価値と価格の違い|評価額・希望価格・取引価格を混同しないための基本

M&Aや事業承継のご相談をお受けするとき、最初に出てくる問いはたいてい決まっています。「この会社は、いくらですか」というものです。

この問い自体は、ごく自然なものです。売却を考えている方であれば、どの程度の金額で譲渡できるのかを知りたいでしょうし、買収を考えている方であれば、いくらまで支払ってよいのかを判断したいはずです。親族内承継、役員承継、少数株主からの買取り、自己株式取得、組織再編といった場面であれば、その価格を税務上・会社法上、そして関係者への説明上、どこまで筋道立てて説明できるのかが問われることになります。

ただ、ここでまず整理しておきたいのは、「価値」と「価格」は同じものではない、という点です。

企業価値評価で算定される評価額は、あくまで一定の前提条件に基づいた判断材料にすぎません。一方の取引価格は、売り手と買い手が交渉を重ね、条件を調整しながら、最終的に合意した金額です。

この違いを曖昧にしたままM&Aや承継の話を進めてしまうと、評価額、希望価格、提示価格、譲渡価格、税務上の時価、会社法上の公正価格といったものが、ひとつの「価格」のなかに混ざり込んでいきます。そうなると、議論は「高いか、安いか」だけに収れんしてしまい、なぜその金額なのか、どの前提なら妥当といえるのか、どの価格であれば説明できるのかが、かえって見えなくなってしまうのです。

この記事では、企業価値評価の入口として、「価値」と「価格」をどう切り分けて考えればよいのかを整理していきます。

目次

まず押さえておきたい結論

企業価値評価でいう「価値」とは、会社や事業が生み出す経済的な便益を、一定の目的・前提・資料・評価手法に基づいて評価したものです。

これに対して「価格」は、売り手と買い手が合意した、取引上の金額を指します。

日本公認会計士協会の企業価値評価ガイドラインでも、価格と価値は異なる概念として整理されています。価格は売り手と買い手の交渉を通じて決まった値段であり、価値は一定の前提条件のもとで算定された理論的な値段であって、交渉における参考値として用いられるもの、という整理です。そして価値は、評価目的、当事者の立場、経営権取得の有無などによって変わり得るため、ひとつの会社に対していくつもの価値が成り立つ、いわば「一物多価」の性格を持っています。

この考え方を、実務の言葉に置き換えてみると、こう言えます。

評価額は、取引価格を自動的に決めてくれるものではありません。希望価格は、評価額と一致するとは限りません。提示価格は、相手方の立場や交渉戦略を反映した金額です。合意価格は、評価額に加えて、交渉力、条件、リスク配分、支払方法、そして税務・会計・法務上の影響を踏まえたうえで決まっていきます。そして説明可能な価格とは、資料、前提、評価方法、意思決定の過程に無理のない価格のことです。

つまり、M&Aバリュエーションで本当に大切なのは、「いくらか」だけではありません。

なぜその価格になるのか。その価格は、どの価値を前提としているのか。売り手と買い手、どちらの目線なのか。シナジーを含めているのか。支配権を反映しているのか。それとも少数株主持分なのか。税務上の時価としても説明できるのか。取締役、株主、後継者、金融機関、税務当局に対して説明できるのか。

ここまで整理して、ようやく評価額は、経営判断に使える材料になります。

「価値」は前提条件によって変わる

会社はひとつでも、その価値はひとつとは限りません。

同じ会社を評価しても、売却が目的なのか、買収が目的なのか、承継のためなのか、資本政策のためなのか、組織再編のためなのか、あるいは税務上の時価を確認するためなのかによって、重視すべき前提は変わってきます。

たとえば、買い手が対象会社を単独で運営する前提で評価する場合と、買収後に販路拡大やコスト削減、技術活用といったシナジーを実現できる前提で評価する場合とでは、価値は変わります。

