M&Aで「株式を譲り受ける」と聞くと、対象会社の株式にいくらの値段を付けるか、という話のように見えます。
けれども実際には、株式譲渡の価格判断は、単に株式へ値段を付ける作業ではありません。対象会社の法人格をそのまま残したうえで、事業、資産、負債、契約、税務リスク、労務リスク、過去の会計処理、経営者との関係、金融機関との関係まで、会社全体を引き受ける前提で価格を考えていくことになります。
中小M&Aでは、株式譲渡か事業譲渡が選ばれることが多くあります。株式譲渡は手続が比較的シンプルですが、譲渡会社の法人格に変動がないため、簿外債務や偶発債務のリスクが残りやすい――そう整理されています。出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)
だからこそ、株式譲渡の価格判断では「評価額はいくらか」だけでなく、次の問いに答えられることが大切になります。
- この金額は、事業の稼ぐ力を反映しているのか
- 対象会社の現預金や借入金を、どう織り込んでいるのか
- 貸借対照表に出ていない負債や、将来発生し得るリスクは、価格に入っているのか
- クロージングまでに企業価値が動いた場合、誰がその増減を負担するのか
- 価格で調整するのか、それとも表明保証・補償で対応するのか
- 売主・買主・金融機関・株主に対して、後から説明できる価格なのか
本稿では、株式譲渡における価格判断を、会社全体を引き受ける取引として整理していきます。なお、株式譲渡契約の詳細条項そのものや、財務DD・法務DD・税務DDの具体的な手続、PMI、買収ファイナンスの細部までは踏み込みません。あくまで、企業価値評価と取引価格の判断に必要な範囲に絞ってお話しします。
株式譲渡では「会社の中身」がそのまま残る
株式譲渡では、売主である株主が、買主に対して対象会社の株式を譲渡します。会社の資産や負債を一つひとつ移していくのではなく、会社の所有者である株主が入れ替わる取引です。
ここで押さえておきたいのは、対象会社そのものの法人格は、原則として変わらないという点です。つまり、対象会社が保有する資産、負っている債務、締結している契約、雇用している従業員、過去の税務申告、許認可、保証、紛争リスクといったものは、すべて対象会社の中に残ったままになります。
買主が対象会社の債務を直接引き受けるわけではありません。それでも買主は、株主としてその会社の価値変動を引き受ける立場に立ちます。したがって、対象会社に簿外債務や偶発債務があれば、それは将来のキャッシュ・フローや純資産を通じて、株式価値に跳ね返ってきます。
この点が、事業譲渡との大きな違いです。事業譲渡では、譲渡対象となる資産・負債・契約を選別できるため、一定のリスクを切り離しやすい反面、個別資産の移転、契約承継、許認可、登記などの作業が必要になります。これに対して株式譲渡は、取引構造としてはシンプルです。ただ「会社全体を引き受ける」以上、価格判断で確認すべき範囲は、むしろ広くなると考えておくべきでしょう。出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)
株式譲渡価格は「企業価値」ではなく「株主価値」を見る
株式譲渡で実際に売買されるのは、対象会社の株式です。そのため、価格判断の最終的な対象となるのは、会社全体の価値そのものではなく、株主に帰属する価値、つまり株主価値です。
ここを混同してしまうと、価格判断を誤ります。
事業から生み出される将来キャッシュ・フローの価値が、事業価値です。そこへ、事業に使われていない余剰現金、投資有価証券、遊休不動産といった非事業用資産を加えると、企業全体の価値に近づきます。さらに、企業価値から有利子負債や負債類似項目など、株主以外に帰属する請求権を差し引いて、はじめて株主に帰属する価値が見えてきます。事業価値に非事業用資産を加え、有利子負債その他の非株式請求権を控除して株主価値へ橋渡しするという考え方は、企業価値評価における基本的な整理です。
株式譲渡価格をおおまかに描くと、次のような流れになります。
