相続のご相談をお受けしていると、決まって耳にする言葉があります。
「私は財産をもらわないので、相続放棄したことになりますよね」 「遺産分割協議書で取得分をゼロにすれば、借金も関係ありませんよね」 「兄が全部相続することにしたので、私はもう相続人ではありませんよね」
どれもよく聞く表現ですが、実務の現場では、いずれも慎重に区別しておかなければならないものです。
結論から申し上げます。相続放棄と、遺産分割協議で財産を取得しないことは、法律上も税務上も同じではありません。
相続放棄は、家庭裁判所への申述を経て、その相続について初めから相続人でなかったものとして扱われる制度です。これに対して遺産分割で取得しないことは、相続人としての地位は残したまま、相続人どうしの話合いでプラスの財産を取得しないと整理したにすぎません。
この違いを取り違えると、思わぬところで困った事態が生じます。財産を一切受け取っていないのに、債権者から借金の請求を受ける。生命保険金の非課税枠を使えない。相続税申告で取得財産を見落とす。親族の間では合意が済んでいるのに、金融機関や税務署、登記実務では説明が通らない。いずれも、現場で実際に起こり得ることです。
この記事では、「財産をもらわない」という一言を、相続放棄、相続分ゼロの遺産分割、相続分の譲渡という三つに分けて整理します。そのうえで、債務、税務、家族関係、申告後のリスクまで見据えた判断の軸を、私なりに解説していきます。
まず全体像を比較する
はじめに、混同されやすい三つの方法を並べて整理しておきます。
| 方法 | 法的な位置づけ | 相続人としての地位 | 家庭裁判所の手続 | 債務への影響 | 主な注意点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 相続放棄 | 民法上の相続放棄 | 初めから相続人でなかったものと扱われる | 必要 | 原則として承継しない | 3か月の熟慮期間、全財産について放棄、次順位相続人への影響 |
| 遺産分割で取得しない | 相続人間の遺産分割協議 | 相続人のまま | 不要 | 債権者には原則として対抗できない | 借金を避ける効果はない、相続税・特例・連帯納付義務の確認が必要 |
| 相続分の譲渡 | 遺産分割前に相続分を譲渡 | 譲渡後は分割手続から離脱し得る | 原則不要 | 債権者には原則として対抗できない | 有償・無償、譲受人、税務処理、債務負担の整理が必要 |
この表の分かれ目は、突き詰めれば一点に集約されます。「相続人でなくなる」のか、それとも「相続人のまま取得しないだけ」なのか、ということです。
相続放棄は、家庭裁判所に申述して受理されることで、その相続について初めから相続人でなかったものとみなされます。裁判所も、相続放棄は被相続人の権利も義務も一切受け継がない選択であり、家庭裁判所への申述が必要で、申述期間は自己のために相続の開始があったことを知った時から3か月以内である、と案内しています。
出典:裁判所|相続の放棄の申述
一方、遺産分割で取得分をゼロにすることは、あくまで相続人どうしが「誰がどの財産を取得するか」を決める協議にすぎません。相続人であること自体は消えません。実務上も、相続放棄と「遺産を受け取らない」という意思表示とでは法的な効果が異なり、遺産を受け取らないだけでは借金などの債務を承継する可能性が残る、という点に注意が必要です。
相続放棄とは何か
相続放棄とは、家庭裁判所に相続放棄の申述を行い、その相続について初めから相続人でなかったものとして扱われる制度です。
民法915条は、相続人が自己のために相続の開始があったことを知った時から3か月以内に、単純承認・限定承認・相続放棄のいずれかをしなければならない、と定めています。あわせて、相続人は承認または放棄をする前に相続財産を調査できることも示されています。
出典:e-Gov法令検索|民法第915条/日本法令外国語訳データベース|Civil Code Article 915
手続そのものについては、民法938条が、相続放棄をしようとする者は家庭裁判所に申述しなければならないと定めています。そして民法939条は、相続放棄をした者は、その相続に関しては初めから相続人とならなかったものとみなす、と定めています。
相続放棄の主な効果を整理すると、次のとおりです。
| 項目 | 相続放棄の効果 |