売り手が会社を保有し続けた場合に得られる価値と、買い手が取得後に実現できる価値も、一致するものではありません。

支配権を取得する株式の価値と、少数株主持分の価値も、同じではありません。経営権を取得する場合には、実務上、コントロールプレミアムが意識されることがあります。一方で、少数株主持分の場合は、経営に関与できる範囲や流動性に制約があるため、また別の観点が必要になります。

さらに、M&Aで当事者間が合意する価格と、税務上の時価、会社法上の公正価格、会計上の公正価値とでは、それぞれ目的が異なります。これらを同じものとして扱ってしまうと、判断を誤ることになりかねません。

価値は、次のような前提によって変わっていきます。

価値を変える前提確認すべきこと
評価目的売却、買収、承継、資本政策、組織再編、税務、会計、裁判・紛争対応のどれか
評価対象会社全体、事業、株式、少数持分、支配持分、特定資産・負債のどれか
当事者の立場売り手目線、買い手目線、第三者説明目線のどれか
経営権の有無支配権取得を伴うか、少数株主持分か
将来計画現状維持前提か、成長前提か、縮小・清算前提か
シナジー買い手固有のシナジーを含めるか、対象会社単独の価値を見るか
資産負債非事業資産、余剰資金、有利子負債、簿外債務をどう扱うか
制度目的税務上の時価、会社法上の公正価格、会計上の公正価値との関係をどう整理するか

このように、価値とは「会社そのものに固定されたひとつの数字」ではありません。

評価目的と前提を明らかにしないままでは、評価額を眺めても、その意味を読み取ることはできないのです。

「価格」は交渉と条件設計の結果として決まる

一方の価格は、取引として合意された金額です。

M&Aの交渉では、買い手と売り手がそれぞれ対象会社の企業価値を試算し、その試算をもとに価格や条件の交渉を進めていきます。交渉の段階では、対象会社に関する情報に差があるため、買い手はデューデリジェンスを通じて前提を確認し、価格や条件の調整を検討していくことになります。

ですから、取引価格は、評価額だけで決まるものではありません。

取引価格には、たとえば次のような要素が影響します。

売り手がどの価格であれば譲渡してよいと考えるか。買い手がどの価格までなら投資を回収できると考えるか。ほかに買い手候補がいるかどうか。買い手に固有のシナジーがあるかどうか。デューデリジェンスでどのようなリスクが見つかったか。現預金や借入をどう調整するか。支払方法は現金一括か、分割か、それとも条件付対価か。表明保証や補償、エスクローなどでリスクをどう分担するか。税務負担や会計処理が価格判断にどう影響するか。譲渡後の経営関与、従業員、取引先、経営者保証をどう扱うか。

こうした要素が積み重なって、価格が形づくられていきます。取引価格は「評価額をそのまま写したもの」ではなく、評価額を出発点としながら、交渉と条件設計を通じて決まっていくものなのです。

中小企業庁の中小M&Aガイドライン(第3版)でも、バリュエーションは企業または事業の価値を定量的に評価するものとされ、その評価額は中小M&Aで譲渡額を決める際の目安のひとつとして扱われる、と整理されています。評価手法はさまざまであり、企業の実態や事業特性などに応じて手法が選択される、ともされています。

出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)

ここで意識しておきたいのは、「目安のひとつ」という位置づけです。

評価額は確かに重要ですが、それがそのまま最終価格になるわけではありません。評価額を踏まえたうえで、価格交渉、デューデリジェンスの結果、契約条件、支払条件、リスク分担を整理していく必要があります。

評価額・希望価格・提示価格・合意価格は、分けて考える

価値と価格を混同しないためには、似ているようで実は異なる金額を、それぞれ分けて考えることが欠かせません。

なかでも実務で混同されやすいのが、次の4つです。

評価額

評価額とは、一定の前提に基づいて算定された価値のことです。

DCF法、類似会社比較法、類似取引法、時価純資産法などを用いて算定されます。採用した手法、利用した資料、事業計画、調整項目、評価基準日によって、その金額は変わります。

