えるべき院内ルールは、次の領域です。

  • 患者情報の閲覧・持ち出し・廃棄
  • 電子カルテ、レセコン、予約システムのID管理
  • 窓口現金、返金、未収金、領収書の再発行
  • 電話対応、クレーム対応、患者さんやご家族への対応
  • 医師へ確認すべき事項と、スタッフ判断で対応できる事項
  • 医薬品、診療材料、備品、制服、鍵、スマートフォンの管理
  • SNS、口コミ、院内撮影、患者さんとの私的接触
  • 感染対策、清掃、事故・インシデント報告
  • 退職時の引継ぎ、貸与物の返却、守秘義務

こうしたルールは、スタッフを細かく管理するためのものではありません。患者対応を安定させ、スタッフを迷わせず、院長や事務長の判断負担を減らすために必要なものです。

就業規則と院内ルールは、承継・M&Aでも確認される

就業規則や雇用契約は、日常の労務管理だけの問題ではありません。将来、親族内承継、第三者承継、M&Aを検討する際にも、確認されることになります。

買い手や後継者が確認するのは、単にスタッフ数や給与総額だけではありません。

  • 雇用契約書は整っているか
  • 就業規則は実態に合っているか
  • 未払残業代のリスクはないか
  • 有給休暇の管理はできているか
  • 社会保険加入に漏れはないか
  • 退職金制度の有無と負担は明確か
  • 休職者、トラブル中のスタッフ、ハラスメント事案はないか
  • 院内ルールや情報管理体制は整っているか
  • キーパーソンに依存しすぎていないか

労務管理が整っていない医療機関は、承継のときにリスクとして評価されます。逆に、就業規則、雇用契約、勤怠、給与、院内ルール、教育記録が整っている医療機関は、後継者や外部の関係者に説明しやすくなります。

日常のルール整備は、将来の選択肢を広げるための準備でもあるのです。

整備の順番を間違えない

就業規則を整えると聞くと、まずは社労士にひな形を作ってもらうことを思い浮かべるかもしれません。それ自体は有効ですが、ひな形を入れる前に、自院の実態を整理しておくことが重要です。

最初に確認すべきは、現実の働き方です。

  • 職種ごとの業務範囲
  • 正職員、パート、非常勤医師、業務委託者の区分
  • 診療時間と実際の勤務時間
  • 残業が発生する場面
  • 休憩の取り方
  • 土曜勤務、夜間対応、在宅医療対応
  • 有給休暇の取得状況
  • 休職・退職・解雇に関する過去の事例
  • 副業やSNSに関する不安
  • 患者情報や窓口現金の管理方法
  • 院長、事務長、リーダーの権限分担

そのうえで、就業規則、雇用契約書、労働条件通知書、賃金規程、育児・介護休業規程、ハラスメント規程、情報管理ルール、院内マニュアルのどこに何を書くのかを決めていきます。

順番を整理すると、次のような流れになります。

  1. まず、現場の実態を棚卸しする
  2. 次に、雇用区分と職務範囲を整理する
  3. そのうえで、勤務時間、休日、休暇、賃金を整える
  4. 服務規律、情報管理、ハラスメント、副業、休職、退職、解雇を整える
  5. 必要な労使協定を確認する
  6. スタッフへ周知する
  7. 実際の運用記録を残す
  8. 年1回、または体制変更時に見直す

就業規則は、作って終わりではありません。運用して、見直して、経営の実態に合わせ続けていくものです。

経営判断としての労務管理

医療機関の労務管理は、単にトラブルを避けるためだけのものではありません。

  • スタッフが安心して働けること
  • 患者対応が安定すること
  • 院長が診療と経営判断に集中できること
  • 人件費を計画的に管理できること
  • 採用時に条件を明確に説明できること
  • 金融機関、行政、後継者、買い手に説明できること

これらはすべて、医療機関を継続させていくための経営基盤です。

就業規則、雇用契約、院内ルールは、医院を硬直化させるための書類ではありません。むしろ、現場の迷いを減らし、スタッフを守り、院長の判断を安定させるための仕組みです。

「守りを仕組みに、攻めを戦略にする」という視点で見れば、労務管理は守りで終わるものではありません。適切な採用、定着、分院展開、在宅医療、承継、M&Aへと進んでいくための、前提となるものです。

相談導線

就業規則や雇用契約の整備は、法令対応だけで完結するものではありません。医療機関では、診療時間、職種構成、患者対応、レセプト業務、窓口現金、個人情報、在宅医療、分院展開、人件費率、資金繰りまで含めて、現実に運用できるルールへ落とし込んでいく必要があります。

労務トラブルが起きてから対応するのではなく、採用、定着、成長、承継に耐えうる管理体制を、早めに整えておくことが大切です。

犬飼公認会計士・税理士事務所では、医療機関の月次数字、人件費、資金繰り、事業計画、内部管理の視点から、就業規則・雇用契約・院内ルールを経営管理へ接続するための論点整理を支援しています。自院の労務管理を、場当たり的な対応から、後から説明できる仕組みへと整えたい方は、お問い合わせページよりご相談ください。

本記事の振り返り

論点確認すべきこと軽視した場合に起きやすい問題
就業規則常時10人以上の事業場での作成・届出、内容の合理性、周知状況ルールの根拠が曖昧になり、注意・懲戒・解雇が説明しにくくなる
雇用契約・労働条件通知書業務内容、就業場所、変更範囲、契約期間、更新基準、賃金、勤務時間採用後に「聞いていない」という不満や早期離職につながる
服務規律患者情報、SNS、現金、患者対応、越権行為、備品管理患者さんの信頼低下、情報漏洩、スタッフ間トラブルが起きやすくなる
試用期間評価項目、指導記録、改善機会、解雇判断の根拠「試用期間だから大丈夫」と考え、労務トラブルになる
休職・復職診断書、休職期間、復職判断、再休職、社会保険料負担メンタル不調や私傷病への対応が属人的になり、現場負荷が増える
副業・兼業届出制、競業、情報漏洩、長時間労働、医院の信用本業への支障、患者情報の流出、信用毀損リスクが残る
労使協定36協定、変形労働時間制、有給の計画的付与、賃金控除など実態として残業やシフト運用があるのに、法的な前提が整わない
有給休暇管理年5日の取得義務、申請手続、シフト調整、取得記録人員不足を理由に取得が進まず、法令対応と定着に影響する
ハラスメント規定方針、相談窓口、事実確認、不利益取扱いの禁止、カスハラ対応院内不和、離職、患者対応品質の低下につながる
院内ルール受付、会計、レセプト、情報管理、クレーム、感染対策の手順現場判断がばらつき、院長・事務長への依存が強まる
承継・M&Aとの関係雇用契約、未払残業、有給、休職者、退職金、労務トラブルの有無後継者・買い手・金融機関に説明しにくい医療機関になる
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