|---|---|
| プラス財産 | 原則として取得しない |
| 借入金・未払金などの債務 | 原則として承継しない |
| 遺産分割協議 | 参加しない |
| 相続順位 | 放棄者がいなかったものとして次順位者に影響する |
| 特定財産だけの放棄 | できない |
| 手続 | 家庭裁判所への申述が必要 |
| 期限 | 原則として相続開始を知った時から3か月以内 |
ここで押さえておきたいのは、相続放棄は「自宅はいらないが預金はほしい」「借金だけ放棄したい」「不動産だけ放棄したい」という、いいとこ取りができる制度ではないということです。
相続放棄をすれば、その相続について、プラスの財産もマイナスの財産も含めて、相続人としての地位そのものから離れます。ですから、債務超過が明らかな場合には有効な選択肢になります。
その一方で、生命保険金、死亡退職金、同族会社株式、事業資産、居住用不動産、農地、共有不動産といった財産が絡む場合には、放棄に踏み切る前に、その影響をひとつずつ整理しておく必要があります。
遺産分割で取得しないこととは何か
遺産分割で取得しないこととは、相続人全員の協議によって、特定の相続人の取得財産をゼロとすることです。
たとえば、父が亡くなり、相続人が長男・長女・次男の3人だとします。ここで、長男が自宅と預貯金をすべて取得し、長女と次男は何も取得しない、という遺産分割協議を成立させることがあります。
この場合、長女と次男は、財産を取得していないというだけで、法律上はあくまで相続人です。相続放棄をしたわけではありません。
遺産分割で取得しないことの特徴を整理すると、次のとおりです。
| 項目 | 遺産分割で取得しない場合 |
|---|---|
| 相続人としての地位 | 残る |
| 遺産分割協議への参加 | 必要 |
| 家庭裁判所への相続放棄申述 | 不要 |
| プラス財産 | 協議により取得しない |
| 債務 | 債権者に対しては責任が残る可能性がある |
| 期限 | 3か月の相続放棄期限とは別問題 |
| 次順位相続人 | 原則として出てこない |
実務上は、これを「相続分ゼロの遺産分割協議」と呼ぶことがあります。相続人の一人、あるいは複数が、自分の取得分をゼロとする協議です。相続放棄との大きな違いは、債務をゼロにすることを第三者に対抗できない点、そして詐害行為取消しの対象となり得る点にあります。
一番大きな違いは「借金を避けられるか」
相続放棄と遺産分割で取得しないことの、最も大きな違い。それは、被相続人の借金・保証債務・未払金などにどう影響するか、という点です。
遺産分割協議書に「長男がすべての債務を負担する」「長女は一切の財産・債務を取得しない」と書いたとしても、それは基本的に相続人どうしの内部的な取り決めにとどまります。債権者が承諾していない限り、債権者に対して当然に効力を主張できるとは限りません。
具体的に考えてみます。被相続人に銀行借入金3,000万円があり、相続人が子3人だとしましょう。遺産分割協議で、長男が不動産・預貯金・借入金をすべて引き受けると合意したとしても、銀行が承諾しなければ、ほかの相続人も法定相続分に応じた請求を受ける可能性があります。
この点は、実務上きわめて重要です。
| 状況 | 債権者から請求される可能性 |
|---|---|
| 家庭裁判所で相続放棄した | 原則として相続債務を承継しない |
| 遺産分割で取得分ゼロにした | 債権者には原則として対抗できない |
| 相続分を他の相続人へ譲渡した | 債権者には原則として対抗できない |
| 債権者の承諾を得て免責的債務引受をした | 承諾内容に従い、債務から離脱できる可能性がある |
相続人どうしで「この債務は特定の相続人が負担する」と合意しても、債権者に対しては効力を持たない場合があります。債権者の合意を得て免責的債務引受契約を結んで、はじめて遺産分割協議の内容を債権者に対しても有効にできる。この整理が、実務では欠かせません。
ですから、借金を承継したくない場合に、遺産分割で取得しないというだけでは足りないことがあるのです。債務超過が明らかであれば、相続放棄を検討すべき場面だといえます。
「財産をもらわない」と言うだけでは相続放棄にならない
税務の世界でも、「相続放棄をした人」と「事実上、財産を取得しなかった人」は、はっきり区別されます。