評価額は、取引判断のための基礎資料です。

ただし、評価額はそれ自体で取引価格を決めるものではありません。むしろ、「どの前提に立てば、この程度の価値といえるのか」を示してくれるもの、と捉えるのがよいでしょう。

希望価格

希望価格とは、売り手または買い手が「こうあってほしい」と望む価格です。

売り手にとっては、これまでの努力、将来への期待、借入の返済、引退後の資金、税引後の手取り、そして従業員や取引先への思いなどが反映されることがあります。

買い手にとっては、投資回収の可能性、資金調達の余力、買収後の負担、シナジー実現の見込み、リスク許容度などが反映されます。

希望価格には、必ずしも客観的な評価根拠があるとは限りません。希望価格を持つこと自体を否定する必要はありませんが、それが評価額なのか、あるいは交渉上の希望なのかは、きちんと区別しておく必要があります。

提示価格

提示価格とは、相手方に対して提示する価格です。

提示価格には、交渉戦略が織り込まれています。売り手は高めに提示することがありますし、買い手は低めに提示することがあります。入札形式であれば、競争環境や他の買い手候補の存在が、提示価格に影響します。

提示価格は、必ずしも提示する側が考える理論価値そのものではありません。

ですから提示価格を見るときは、「なぜその価格なのか」だけでなく、「相手はどの前提を置いているのか」「どの条件とセットになっているのか」まで確認しておくことが大切です。

合意価格

合意価格とは、最終的に売り手と買い手が合意した価格です。

合意価格は、評価額、希望価格、提示価格、デューデリジェンスの結果、支払条件、契約条件、そして税務・会計・法務上の影響などを踏まえた、最終的な取引条件として決まります。

合意価格が評価レンジの内側にあるからといって、常に問題がないとは限りません。逆に、評価レンジから外れているからといって、ただちに不合理だと決めつけられるわけでもありません。

大切なのは、その価格に至った判断の過程を、きちんと説明できるかどうかです。

売り手にとっての価値と、買い手にとっての価値は違う

M&Aでは、売り手と買い手が同じ会社を見ていても、価格の目線がなかなか合わないことがあります。

これは、どちらか一方が間違っているというよりも、そもそも見ている価値が違う、という場合が多いのです。

売り手は、対象会社を保有し続けた場合に得られる価値を意識します。将来の利益、配当、役員報酬、事業の継続、従業員、取引先、地域での信用、そして創業者としての思い。財務数値だけでは説明しきれない要素も、そこには含まれています。

一方の買い手は、買収後に自社が得られる価値を見ています。対象会社単独の収益力だけでなく、販路の拡大、原価の低減、人材の獲得、技術の取得、顧客基盤の拡大、重複コストの削減といった効果まで検討していきます。

実務上、買い手は対象会社単独の価値、いわゆるスタンドアローン・バリューを基礎としながら、M&Aによって得られるシナジーを考慮して、買収価格の上限を検討することがあります。売り手の側は、買い手が実現できるであろうシナジーを推し量り、その一部を売却価格に反映させようとします。

こうして見ると、売り手と買い手の価格目線が一致しないのは、むしろ自然なことだとわかります。

問題は、価格目線が違うことそのものではありません。問題は、その違いがどこから生じているのかを整理しないまま、交渉に入ってしまうことにあります。

売り手は、希望価格の根拠を整理しておく必要があります。買い手は、支払える上限価格の前提を整理しておく必要があります。そして双方にとって、その価格差がシナジーから来ているのか、利益見通しから来ているのか、リスク認識の違いから来ているのか、あるいは非事業資産や負債の扱いから来ているのかを、分解して把握しておくことが大切です。