事業価値
+ 非事業資産・余剰資金
─────────────────
= 企業価値
− 有利子負債
− 負債類似項目
± 正常運転資本との差額
± DDで発見された調整項目
─────────────────
= 株主価値
→ 株式譲渡価格の判断材料
もちろん、実際の取引では、ロックドボックス方式、クロージング時点の価格調整、アーンアウト、分割払い、役員退職慰労金、経営者保証の整理などが組み合わさります。この算式だけで価格が機械的に決まるわけではありません。
それでも、価格交渉の土台としては、まず「事業の価値」と「株主に帰属する価値」を分けて考えることが出発点になります。
たとえば、対象会社に多額の借入金があれば、事業そのものに価値があっても、株主価値は大きく目減りします。逆に、事業価値がそれほど高くなくても、余剰現金や遊休資産を多く抱える会社では、株主価値が高くなることもあります。
ですから株式譲渡では、「会社はいくらの価値があるか」ではなく、「この会社の株式を取得するために、株主へいくら支払うのが合理的か」を考える必要があるのです。
決算書の利益だけで価格を判断してはいけない
株式譲渡では、対象会社の過去の決算書が、価格判断の出発点になります。ただし、決算書上の利益をそのまま評価に持ち込むのは危険です。
M&A価格の基礎となるのは、過去に一度だけ生じた利益ではありません。今後も継続的に生み出せる正常収益力こそが、判断のよりどころになります。
とりわけ中小企業やオーナー企業では、次のような事情によって、決算書上の利益と実態としての収益力がずれることがあります。
- 役員報酬が市場水準より高い、または低い
- 経営者個人との取引が混在している
- 一時的な補助金、保険金、固定資産売却益が含まれている
- 本来必要な人件費や修繕費が先送りされている
- 設備投資や維持更新投資が不足している
- 親族・関連会社との取引条件が、通常の取引条件と異なる
- 会計方針や費用計上のタイミングに継続性がない
- 売上や粗利が、特定の取引先・特定の人物に依存している
買主の立場では、決算書の利益がそのまま将来キャッシュ・フローへつながるのかを確かめておく必要があります。売主の立場でも、正常収益力をきちんと説明できなければ、買主から大きなディスカウントを求められやすくなります。
株式譲渡では対象会社全体を引き受ける以上、利益の質が、そのまま株式価値に反映されます。単年度の利益に倍率を掛けただけの価格は、交渉の入口にはなっても、説明可能な価格とはいえません。
ネットデットは株式譲渡価格を大きく動かす
株式譲渡価格を考えるうえで、ネットデットの整理は避けて通れません。
ネットデットとは、一般に、有利子負債から現預金等を差し引いた純有利子負債を指します。もっとも実務では、「どこまでを負債に含めるか」「どこまでを現金類似資産として控除するか」が、大きな交渉論点になります。
たとえば買主は、次のような項目を株主価値から控除すべきものとして主張することがあります。
- 借入金
- リース債務
- 未払税金
- 未払賞与
- 退職給付・退職金債務
- 役員退職慰労金
- 未払残業代
- 保証債務
- 訴訟・環境・製品責任等の偶発債務
- 本来費用処理すべき引当不足
- 過年度決算修正による負担
- 買主が取得後に支払わざるを得ないデットライクアイテム
一方で売主としては、通常の営業循環の中で発生する買掛金や未払費用まで過度に控除されることには、慎重であってよいはずです。すべての負債を株式価値から差し引けばよい、というものではありません。その負債が事業価値の算定にどう織り込まれているか、正常運転資本に含まれているか、将来キャッシュ・フローですでに反映されているかを、ひとつずつ確かめる必要があります。
財務DDでは、有利子負債の正確性・網羅性に加えて、ネットデット以外に株主価値から控除され得る負債類似項目を見つけ出すことが重要になります。退職給付引当金や賞与引当金の引当不足、環境・訴訟に関する偶発債務、保証債務などは、価格調整項目として買収価格に影響し得ると整理されています。