国税庁は、「相続を放棄した人」とは、相続の開始があったことを知った時から3か月以内に家庭裁判所へ相続放棄の申述をした人を指す、と説明しています。相続放棄の申述をせず、事実上、相続によって財産を取得しなかっただけの人は、これには当たりません。
出典:国税庁|No.4132 相続人の範囲と法定相続分/国税庁|相続税法基本通達3-1
このため、次のような書類を作ったとしても、それだけで相続放棄になるわけではありません。
| 書類・発言 | 相続放棄になるか |
|---|---|
| 「私は相続を放棄します」と書いた念書 | 家庭裁判所への申述がなければ相続放棄ではない |
| 遺産分割協議書で取得分をゼロにした | 相続放棄ではない |
| 他の相続人に「全部あげる」と伝えた | 相続放棄ではない |
| 相続分を譲渡した | 相続放棄ではない |
| 生前に「将来相続しない」と約束した | 原則として相続開始後の相続放棄ではない |
とりわけ気をつけたいのが、被相続人の生前に「相続放棄します」という書面を書かされてしまうケースです。相続放棄は、あくまで相続開始後に家庭裁判所へ申述する手続です。生前の約束や念書だけで、相続開始後の相続人としての地位や債務の承継が当然に消えるわけではありません。
相続放棄は「相続人でなくなる」ため、次順位相続人に影響する
相続放棄をすると、その相続については初めから相続人でなかったものとして扱われます。その結果、相続人の範囲そのものが変わることがあります。
たとえば、被相続人に配偶者と子がいる場合に、子全員が相続放棄をしたとします。すると、被相続人の直系尊属がいれば直系尊属が、直系尊属がいなければ兄弟姉妹が、新たに相続人になる可能性があります。
| 放棄した人 | 次に問題になり得る人 |
|---|---|
| 子全員 | 父母・祖父母など直系尊属 |
| 子・直系尊属がいない場合 | 兄弟姉妹 |
| 兄弟姉妹が死亡している場合 | 甥姪が代襲相続人になる場合がある |
遺産分割で取得しないだけであれば、こうした相続順位の移動は原則として起こりません。相続人はそのままです。
つまり、相続放棄は「自分だけがこの相続から関係を断つ」手続ではないのです。次順位の親族に、債務や空き家の管理、不動産登記、債権者対応が移っていく可能性があります。家族関係に配慮すべき場面では、放棄に踏み切る前に、次に誰が相続人になるのかを戸籍で確認しておく必要があります。
遺産分割で取得しない場合でも、法定単純承認に注意する
相続放棄を検討している段階で、先に遺産分割協議をしてしまうと、相続財産を処分したものとして単純承認と評価されてしまうリスクがあります。
民法921条は、相続人が相続財産の全部または一部を処分したときは、一定の場合に単純承認をしたものとみなす、と定めています。
実務上、次のような行動には注意が必要です。
| 行動 | 注意点 |
|---|---|
| 遺産分割協議書に署名押印する | 相続する前提の行為と評価される可能性がある |
| 被相続人名義の預金を解約して使う | 法定単純承認のリスクがある |
| 不動産を売却する | 処分行為に該当し得る |
| 相続財産を親族で分ける | 後から相続放棄が難しくなる可能性がある |
| 債務の一部を弁済する | 弁済の性質・原資により問題になる場合がある |
ですから、債務があるかどうか分からない、相続放棄を検討する余地がある、事業債務や保証債務が疑われる。そうした場合には、遺産分割協議書を作る前に、承認するのか放棄するのかの判断を済ませておくべきです。
相続分の譲渡とは何か
相続分の譲渡とは、相続開始後、遺産分割が成立する前に、共同相続人が自分の相続分を、ほかの相続人や第三者へ譲り渡すことです。
民法905条は、共同相続人の一人が遺産分割前にその相続分を第三者へ譲り渡したとき、ほかの共同相続人は、その価額と費用を償還することで、その相続分を譲り受けることができる、と定めています。
出典:e-Gov法令検索|民法第905条/日本法令外国語訳データベース|Civil Code Article 905
相続分の譲渡は、相続人の人数を減らして遺産分割協議を進めやすくしたい、特定の相続人に財産を集めたい、あるいは早期に代償金のような金銭を受け取りたい、といった目的で使われることがあります。
| 相続分譲渡の場面 | 実務上の目的 |
|---|---|