価格交渉では、相手を説得しようとする前に、まず自分自身の価格目線がどういう構造でできているのかを理解しておくこと。これが何より重要になります。

価値が「一物多価」になる主な理由

価値がひとつに定まらないのは、感覚的な話ではありません。実務上は、おもに次のような要素から生じています。

1. 評価目的が違う

M&Aの売買価格を検討する評価と、親族内承継のための評価、少数株主からの買取価格の検討、組織再編比率の検討、税務上の時価確認、会計上の公正価値測定とでは、それぞれ目的が異なります。

目的が違えば、評価手法も前提とする資料も変わってきます。

成長企業の資金調達であれば、将来キャッシュ・フローや成長可能性を重視することがあります。その一方で、事業の継続が難しい会社では、清算価値や時価純資産に近い考え方が重要になることもあります。

2. 評価対象が違う

会社全体の価値を見ているのか、株式価値を見ているのか、それとも事業価値を見ているのか。対象が変われば、金額も変わります。

たとえば、事業価値に非事業資産を加算し、有利子負債や負債類似項目を控除して、株式価値に至る場合があります。この整理を省いてしまうと、「企業価値」「株式価値」「譲渡価格」が混同されてしまいます。

3. 将来計画の見方が違う

価値評価においては、将来キャッシュ・フローや正常収益力が重要な要素になります。

売り手は将来計画を高めに見積もる傾向があり、買い手はリスクを織り込んで慎重に見る傾向があります。これは感情論ではなく、立場の違いから生じる、自然な差です。

大切なのは、どちらの計画が正しいかを感覚で言い争うことではありません。売上、粗利率、固定費、設備投資、運転資本、主要取引先、経営者への依存度、従業員体制といった前提に分解して、ひとつずつ確認していくことです。

4. シナジーの扱いが違う

買い手に固有のシナジーを価値に含めるかどうかによって、評価額は変わります。

対象会社単独の価値と、特定の買い手が取得した場合に実現できる価値とは、一致しません。

ただし、買い手が期待するシナジーをすべて価格に織り込んでしまえば、買い手側には買収後のアップサイドが残りにくくなります。逆に売り手の側から見れば、買い手が大きなシナジーを得られるのであれば、その一部を売却価格に反映したいと考えるのも、また自然なことです。

ですからシナジーは、「あるか、ないか」で捉えるものではありません。「誰にとっての価値か」「どの程度実現できそうか」「価格にどこまで反映するか」を整理していくべきものなのです。

5. 支配権の有無が違う

会社を支配できる株式と、少数株主持分とでは、同じ1株であっても、その経済的な意味が異なります。

支配権を取得する場合には、経営方針、配当政策、役員選任、資産売却、組織再編、事業運営に影響を及ぼせる可能性があります。これに対して少数株主は、それらを単独で決定することができません。

そのため、支配権を伴う価値と少数株主持分の価値は、分けて考える必要があります。

6. 税務・会社法・会計上の目的が違う

M&Aで当事者が合意した価格であっても、それが税務上の時価として問題ないとは限りません。

親族間、同族関係者間、役員・会社間、法人・個人間、自己株式取得、組織再編といった場面では、税務上の時価が問題になることがあります。非上場株式は取引形態によって適用される税法や評価方法が変わるため、M&A価格と税務上の時価を混同しないことが重要です。

また、少数株主からの買取りや組織再編では、会社法上の公正価格や比率算定の説明が問われる場合があります。買収後には、PPAやのれんといった会計上の影響が生じることもあります。

このように、価格が当事者間で合意されていたとしても、それを別の制度目的にそのまま流用できるとは限らないのです。

取引価格を判断するときに確認したいこと

評価額を目にして、すぐに「高い」「安い」と判断してしまうのではなく、次の順序で確認していくことをおすすめします。

1. その評価額は、何のための評価か

まず、評価目的を確認します。

売却価格の検討なのか。買収価格の上限検討なのか。親族内承継なのか。自己株式取得なのか。少数株主への対応なのか。組織再編比率なのか。税務上の時価確認なのか。あるいは会計上の公正価値やPPAを見据えたものなのか。