ここで大切なのは、「借入金がいくらあるか」だけに目を奪われないことです。
価格判断では、対象会社を買った後に、株主として実質的にどの負担を背負うことになるのかを見極めます。その負担が事業価値の算定に反映されていなければ、株式譲渡価格から控除するのか、それとも補償や表明保証で手当てするのかを、改めて検討する必要があります。
現預金はすべて売主に帰属するわけではない
株式譲渡では、対象会社の現預金をどう扱うかも、重要な論点です。
売主は、対象会社に残っている現預金を株式価値に加算すべきだと考えがちです。確かに、事業に必要な水準を超える余剰現金については、株主に帰属する価値として評価へ加味されることがあります。
しかし、現預金のすべてが余剰資金とは限りません。
事業を続けていくには、仕入代金の支払い、人件費、税金、借入返済、賞与、季節変動、設備更新などに備えるための運転資金が欠かせません。こうした資金まで売主に帰属する価値として切り出してしまえば、買主は取得直後に資金不足へ陥りかねません。
そこで価格判断では、対象会社に必要な正常運転資本を見極めることが求められます。
正常運転資本とは、対象会社が通常の営業活動を続けていくうえで必要となる、売掛金、棚卸資産、買掛金、未払費用などの水準を指します。株式譲渡では、クロージング時点の運転資本が正常水準を上回るか下回るかによって、価格調整が行われることがあります。
買収価格は、事業価値から譲渡日のネットデットを控除し、デットライクアイテムや基準運転資本調整などを加減算して算定されることがあります。合理的な価格調整メカニズムを定めるには、ネットデットやデットライクアイテムの把握、月次の運転資本分析、正常運転資本水準の分析が欠かせません。
現預金が多い会社ほど、価格判断は単純ではなくなります。
- それは余剰現金なのか
- 近日中に支払うべき負債の見合いなのか
- 季節変動に備える営業資金なのか
- 借入金と一体で見るべき資金なのか
- 売主がクロージング前に、配当・役員報酬・退職金などで社外へ流出させる予定があるのか
この整理を抜きにして「現預金が多いから高い会社」と判断してしまうと、実際の株式価値を見誤ることになります。
簿外債務・偶発債務は、価格だけで処理できるとは限らない
株式譲渡では、対象会社の法人格がそのまま残るため、過去から積み上がってきたリスクも、対象会社の中に残ります。
とりわけ注意したいのは、貸借対照表に明確には表れていない負担です。
- 未払残業代
- 退職金・賞与の引当不足
- 税務調査で指摘され得る過年度税務リスク
- 社会保険・労務関連の未整備
- 保証債務
- 係争中、または潜在的な紛争
- 環境汚染・土壌汚染
- 取引先との損害賠償リスク
- 製品保証・製造物責任
- 重要契約の解除リスク
- 許認可・法令違反リスク
- 関連当事者取引の未整理
このうち、金額を合理的に見積もれるものは、価格調整や株式価値の控除項目として反映しやすいといえます。
問題は、発生可能性や金額の見積りが難しいものです。これらは、価格で一括調整しようとしても容易ではありません。たとえば、発生確率は低いものの、顕在化したときの損害が非常に大きいリスクを、単純に期待値で価格から差し引いても、買主にとって十分な保護にはならないことがあります。
DD発見事項は、買収価格、最終契約書、リスク回避策、買収後の対応へ反映させていく必要があります。定量化できる発見事項は評価や価格調整に織り込み、定量化が難しいものについては、スキーム変更や表明保証・補償条項など、価格調整以外の対応も検討されます。
つまり、簿外債務・偶発債務については、次の順に考えていくことになります。
- まず、リスクの存在を把握する
- 次に、発生可能性と影響額を検討する
- 金額化できるものは、価格に反映する
- 金額化しにくいものは、契約条件で手当てする
- 価格でも契約でも受け入れられないものは、取引条件やスキームの変更、または取引中止を検討する