| 相続人が多い | 協議の当事者を減らす |
| 遠方・海外居住者がいる | 手続負担を減らす |
| 特定の人に財産を集めたい | 承継先を整理する |
| 早く金銭を受け取りたい | 有償譲渡により資金化する |
| 共有を避けたい | 不動産の持分分散を防ぐ |
ただし、相続分を譲渡しても、相続放棄とは違います。相続分の譲渡は、相続人としての地位そのものを初めから消す制度ではありません。
遺産分割前に、自己の法定相続分をほかの相続人へすべて譲渡すると、事実上の相続放棄に近い使われ方をすることがあります。それでも、相続人の債務をゼロにすることを第三者に対抗できない点で、相続放棄とは決定的に異なります。相続分の譲渡では、債務について譲受人が併存的に負担する整理が問題になります。
相続分ゼロの遺産分割と相続分譲渡の違い
相続分ゼロの遺産分割と相続分の譲渡も、似ているようでいて、やはり異なるものです。
| 項目 | 相続分ゼロの遺産分割 | 相続分の譲渡 |
|---|---|---|
| タイミング | 遺産分割協議の中で決める | 遺産分割前に行う |
| 当事者 | 相続人全員 | 譲渡人と譲受人 |
| 効果 | 取得財産をゼロにする | 相続分を譲受人に移す |
| 協議参加 | 分割協議に参加して署名押印する | 譲渡後、分割手続から離脱し得る |
| 有償・無償 | 通常は無償の分割結果 | 有償も無償もあり得る |
| 債務 | 債権者に対しては注意が必要 | 債権者に対しては注意が必要 |
| 税務 | 取得財産の有無、代償金、贈与性を確認 | 有償・無償により相続税・贈与税等の検討が必要 |
相続分の譲渡は、遺産分割協議が長期化しそうな場合や、相続人の数を減らして協議を短くしたい場合、特定の相続人に財産を集めたい場合などに利用されます。有償で譲渡するなら代償分割に近い税務整理が、無償で譲渡するなら取得分ゼロの遺産分割協議に近い整理が、それぞれ問題になります。
相続税では「取得した財産」があるかを確認する
相続税は、相続または遺贈によって財産を取得した人を中心に計算します。
ですから、遺産分割で本当に何も取得していない人については、通常、その取得財産に対応する相続税額は生じにくいといえます。ただし、ここで気をつけておきたいことがあります。民法上の遺産を取得していなくても、相続税の上では財産を取得したものとみなされる場合がある、ということです。
その代表例が、生命保険金、死亡退職金、相続時精算課税適用財産です。
| 財産・制度 | 遺産分割で取得しない人への影響 |
|---|---|
| 死亡保険金 | 受取人であれば、民法上の遺産ではなくても相続税対象になり得る |
| 死亡退職金 | 支給規程・受取人により相続税上のみなし相続財産になり得る |
| 相続時精算課税適用財産 | 相続財産を取得しなくても相続税計算に加算される場合がある |
| 生前贈与加算 | 相続または遺贈により財産を取得した人について加算が問題になる |
| 遺贈 | 相続人でなくても財産取得者として申告が必要になる場合がある |
国税庁は、被相続人が保険料の全部または一部を負担していた死亡保険金は、相続等により取得したものとみなされ、相続税の課税対象になる、と説明しています。
出典:国税庁|No.4114 相続税の課税対象になる死亡保険金
また、相続時精算課税を選択していた場合には、その贈与者が亡くなった時に、相続時精算課税適用財産を相続財産に加算して相続税を計算します。令和6年1月1日以後の贈与については、年分ごとに、相続時精算課税適用財産の贈与時の価額の合計額から相続時精算課税に係る基礎控除額を控除した残額をもとに計算する点も、あわせて確認が必要です。
出典:国税庁|No.4301 相続時精算課税の選択と相続税の申告義務
要するに、「遺産分割では何も取得しない」ことと、「相続税申告の上でも何も確認しなくてよい」ことは、まったくの別物だということです。
相続放棄をすると死亡保険金の非課税枠に影響する
相続放棄をした人が死亡保険金の受取人になっている場合、民法上の相続財産は取得しなくても、保険金そのものは受け取れることがあります。
ただし、相続税の上では注意が必要です。