目的がわからなければ、評価額の意味を判断することはできません。

2. その評価額は、どの立場からの価値か

売り手目線の価値なのか、買い手目線の価値なのか、それとも第三者説明のための価値なのかを確認します。

買い手固有のシナジーを含めているのか。売り手の希望を反映しているのか。あるいは第三者評価として、中立的に前提を置いているのか。

この違いを確認しないままでは、その評価額を取引価格として使えるかどうかも判断できません。

3. どの評価手法を使っているか

DCF法、類似会社比較法、類似取引法、時価純資産法など、評価手法によって見ている価値は異なります。

DCF法は将来キャッシュ・フローを重視します。類似会社比較法や類似取引法は、市場や取引事例との比較を重視します。時価純資産法は、資産負債の時価を重視します。

日本公認会計士協会の企業価値評価ガイドラインでも、評価アプローチとして、インカム・アプローチ、マーケット・アプローチ、ネットアセット・アプローチが整理されています。同ガイドラインは2013年の改正で、算定業務の性格や、提供する情報の有用性・利用可能性の検討分析、不正利用や紛争予防への配慮といった点について、注意喚起を充実させています。

出典:日本公認会計士協会|経営研究調査会研究報告第32号「企業価値評価ガイドライン」の改正について

評価手法の違いは、そのまま評価額の違いにつながります。ですから、結論として示された金額だけでなく、採用した手法とその前提まで確認しておく必要があります。

4. 評価額はレンジで示されているか

実務上、評価額はひとつの点としてではなく、レンジ(幅)で見ることが大切です。

企業価値評価の実務では、採用した手法ごとに結果を範囲で示し、取引価格がその範囲のなかに収まっているかを確認することが一般的です。

評価額をひとつの数字だけで見てしまうと、前提に潜む不確実性が見えなくなります。レンジで見れば、どの前提が価格に大きく影響しているのかが浮かび上がってきます。

売上成長率、利益率、設備投資、運転資本、割引率、倍率、非事業資産、有利子負債、税務影響——こうした評価額を動かす要素を把握しておくことが、価格交渉や意思決定に役立ちます。

5. 取引条件とセットで見ているか

同じ価格であっても、条件が違えば、その意味は変わります。

現金一括払いなのか、分割払いなのか。価格調整条項があるのか。アーンアウトがあるのか。表明保証や補償の範囲はどうなっているのか。経営者保証の解除はどう扱われるのか。非事業資産や余剰現金は含まれるのか。借入や簿外債務は誰が負担するのか。税務負担はどちらに生じるのか。

価格だけを取り出して「高い」「安い」と判断するのではなく、条件まで含めた経済的な実質を見ることが大切です。

価格判断で避けたい誤解

誤解1:評価額が出れば、そのまま取引価格になる

評価額は、取引価格の出発点にはなります。しかし、それがそのまま契約上の価格になるとは限りません。

取引価格は、評価額に加えて、交渉、デューデリジェンス、契約条件、支払方法、リスク配分を踏まえて決まっていきます。

仮に評価額をそのまま取引価格とする場合でも、なぜその評価額を採用したのか、ほかの手法や前提ではどうだったのか、条件面との整合はとれているのかを、確認しておく必要があります。

誤解2:高い評価額が、よい評価である

売り手にとって、高い評価額は確かに魅力的に映ります。

しかし、根拠の乏しい高い評価額は、買い手との交渉を難しくするだけでなく、税務・会社法・会計上の説明をも困難にすることがあります。

買い手にとっても、将来計画やシナジーを過大に見積もった価格は、買収後の投資回収を難しくし、のれんや減損のリスクにつながりかねません。

よい評価とは、都合のよい評価のことではありません。あとから説明できる評価のことです。

誤解3:相場倍率だけで十分である

M&Aでは、EBITDA倍率や利益倍率がよく使われます。

相場感をつかむうえでは、確かに有用です。ただし、倍率だけで価格を決めてしまうのは危険です。

その利益は、正常収益力を表しているのか。設備投資や運転資本を見落としていないか。非事業資産や余剰資金をどう扱うのか。有利子負債や簿外債務は控除されているのか。対象会社の成長性やリスクは、類似会社と比較できるものなのか。