「リスクがあるから値引きする」だけでは、十分とはいえません。価格で受けるリスクなのか、契約で守るリスクなのか、そもそも引き受けるべきでないリスクなのか――この切り分けこそが大切です。
価格調整条項は便利だが、曖昧に設計すると紛争の種になる
株式譲渡では、基本合意や最終契約の時点と、実際に株式が移転して代金が支払われるクロージング時点との間に、時間差が生じることがあります。
この間に、対象会社の現預金、借入金、運転資本、業績、税務負担、重要契約などが動く可能性があります。そこで、最終契約後からクロージングまでの変動を譲渡額へ反映するために、価格調整条項が設けられることがあります。
ただし、価格調整条項は、設ければ安心というものではありません。
中小M&Aガイドラインでも、最終契約後に譲渡額を調整・修正する条項については、調整が発生する条件や方法に解釈の相違があると争いへ発展するリスクがあるため、設ける場合には条件や方法を明確かつ詳細に定める必要があるとされています。株価調整条項についても、調整額の算出方法が曖昧であれば争いに発展しかねないため、慎重な検討が求められています。出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)
価格調整で特に問題になりやすいのは、次のような点です。
- ネットデットの定義が曖昧である
- 現預金に含める範囲が曖昧である
- デットライクアイテムの範囲が決まっていない
- 正常運転資本の基準額が合理的に決まっていない
- 月次決算の精度が低い
- クロージングBSの作成方法が決まっていない
- 売主・買主のどちらが算定し、誰が確認するのかが決まっていない
- 争いが生じた場合の解決方法が定まっていない
価格調整条項は、評価額と最終価格を橋渡しする重要な仕組みです。しかし、計算方法が曖昧なまま導入すれば、クロージング後の紛争原因になりかねません。
評価の段階から、契約上の価格調整に耐えられるだけの数値定義を意識しておくことが望まれます。
表明保証は価格の代わりではない
株式譲渡では、表明保証も重要な役割を担います。
表明保証とは、売主や買主が、一定の事項について真実かつ正確であることを表明し、保証する条項です。対象会社の株式、財務諸表、税務申告、契約、許認可、労務、訴訟、反社会的勢力との関係、知的財産、環境問題などが対象になることがあります。
ただし、表明保証は、価格調整の代わりに何でも入れておけばよい、というものではありません。
中小M&Aガイドラインでは、表明保証を設けるにあたり、DDの結果を踏まえ、問題が顕在化する可能性や影響の大きさ、それが譲渡対価に織り込まれているかを勘案し、当事者間で認識を擦り合わせることが重要とされています。あわせて、無期限・無制限の表明保証条項や、適用場面が判然としない条項を定型的に設定することについては、慎重な検討が必要とされています。出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)
価格判断との関係でいえば、次の切り分けが要になります。
- すでに判明しており、金額を見積もれるものは、価格に織り込む
- 存在は疑われるが、発生の有無や金額が不確実なものは、表明保証・補償で手当てする
- 発生した場合の影響が大きすぎるものは、価格でも表明保証でもなく、取引条件そのものを見直す
- 売主が保証できない事項を、買主が価格に織り込まずに引き受ける場合は、そのリスクを明示する
表明保証は、買主にとってはリスク保護の手段であり、売主にとってはクロージング後の責任を残す条項でもあります。価格を高くする代わりに売主責任を重くするのか、価格を調整する代わりに責任範囲を限定するのか。ここは、価格交渉と一体で考えるべき論点です。
経営者個人との資産・負債の混在は、価格判断を歪める
中小企業の株式譲渡では、対象会社と経営者個人との関係が、価格判断に大きく影響します。
たとえば、対象会社の事業に使っている土地や建物が、経営者個人名義になっていることがあります。逆に、会社名義の車両や不動産が、実質的には経営者個人のために使われている場合もあります。役員貸付金、役員借入金、経営者保証、親族への貸付、関連会社との取引なども、価格判断に影を落とします。