国税庁は、死亡保険金の非課税枠について、受取人が相続人である場合に適用されるものであり、相続を放棄した人や相続権を失った人はここに含まれない、と説明しています。その一方で、非課税限度額を計算するときの「法定相続人の数」は、相続放棄がなかったものとした場合の相続人の数とされています。
出典:国税庁|No.4114 相続税の課税対象になる死亡保険金
整理すると、次のようになります。
| 状況 | 保険金の受取り | 非課税枠 |
|---|---|---|
| 相続放棄していない相続人が受け取る | 受取人であれば受け取れる | 非課税枠の適用対象になり得る |
| 相続放棄した人が受け取る | 受取人であれば受け取れる場合がある | その人には非課税枠の適用なし |
| 相続人以外が受け取る | 受取人であれば受け取れる | 非課税枠の適用なし |
このため、「借金を避けるために相続放棄するが、死亡保険金は受け取る」という場合には、保険金の相続税課税、非課税枠、2割加算の有無、ほかの相続人との税負担のバランスを、ひととおり確認しておく必要があります。
相続放棄をした人が死亡保険金を受け取った場合、その人には非課税枠の適用がありません。それでいて、非課税限度額の計算上の法定相続人の数には放棄者も含まれます。この食い違いによって、保険金の受取人ごとに税負担が大きく変わってくることがあるのです。
相続税の連帯納付義務にも注意する
相続税では、相続または遺贈によって財産を取得した人どうしの間で、一定の連帯納付義務が問題になることがあります。
相続税法34条は、同一の被相続人から相続または遺贈により財産を取得した一定の者について、相続または遺贈により受けた利益の価額を限度として、相互に連帯して納付する義務を定めています。
出典:e-Gov法令検索|相続税法第34条/国税庁|相続税法基本通達34-1
ここで大切なのは、連帯納付義務が、各人の受けた利益の価額を限度とする、という点です。
| 状況 | 連帯納付義務の確認 |
|---|---|
| 遺産分割で何も取得していない | 原則として受けた利益があるかを確認 |
| 生命保険金を受け取った | 相続税上のみなし相続財産として利益があるか確認 |
| 死亡退職金を受け取った | 支給規程・受取人・課税関係を確認 |
| 相続時精算課税適用財産がある | 取得財産がなくても相続税計算に関与する可能性 |
| 相続放棄したが保険金を受け取った | 遺贈により取得したものとみなされる取扱いを確認 |
単に「私は遺産を取得しません」と合意するだけで、税務上の確認が終わるわけではありません。相続税の申告では、誰が、どの財産を、民法上または相続税法上、どの根拠で取得したのかを、ていねいに整理しておく必要があります。
相続放棄しても残る可能性がある責任
相続放棄をすれば、相続債務は原則として承継しません。とはいえ、相続放棄をした後に、一切の関わりがなくなるとは限りません。
民法940条は、相続放棄をした者が、放棄の時に相続財産に属する財産を現に占有しているときは、相続人または相続財産清算人にその財産を引き渡すまでの間、自己の財産におけるのと同一の注意をもって保存しなければならない、と定めています。
令和3年の民法改正により、相続放棄者の義務は、放棄の時に相続財産を現に占有している場合に、相続人または相続財産清算人へ引き渡すまでの保存義務として整理されました。
たとえば、次のような場合には注意が必要です。
| 状況 | 注意点 |
|---|---|
| 被相続人の自宅に同居している | 放棄後も占有中の財産の保存義務が問題になる |
| 空き家の鍵を管理している | 現に占有しているかを確認する |
| 車両・貴金属・書類を保管している | 他の相続人や清算人への引渡しを検討する |
| 通帳・印鑑・権利証を預かっている | 管理範囲と引渡先を整理する |
| 相続人全員が放棄した | 相続財産清算人の選任が必要になる場合がある |
相続放棄は、債務から離れるための強い制度です。ただし、放棄したあとの財産管理、親族への連絡、清算人選任の要否まで含めて判断しておく必要があります。
相続分ゼロの遺産分割は詐害行為取消しの対象になり得る
相続人の一人に多額の借金があり、その人が本来取得し得る財産を取得しない遺産分割協議を行った場合。これは、債権者との関係で問題になることがあります。
たとえば、長男に多額の債務があるとします。父の相続で、本来であれば長男が相当額の財産を取得し得るにもかかわらず、長女が全財産を取得し、長男の取得分をゼロにする遺産分割協議を行う。そういったケースです。