倍率は便利な道具ですが、前提の確認を省略するための道具ではありません。

誤解4:当事者間で合意していれば問題ない

M&Aの取引価格は、当事者間で合意することが基本です。

しかし、当事者間に合意があれば、税務上・会社法上・会計上、常に問題がないとは限りません。

とりわけ、同族関係者間、親族間、役員・会社間、法人・個人間、少数株主からの買取り、自己株式取得、組織再編といった場面では、当事者間の合意価格とは別に、時価や公正価格の説明が必要になることがあります。

価格の妥当性を考えるときには、「合意できるか」だけでなく、「説明できるか」を確認しておく必要があります。

売り手が整理しておきたい価格判断

売り手にとって大切なのは、「できるだけ高く売る」ことだけではありません。

もちろん、納得できる対価を得ることは重要です。しかしそれ以上に、売却後に後悔しない条件かどうか、税引後の手取りはどの程度になるのか、従業員・取引先・後継者・株主に説明できるのか、取引後にリスクが残らないかを整理しておく必要があります。

売り手であれば、少なくとも次の点は確認しておきたいところです。

自社を保有し続けた場合の価値はどの程度か。希望価格は、どの評価前提に基づくものか。買い手が評価している価値の源泉は何か。シナジーの一部を価格に反映できる余地はあるか。税引後の手取りはいくらになるか。役員退職金、貸付金、借入保証、非事業資産をどう整理するか。価格が低すぎて税務上の問題にならないか。少数株主や後継者に説明できるか。そして、価格ではなく条件で守るべき事項は何か。

売り手にとっての価格判断は、単に総額を眺めることではありません。譲渡対価、税金、債務、保証、退職金、残存リスク、譲渡後の関与、説明責任までを含めた、総合的な判断なのです。

買い手が整理しておきたい価格判断

買い手にとって大切なのも、「安く買う」ことだけではありません。

安く買えたとしても、買収後に想定したキャッシュ・フローが出なければ、投資としては失敗です。逆に、一見すると高く見える価格であっても、確度の高いシナジーや戦略上の重要性があり、投資回収を説明できるのであれば、合理性が認められる場合もあります。

買い手であれば、少なくとも次の点は確認しておきたいところです。

対象会社単独の価値はいくらか。買い手固有のシナジーを含めた価値はいくらか。支払える上限価格はどこにあるか。その上限価格は、どの事業計画と投資回収前提に基づくものか。デューデリジェンスで確認すべき前提は何か。発見されたリスクを価格に反映するのか、それとも契約条件で対応するのか。ネットデット、運転資本、非事業資産をどう調整するか。買収後ののれん、減損、PPA、資金繰りにどのような影響があるか。そして、金融機関や社内の意思決定者に投資判断を説明できるか。

買い手にとっての価格判断は、取得時点の金額だけでは語れません。買収後に、その価格を投資として回収できるかどうかが問われます。

第三者に説明できる価格か

M&Aや承継の価格判断では、当事者が納得しているだけでは足りない場面があります。

株主に説明する必要がある。後継者や親族に説明する必要がある。金融機関に説明する必要がある。税務上の時価として検討する必要がある。取締役の意思決定過程を記録に残す必要がある。少数株主に対して公正性を説明する必要がある。買収後の会計処理やのれんを説明する必要がある。