中小M&Aガイドラインでは、譲渡会社の財産と経営者個人の財産が明確に分離されていない場合には、M&Aにあたって当該財産を整理することが求められるとされています。最終契約後に整理しようとすると、合意内容に大きな変更が生じ、争いへ発展するリスクがあるため、可能な限り最終契約前に整理し、残る場合も対象資産、移転方法、譲渡額を具体的に明記することが重要だとされています。出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)
この論点を放置したまま進めると、価格交渉は混乱します。
- 買主は、事業に必要な資産が会社の中に入っていると思って価格を提示した
- 売主は、その資産は経営者個人のものなので別途買い取ってほしいと考えていた
- 会社に残る現預金を前提に価格を決めたが、クロージング前に役員退職金として流出した
- 役員借入金を実質的な資本だと見ていたが、クロージング後に返済を求められた
- 経営者保証が解除される前提だったが、金融機関の判断により残ってしまった
こうしたズレは、単なる契約上の問題にとどまりません。評価前提そのものの問題です。
株式譲渡価格を判断する前に、会社の資産・負債と、経営者個人の資産・負債を分けておく必要があります。対象会社の事業に必要な資産が会社の外にあるのなら、その利用関係や取得・賃借の条件を価格へ反映しなければなりません。会社の中にあるけれど事業には不要な資産は、非事業資産として加算するのか、それともクロージング前に処分するのかを、あらかじめ決めておく必要があります。
経営者保証は「価格」ではなく「手取り」と「リスク」に影響する
株式譲渡では、経営者保証の扱いも見過ごせません。
経営者保証が解除されるのか、買主側へ移行するのか、一定期間残るのか。それによって、売主にとっての実質的な手離れは大きく変わります。売主が株式譲渡代金を受け取ったとしても、旧経営者として保証債務が残るのであれば、経済的にはまだリスクから完全に離れられていないことになります。
中小M&Aガイドラインでは、譲渡会社の経営者が金融債務等の保証人となっている場合、その扱いを慎重に検討する必要があるとされています。M&Aを通じて経営者保証を解除または移行したいときは、士業等専門家や事業承継・引継ぎ支援センターへの相談、金融機関等への事前相談といった対応が考えられるとされています。出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)
価格判断の観点では、経営者保証は株式価値そのものを直接増減させる項目ではないかもしれません。それでも、売主にとっては、取引後に残るリスクを左右する要素です。
売主が見るべきなのは、表面上の譲渡価格だけではありません。
- 譲渡代金はいくらか
- 税引後の手取りはいくらか
- 経営者保証は解除されるのか
- 役員退職慰労金や貸付金の精算はどうなるのか
- 分割払いやアーンアウトに、未回収リスクはないか
- クロージング後の補償責任は、どこまで残るのか
株式譲渡価格が高く見えても、保証や補償、分割払い、税務負担まで含めて考えると、実質的な経済条件は大きく姿を変えます。
税務上の手取りを無視すると、売主の価格判断を誤る
株式譲渡では、売主側の税務も重要です。
売主が個人か法人か、上場株式か非上場株式か、一般株式等か上場株式等か、自己株式取得なのか第三者への譲渡なのか、関連者間取引なのか。これらによって、税務上の取扱いは変わってきます。本稿では個別の税額計算には踏み込みませんが、少なくとも、譲渡価格と税引後手取りは別物である、という前提に立っておくべきです。
国税庁は、株式等を譲渡した場合の譲渡所得等について、上場株式等と一般株式等に区分し、他の所得と区分して税金を計算する申告分離課税の対象となる旨を示しています。非上場株式のM&Aでは一般株式等に該当する場合が多く、売主の属性や取引形態に応じた確認が必要です。出典:国税庁|No.1463 株式等を譲渡したときの課税(申告分離課税)