このような遺産分割協議は、事情によっては、債権者を害する行為として詐害行為取消しの対象となり得ます。最高裁平成11年6月11日判決は、共同相続人の間で成立した遺産分割協議が、詐害行為取消権行使の対象となることを認めています。
これに対して相続放棄は、身分行為として詐害行為取消しの対象にならない、と整理される場面があります。遺産分割で取得しないことと相続放棄は、ここでも扱いが分かれるのです。
つまり、相続人に債務がある場合、相続分ゼロの遺産分割は、家族の間では円満に見えても、その相続人の債権者から見ると問題視される可能性があります。
遺産分割で取得しないことが有効な場面
ここまで注意点を数多く挙げてきましたが、遺産分割で取得しないこと自体が悪いわけではありません。
債務がなく、相続人全員が納得していて、税務上の取得財産も整理できている。そうした場合であれば、取得分ゼロの遺産分割は、実務でもよく用いられる手堅い方法です。
| 場面 | 遺産分割で取得しないことが選択肢になり得る理由 |
|---|---|
| 親の自宅を同居していた子が取得する | 生活実態と管理責任に合う |
| 他の相続人は生前に十分な援助を受けている | 家族間の実質的公平を調整できる |
| 不動産を共有にしたくない | 将来の売却・管理・二次相続リスクを抑えられる |
| 事業承継で後継者に財産を集中させる | 会社・事業の継続に資する |
| 代償金を支払う余力がない | 金銭精算ではなく取得財産で調整する |
| 相続税がかからない、または税負担が軽微 | 申告負担とのバランスを取りやすい |
ただし、この場合でも、次の点は確認しておくべきです。
| 確認事項 | 理由 |
|---|---|
| 被相続人の債務がないか | 後日請求を受けるリスクを確認する |
| 保証債務がないか | 表面化していない債務がある可能性 |
| 生命保険金・死亡退職金の受取人 | 相続税上の取得財産になる可能性 |
| 生前贈与・特別受益 | 他の相続人の納得感に影響する |
| 不動産評価 | 取得しない判断の公平性を説明する根拠になる |
| 二次相続 | 配偶者や特定相続人への集中承継が将来負担になる可能性 |
| 税務申告の要否 | 取得分ゼロでも申告資料に関係する場合がある |
相続放棄を選ぶべき場面
相続放棄が有力な選択肢になるのは、主に次のような場面です。
| 場面 | 相続放棄を検討すべき理由 |
|---|---|
| 債務超過が明らか | 財産より借金が多い |
| 事業債務・保証債務がある | 後から多額の請求が来る可能性 |
| 被相続人と疎遠で財産状況が不明 | 不明債務リスクを避けたい |
| 管理困難な不動産しかない | 固定資産税・管理責任・売却困難が問題 |
| 親族間紛争に関与したくない | 相続人としての手続参加を避けたい |
| 債権者対応を避けたい | 遺産分割では債務から離脱できない |
| 反社会的・高リスクな事業関係がある | 財産調査だけではリスクを把握しにくい |
ただし、相続放棄を選ぶ場合にも、次の点は確認しておく必要があります。
| 確認事項 | 理由 |
|---|---|
| 3か月の熟慮期間 | 期限徒過で単純承認となるリスク |
| 次順位相続人 | 親族に債務が移る可能性 |
| 生命保険金 | 受け取れるか、相続税がかかるか |
| 死亡退職金 | 受取人固有の権利か、相続税対象か |
| 占有財産 | 放棄後の保存義務 |
| 相続財産を処分していないか | 法定単純承認のリスク |
| 相続税申告 | みなし相続財産等があれば申告が必要な場合 |
未成年者や判断能力に不安がある相続人がいる場合
遺産分割で取得しないことには、相続人全員の合意が欠かせません。相続人の中に未成年者、成年被後見人、判断能力に不安がある人がいる場合には、特別代理人や成年後見人の関与が必要になることがあります。
相続放棄についても同じです。未成年者が相続放棄をする場合には、法定代理人との利益相反に注意が必要です。裁判所も、未成年者と法定代理人がともに共同相続人で、未成年者のみが相続放棄をする場合などには、特別代理人の選任が必要になる、と案内しています。
出典:裁判所|相続の放棄の申述