こうした場面では、「当事者がそう決めたから」という説明だけでは、十分とはいえません。

必要なのは、評価目的、評価対象、評価基準日、利用資料、採用手法、主要な前提、評価レンジ、そして価格決定の理由を、ひととおり整理しておくことです。

とりわけ非上場会社では、市場価格が存在しないため、説明可能性がいっそう重要になります。市場で日々価格が形成される上場会社と異なり、非上場会社の株式や事業は、取引の機会が限られ、得られる情報も限定的です。だからこそ、評価の前提と判断の過程を、丁寧に残しておく必要があるのです。

価値と価格を混同しないための、実務上の整理

価値と価格を取り違えないためには、はじめに次のように分解しておくと、実務上の判断がしやすくなります。

1. 理論価値

評価手法に基づいて算定される価値です。

DCF法、類似会社比較法、類似取引法、時価純資産法などによって算定されます。ここでは、会社の財務実態、正常収益力、将来計画、リスク、資産負債の調整が重要になります。

2. 売主希望価格

売り手が希望する価格です。

理論価値に加えて、税引後の手取り、経営者の思い、代替案、引退後の生活設計、従業員・取引先への影響、そして「売却しない」という選択肢などが影響します。

3. 買主許容価格

買い手が、ここまでなら支払ってもよいと考える上限価格です。

対象会社単独の価値、買い手固有のシナジー、投資回収期間、資金調達、リスク、買収後の追加投資、のれん、資金繰りが影響します。

4. 交渉価格

売り手と買い手が、交渉のなかで提示する価格です。

交渉力、競争環境、情報量、入札か相対交渉か、デューデリジェンスの前か後か、独占交渉権の有無などが影響します。

5. 合意価格

最終契約に反映される価格です。

価格そのものに加えて、支払条件、価格調整、表明保証、補償、アーンアウト、エスクロー、クロージング条件などと一体で判断されます。

6. 説明可能価格

第三者に対して、前提・資料・手法・判断過程を説明できる価格です。

税務、会社法、会計、金融機関、株主、後継者、社内関係者への説明が必要となる場合には、この観点がとりわけ重要になります。

実務では「どの価格を議論しているのか」を明確にする

価格交渉が混乱する原因のひとつは、当事者がそれぞれ違う価格を見ている、という点にあります。

売り手は希望価格を話している。買い手は買収後の投資回収価格を話している。仲介者は成約の見込みがある価格帯を話している。税理士は税務上の時価を気にしている。会計士は評価前提と説明可能性を見ている。弁護士は少数株主や契約上のリスクを見ている。金融機関は返済の可能性を見ている。

全員が「価格」と口にしていても、見ているものが食い違っている、ということが起こり得ます。

ですから価格を議論するときには、次の問いを先に置いておくべきです。

これは、誰にとっての価格か。何のための価格か。どの時点の価格か。どの資料に基づく価格か。どの条件とセットの価格か。税務・会計・会社法上、別の評価が必要ではないか。そして、第三者に説明できる価格か。

この問いを整理しておくだけで、価格交渉の見通しは大きく変わってきます。

価値と価格を分けることは、交渉を弱くすることではない

売り手のなかには、評価の前提を細かく整理してしまうと、価格交渉で弱くなってしまうのではないか、と不安に感じる方がいます。

買い手のなかにも、相手に評価ロジックを見せると、交渉上不利になるのではないか、と考える方がいます。

しかし、価値と価格を分けて整理することは、交渉力を弱めるものではありません。

むしろ、価格の根拠を説明できることは、交渉における規律になります。

売り手にとっては、希望価格の根拠を示しやすくなります。買い手にとっては、支払上限を超えないための基準になります。双方にとっては、前提条件の違いそのものを交渉の対象にできるようになります。デューデリジェンスのあとに価格を見直すべきかどうかも、判断しやすくなります。価格ではなく契約条件で調整すべきリスクを、切り分けやすくもなります。