価格交渉の場面では、売主が「この金額以上でなければ売れない」と考える背景に、税引後手取り、借入返済、退職後の生活資金、保証解除、親族間の分配といった事情があることがあります。
一方、買主にとって重要なのは、売主の手取り希望そのものではなく、その会社の株式価値として合理的に支払える金額です。
ここに、ギャップが生まれます。
- 売主は、必要な手取りから逆算して価格を考える
- 買主は、将来キャッシュ・フローとリスクから価格を考える
- 仲介会社の提示額は、交渉可能性や成約可能性を踏まえた目安として示されることがある
- 税務上の時価や、会社法上の公正価格は、また別の目的で問題になる
ですから、売主側でも買主側でも、株式譲渡価格を検討するときには、評価額、希望価格、取引価格、税引後手取り、そして説明可能な価格を、それぞれ分けて整理しておく必要があります。
買主は「買える価格」ではなく「買ってよい価格」を考える
買主にとって、株式譲渡価格の判断で最も危ういのは、「資金調達できるから買える」「相場倍率の範囲内だから妥当」「売主が希望しているから仕方ない」といった発想です。
買主が本当に考えるべきなのは、その価格を支払った後に、対象会社が生み出すキャッシュ・フローで投資を回収できるのか、想定したシナジーを実現できるのか、見落としたリスクが株主価値を損なわないか、という点です。
とりわけ株式譲渡では、対象会社を丸ごと引き受けるため、買収後に次のような問題が表に出てくることがあります。
- 実態利益が想定より低かった
- 経営者が退任すると売上が落ちた
- 主要取引先との関係が維持できなかった
- 必要な設備投資が想定以上に大きかった
- 未払残業代や退職金負担が発覚した
- 税務調査で過年度リスクが顕在化した
- 借入金以外のデットライクアイテムが多かった
- 現預金が多いと思っていたが、正常運転資金に必要だった
- 経営者個人名義の不動産が、事業に不可欠だった
これらは、買収後に初めて気づいても、売主へ請求できるとは限りません。表明保証や補償があったとしても、範囲、期間、上限、立証、回収可能性といった壁が立ちはだかります。
そこで買主は、価格判断の段階で、次の3つを分けて考える必要があります。
- 価格に反映するリスク
- 契約で保護するリスク
- 引き受けないリスク
すべてを価格へ入れようとすれば、売主は合意できません。すべてを表明保証で処理しようとすれば、クロージング後の紛争リスクが膨らみます。そして、引き受けられないリスクを無視すれば、買収後に企業価値を損なうことになります。
株式譲渡の価格判断は、単なる値付けではなく、リスク配分の設計でもあるのです。
売主は「高い価格」だけでなく「後から崩れない価格」を考える
売主にとって、高い価格で譲渡できることが重要なのは、いうまでもありません。
ただ株式譲渡では、表面上の譲渡価格ばかりを追いかけると、後から思わぬ問題が顔を出すことがあります。
たとえば、買主が高い価格を提示していても、分割払いの割合が大きければ、未回収リスクが残ります。アーンアウトで追加対価が設定されていても、目標設定や算定方法が曖昧であれば、後々の争いにつながりかねません。表明保証・補償の範囲が広すぎれば、クロージング後に受け取った代金の一部を返還する事態も起こり得ます。
中小M&Aガイドラインでは、クロージング後分割払い、役員退職慰労金のクロージング後払い、株式の段階的取得、アーンアウト、株価調整、支払金の返還条項などについて、不履行や解釈の相違により争いへ発展するリスクがあるため、慎重な検討が必要とされています。出典:中小企業庁|中小M&Aガイドライン(第3版)
売主が確かめておくべきなのは、次のような点です。
- 譲渡対価のうち、クロージング時に確実に受け取れる金額はいくらか
- 分割払い・後払い・アーンアウトの条件は明確か
- 価格調整で減額される可能性はあるか
- 表明保証違反時の補償上限・期間・範囲は合理的か
- 税引後手取りはいくらか
- 経営者保証は解除されるか