「子どもに財産を取得させないため」「協議を簡単にするため」。こうした理由だけで未成年者に相続放棄をさせることは、慎重に考えるべきです。未成年者の利益、次順位相続人への影響、債務の有無、そして家庭裁判所で説明がつくかどうかを、あわせて整理する必要があります。
どちらを選ぶかの判断手順
相続放棄か、それとも遺産分割で取得しないことか。判断するときは、次の順序で整理していくと、考えがまとまりやすくなります。
STEP1 債務・保証の有無を確認する
まず、借入金、未払税金、未払医療費、事業債務、連帯保証、根保証、同族会社の保証を確認します。
債務がある場合には、遺産分割で取得分をゼロにしても、債務から離れられない可能性があります。相続放棄、限定承認、債権者承諾付きの債務引受を、それぞれ比較してみてください。
STEP2 相続財産を取得しない理由を明確にする
取得しない理由が、債務の回避なのか、家族間の公平なのか、不動産共有の回避なのか、それとも事業承継なのかを、まず切り分けます。
債務回避が目的であれば、相続放棄を検討します。家族の中での承継設計が目的であれば、遺産分割や相続分譲渡で整理できる可能性があります。
STEP3 生命保険金・死亡退職金・精算課税を確認する
民法上の遺産を取得していなくても、相続税上は財産を取得している、という場合があります。とくに死亡保険金、死亡退職金、相続時精算課税適用財産は、遺産分割協議書だけを見ても判断がつきません。
STEP4 次順位相続人への影響を確認する
相続放棄をすると、次順位の親族が相続人になることがあります。疎遠な兄弟姉妹、甥姪、高齢の親族が巻き込まれてしまう可能性も見ておく必要があります。
STEP5 相続税申告・納税資金への影響を確認する
相続税の申告期限は、相続の開始があったことを知った日の翌日から10か月目です。
出典:国税庁|相続税の申告期限
遺産分割がまとまらない場合であっても、相続税の申告期限は原則として延びません。相続放棄の熟慮期間3か月、準確定申告4か月、相続税申告10か月。これらは、それぞれ別々に管理しておく必要があります。
STEP6 書面に残すべき内容を整理する
遺産分割で取得しない場合には、なぜその分割になったのか、債務は誰が負担するのか、債権者の承諾を得るのか、保険金や退職金はどう扱うのかを記録しておきます。
相続放棄をする場合には、家庭裁判所の受理通知書・受理証明書、財産調査資料、債権者への説明資料を整理しておきます。
実務でよくある誤解
誤解1 「遺産分割協議書に放棄と書けば相続放棄になる」
これは、なりません。
相続放棄には、家庭裁判所への申述が必要です。遺産分割協議書に「相続を放棄する」と書いても、家庭裁判所への申述をしていなければ、税務上も法務上も相続放棄としては扱われません。
誤解2 「財産をもらわなければ借金も払わなくてよい」
原則として、そうとは限りません。
相続人どうしの合意で取得財産をゼロにしても、債権者には対抗できないことがあります。債務を避けることが目的なら、相続放棄、あるいは債権者の承諾を含む債務整理が必要になります。
誤解3 「相続放棄しても保険金は非課税枠を使える」
相続放棄をした人が死亡保険金を受け取ること自体はあり得ます。ただし、その人は、死亡保険金の非課税枠の適用対象には含まれません。非課税限度額の計算上は放棄者も法定相続人の数に含まれる一方で、放棄者本人には非課税枠が使えない。この点が重要です。
出典:国税庁|No.4114 相続税の課税対象になる死亡保険金
誤解4 「相続分を譲渡すれば債務も完全に移る」
相続分の譲渡は、債務について債権者に当然に対抗できるものではありません。譲渡人にも債務負担が残る可能性があり、譲受人が併存的に債務を負担する整理が問題になります。
誤解5 「生前に相続放棄の書面を書けばよい」
相続放棄は、相続開始後に家庭裁判所へ申述する手続です。生前の念書や家族間の合意だけでは、相続放棄の法的効果は生じません。
相談前に整理しておきたい資料
相続放棄か、遺産分割で取得しないことか。これを判断するにあたっては、次の資料を整理しておくと、検討がぐっと進みます。
| 分類 | 資料 |
|---|---|
| 相続人関係 | 戸籍、法定相続情報一覧図、相続関係図 |
| 相続放棄関係 | 家庭裁判所への申述状況、受理通知書、受理証明書 |
| 財産資料 | 預貯金残高証明、通帳、証券残高、不動産資料、固定資産税課税明細 |