M&A交渉で最終的に合意すべきものは、価格や交換比率です。しかし、そこに至る背景は、当事者の立場によって異なります。だからこそ、価値評価のフレームワークを理解し、共通の言語で交渉を進めることには、実務上の確かな意義があるのです。

価値と価格を分けることは、机上の理論ではありません。交渉を、感覚論から構造論へと移していくための、実務上の前提なのです。

専門家に相談する前に、整理しておきたいこと

価値と価格の違いを踏まえると、専門家に相談する前に整理しておくべきことも、自然と見えてきます。

まず、何のために価格を知りたいのかを、はっきりさせておく必要があります。

売却したいのか、買収したいのか、承継したいのか、株主を整理したいのか、組織再編をしたいのか、あるいは税務上の時価を確認したいのか。目的によって、検討すべき論点は変わってきます。

次に、誰に説明する必要があるのかを整理します。

自社内の意思決定だけで足りるのか、それとも株主、後継者、金融機関、税務当局、少数株主、監査人、取引相手への説明が必要なのか。説明する相手によって、求められる根拠の水準が変わります。

さらに、どの価格を確認したいのかを、明確にしておきます。

評価額なのか、希望価格なのか、提示価格の妥当性なのか、買主としての上限価格なのか、税務上説明できる価格なのか、それとも契約条件まで含めた合意価格なのか。

ここまで整理できていると、専門家との相談は、単なる「株価を出してください」という依頼ではなく、「判断に必要な論点を一緒に整理する相談」へと変わっていきます。

価値と価格の違いを整理したい場合は、ご相談ください

M&Aや事業承継では、どうしても価格の話が先に進みがちです。

しかし、評価目的、評価対象、前提資料、財務実態、将来計画、そして税務・会計・会社法上の論点が整理されないまま価格交渉に入ってしまうと、あとから説明が難しくなることがあります。

評価額は妥当なのか。希望価格をどう説明すべきか。相手から提示された価格を、どう受け止めればよいのか。買主として、いくらまで支払ってよいのか。税務上・会社法上、問題になりにくい価格なのか。評価額と取引条件を、どう切り分けるべきか。

こうした悩みをお持ちの場合は、早い段階で前提を整理しておくことが大切です。

犬飼公認会計士・税理士事務所では、M&A・事業承継・資本政策・組織再編における企業価値評価や取引価格の判断について、評価額そのものだけでなく、前提条件、税務・会計上の影響、説明可能性、交渉上の論点まで含めた整理をお手伝いしています。

評価額と取引価格を混同したまま話を進めてよいものか不安がある場合は、犬飼公認会計士・税理士事務所のホームページのお問い合わせページから、お気軽にご相談ください。

まだ売却・買収・承継の方針が固まっていない段階でも、まずは「いま議論している価格は何なのか」「どの価格を判断するために、何を確認すべきなのか」を整理するところから、始めることができます。

この記事の振り返り

論点押さえるべきポイント
価値と価格の違い価値は前提条件に基づく判断材料、価格は当事者間で合意される取引条件
評価額評価目的・資料・手法・前提に基づいて算定される参考値であり、取引価格そのものではない
希望価格売り手・買い手の希望や事情が反映された価格であり、客観的な評価額とは限らない
提示価格交渉戦略や競争環境を反映するため、提示者の理論価値そのものとは限らない
合意価格評価額、DD結果、支払条件、契約条件、リスク配分を踏まえて決まる
一物多価評価目的、当事者の立場、経営権の有無、シナジー、制度目的によって価値は変わる
売り手の価格判断希望価格だけでなく、税引後手取り、残存リスク、第三者説明、譲渡後条件を確認する
買い手の価格判断安く買うことだけでなく、投資回収、シナジー、DD結果、買収後負担を確認する
説明可能性当事者間の合意だけでなく、株主、後継者、金融機関、税務・会計・会社法上の説明を意識する
実務上の基本姿勢「いくらか」ではなく、「誰にとって、何のための、どの前提の価格か」を整理する
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