- 役員貸付金・借入金・退職慰労金はどう精算されるか
- クロージング後の引継ぎ義務は、どの程度残るか
売主にとって本当に大切なのは、名目上の高い価格ではありません。後から崩れにくく、手取りとリスクまで含めて納得できる条件こそが、最後にものを言います。
株式譲渡価格を判断するための実務上の確認順序
株式譲渡価格を検討する際は、いきなりDCFやEBITDA倍率へ飛び込むのではなく、次の順に整理していくと、判断が落ち着きます。
1. 何を譲渡するのかを確認する
まず、譲渡対象が発行済株式の全部なのか、一部なのかを確認します。全株式を取得するのか、支配権だけを取得するのか、少数株主が残るのか――それによって、価格判断は変わってきます。
少数株主が残る場合には、将来の意思決定、配当、自己株式取得、株主間契約、出口戦略までもが、価格に影響します。
2. 評価基準日を決める
価格判断では、いつの会社を評価するのかを、はっきりさせておく必要があります。直近期末、直近月次、基本合意日、最終契約日、クロージング日――それぞれで、現預金、借入金、運転資本、業績は異なります。
評価基準日が曖昧なままだと、価格調整の議論も曖昧になってしまいます。
3. 正常収益力を把握する
過去の営業利益やEBITDAから、一過性損益、役員報酬、関連当事者取引、会計方針の影響を調整し、継続的に稼げる利益水準を見定めます。
ここでの調整は、マルチプル評価にもDCFにも効いてきます。
4. 事業計画を検証する
売上成長、粗利率、固定費、設備投資、運転資本、税金、経営者退任後の影響、主要取引先の継続性などを確認します。
DCFを使う場合であっても、計算式そのものより、事業計画の前提のほうがはるかに重要です。
5. 非事業資産と余剰資金を分ける
事業に必要な資産と、事業に不要な資産とを分けます。遊休不動産、投資有価証券、保険積立金、余剰現金、関連会社株式などは、事業価値とは切り離して評価します。
あわせて、税負担、処分可能性、流動性、担保設定、売却制限の有無も確認しておきます。
6. ネットデットと負債類似項目を整理する
借入金だけでなく、実質的に株主価値から控除すべき項目を確認します。ここで見るのは、貸借対照表に載っているかどうかではなく、買主が取得後に負担する経済的な実態です。
7. 簿外債務・偶発債務を検討する
金額化できるものは価格へ反映し、金額化が難しいものは契約上の手当てや取引条件の見直しで対応します。
8. 価格調整メカニズムを確認する
最終契約日からクロージング日までに、対象会社の価値が動く可能性がある場合には、価格調整条項の要否を検討します。
その際、調整項目、算定方法、基準日、紛争解決方法を曖昧にしないことが肝心です。
9. 税務・保証・支払条件を含めて実質条件を見る
売主にとっては税引後手取りを、買主にとっては支払総額とリスク負担を確認します。譲渡価格だけを見るのではなく、分割払い、アーンアウト、退職慰労金、保証解除、表明保証・補償まで含めて判断します。
10. 説明可能性を確認する
最後に、その価格を第三者へ説明できるかを確かめます。
売主は、なぜその価格で譲渡するのかを、株主・親族・後継者・金融機関へ説明できなければなりません。買主は、なぜその価格で取得するのかを、取締役会・金融機関・株主・社内関係者へ説明できる必要があります。
説明できない価格は、交渉で一時的に合意できたとしても、後から問題になりやすい価格です。
株式譲渡価格の判断で専門家に相談すべき場面
株式譲渡の価格判断は、簡易な相場感で足りることもあります。ただ、次のような場合には、早い段階で専門家へ相談することをおすすめします。
- 企業価値と株式価値の違いが整理できていない
- 借入金や現預金を価格へどう反映するか分からない
- 非事業資産や遊休資産が多い
- 役員貸付金・役員借入金・経営者個人資産が混在している
- 過去の税務・労務・法務リスクがありそうだが、金額化できない
- 売主希望価格と買主提示価格の差が大きい
- EBITDA倍率やDCFの前提に納得感がない
- 価格調整条項やアーンアウトの設計に不安がある