| 債務資料 | 借入金残高証明、返済予定表、保証契約書、請求書、未払税金 |
| 保険・退職金 | 保険証券、支払通知、受取人、保険料負担者、退職金規程 |
| 生前贈与 | 贈与契約書、贈与税申告書、通帳履歴、相続時精算課税届出 |
| 遺言 | 自筆証書遺言、公正証書遺言、遺言書保管制度の通知 |
| 同族会社 | 決算書、借入金明細、株主名簿、役員貸付金・借入金資料 |
| 不動産 | 登記事項証明書、賃貸借契約書、抵当権設定資料、売却査定 |
| 税務 | 過去の確定申告書、準確定申告の要否、相続税試算資料 |
とりわけ、債務・保証・保険・相続時精算課税の有無は、遺産分割協議書だけでは見えにくい論点です。
まとめ:取得しないことと、相続人でなくなることは違う
相続では、「財産をもらわない」という言葉だけでは、どうしても不十分です。
その言葉が、家庭裁判所で相続放棄をすることなのか、遺産分割協議で取得分をゼロにすることなのか、相続分をほかの相続人に譲渡することなのか。どれを指すかによって、債務、税務、相続人の範囲、生命保険金、連帯納付義務、そして将来の親族関係への影響まで、大きく変わってきます。
債務を避けたいなら、遺産分割で取得しないだけでは足りない可能性があります。
不動産の共有を避けたいだけなら、相続放棄ではなく、遺産分割や相続分譲渡で足りる場合があります。
生命保険金を受け取るなら、相続放棄後の相続税・非課税枠を確認しておく必要があります。
相続人の一人に債務があるなら、取得分ゼロの遺産分割が、債権者との関係で問題になる可能性があります。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、相続税申告だけにとどまらず、相続放棄、遺産分割、相続分譲渡、債務承継、生命保険金、相続時精算課税、同族会社資産までを視野に入れ、法務と税務の接点を整理することを大切にしています。
「財産を取得しないつもりだが、借金や税金が心配」「相続放棄すべきか、遺産分割で足りるのか分からない」「保険金を受け取る予定があり、相続放棄との関係を確認したい」「相続人の一人に債務があり、分割協議の進め方が不安」。そうしたお悩みがありましたら、犬飼公認会計士・税理士事務所HPのお問い合わせページよりご相談ください。事実関係、資料、債務、税務上の取得財産を整理したうえで、後からきちんと説明できる判断へとつなげてまいります。
重要ポイントの振り返り
| 論点 | 相続放棄 | 遺産分割で取得しない | 実務上の注意点 |
|---|---|---|---|
| 法的効果 | 初めから相続人でなかったものと扱われる | 相続人のまま取得財産をゼロにする | 「相続人でなくなる」かどうかが根本的に違う |
| 手続 | 家庭裁判所への申述が必要 | 相続人全員の遺産分割協議 | 協議書に「放棄」と書いても相続放棄ではない |
| 期限 | 原則3か月 | 3か月期限とは別問題 | 相続放棄の可能性があるなら先に判断する |
| 債務 | 原則として承継しない | 債権者に対して責任が残る可能性 | 借金回避目的なら相続放棄を検討 |
| プラス財産 | 取得しない | 協議により取得しない | 目的が家族内調整なら分割で足りる場合もある |
| 次順位相続人 | 影響する | 原則として影響しない | 放棄により親・兄弟姉妹が相続人になることがある |
| 生命保険金 | 受取人なら受け取れる場合がある | 受取人なら受け取れる | 放棄者には死亡保険金の非課税枠が使えない |
| 相続税 | みなし相続財産があれば申告が必要な場合 | 取得財産がなければ税額は生じにくいが要確認 | 保険金、退職金、精算課税を確認 |
| 連帯納付義務 | 取得財産・みなし財産の有無を確認 | 取得した利益の価額を確認 | 「何も取得していない」と言えるか資料で確認 |
| 相続分譲渡 | 別制度 | 分割前に相続分を譲渡する方法 | 債務を完全に免れる効果とは限らない |
| 詐害行為取消し | 原則として身分行為として扱われる場面がある | 取得分ゼロの分割が対象になり得る | 相続人に債務がある場合は特に注意 |
| 説明可能性 | 受理証明書等で説明 | 協議書・資料・評価根拠で説明 | 金融機関・税務署・親族に説明できる形にする |