- 表明保証・補償の範囲が、価格と整合しているか分からない
- 金融機関・株主・後継者へ説明できる評価資料が必要である
- 税務上の時価や関連者間取引の問題が絡む
- 株式譲渡と事業譲渡のどちらが価格面で合理的か、比較したい
大切なのは、専門家に「いくらが正解か」を尋ねることではありません。
本来相談すべきは、どの前提に立てばどの価格レンジになるのか、何が価格差の原因になっているのか、どのリスクを価格に入れるべきか、どのリスクを契約条件で扱うべきか、そして後から説明できる判断材料がそろっているか――こうした点です。
株式譲渡価格は、評価額だけで決まるものではありません。会社全体を引き受ける取引として、財務実態、事業計画、ネットデット、簿外債務、税務、契約条件、支払条件、保証、説明責任まで含めて判断していく必要があります。
まとめ|株式譲渡の価格判断は、会社全体を数字で引き受ける判断である
株式譲渡は、M&Aの中でも基本的なスキームです。けれども、基本的であることと、簡単であることとは、同じではありません。
株式を買うという形式の裏側では、対象会社の過去・現在・将来を丸ごと引き受ける判断が行われています。
ですから株式譲渡価格を見るときには、単に「利益の何年分か」「純資産はいくらか」「相場倍率はいくらか」だけで判断してはいけません。
- 事業の稼ぐ力は、どの程度か
- その利益は、継続するのか
- 必要な運転資本や設備投資は、織り込まれているか
- 余剰現金と事業資金は、分けられているか
- 有利子負債や負債類似項目は、控除されているか
- 簿外債務や偶発債務は、価格・契約に反映されているか
- 経営者個人との資産・負債の混在は、整理されているか
- 税務上の手取りや保証解除まで含めて、実質条件を見ているか
- その価格を、後から説明できるか
これらを整理して初めて、株式譲渡価格は「交渉上の数字」から「経営判断に使える数字」へと変わります。
株式譲渡価格の判断に不安がある場合は、早めに論点を整理してください
株式譲渡の価格判断では、評価手法そのものよりも、前提条件の整理がものを言います。
決算書の利益、純資産、借入金、現預金、役員貸付金、簿外債務、税務リスク、価格調整、表明保証、経営者保証。これらが整理されないまま交渉が進むと、最終局面で価格が大きく動いたり、クロージング後に紛争化したりすることがあります。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、M&A・事業承継・資本政策・組織再編に関する企業価値評価、株式価値評価、取引価格の判断、税務・会計上の論点整理について、数字と事実に基づいた検討を行っています。
株式譲渡価格の妥当性、買主提示額の読み方、売主希望価格の整理、ネットデットや簿外債務の反映、税引後手取りを含めた実質条件の確認が必要な場合は、犬飼公認会計士・税理士事務所HPのお問い合わせページよりご相談ください。
本記事の振り返り
| 論点 | 重要な考え方 |
|---|---|
| 株式譲渡の本質 | 株式を買う取引だが、対象会社の法人格・資産・負債・契約・リスクは残る |
| 価格判断の対象 | 企業価値そのものではなく、株主に帰属する株主価値を判断する |
| 正常収益力 | 決算書上の利益ではなく、継続的に稼げる利益・キャッシュ・フローを見る |
| ネットデット | 借入金だけでなく、負債類似項目や控除すべき経済的負担を確認する |
| 現預金 | すべてが余剰資金ではなく、正常運転資本に必要な資金を区別する |
| 簿外債務・偶発債務 | 金額化できるものは価格へ、難しいものは契約条件やスキームで対応する |
| 価格調整 | 条件や算定方法が曖昧だと、クロージング後の紛争原因になる |
| 表明保証 | 価格調整の代替ではなく、DD結果とリスク配分に基づき設計する |
| 経営者個人との関係 | 個人資産・役員貸付借入・経営者保証は、価格と手取りに影響する |
| 実務上の到達点 | 高い・安いではなく、後から説明できる価格レンジと条件を整理する |