事業承継というと、相続税や贈与税の試算、自社株評価、特例承継計画、納税猶予の要件確認といった論点に、どうしても目が向きがちです。
けれども実務の現場では、それらに着手する前に、必ず確認しておきたい重大な前提があります。先代経営者が、贈与や遺言、信託契約、そして株主としての意思決定を、有効に行える状態にあるかどうか――この一点です。
先代が認知症などによって判断能力を失ってしまうと、後継者への自社株の贈与、遺言書の作成、家族信託の設定、株式譲渡の承認手続、議決権の行使といった、承継を実行に移す行為そのものが難しくなります。事業承継税制を使いたいと考えても、その入口である贈与の段階で、道が閉ざされてしまうことがあるのです。
法人版事業承継税制の特例措置は、税負担を大きく軽減できる可能性を持つ制度です。ただし、その適用にあたっては、期限、計画、認定、申告、そして継続的な管理が求められます。特例措置を利用するには、令和9年9月30日までに特例承継計画を提出し、令和9年12月31日までに事業承継を行う必要があります。
この期限の管理と同じくらい重要になるのが、「先代がいつまで有効に意思を表示できるのか」という時間軸です。本記事では、認知症、任意後見、法定後見、そして家族信託が、自社株の承継と事業承継税制にどのような影響を及ぼすのかを、順を追って整理していきます。
認知症リスクは、相続対策ではなく「承継実行リスク」である
認知症への備えというと、預金の管理や介護費用の支払いをどうするか、という文脈で語られることが少なくありません。
しかし、オーナー企業の事業承継において、認知症のリスクはそれだけにとどまりません。先代が議決権の過半数を、場合によっては3分の2以上を握っている会社では、先代の判断能力が低下することで、会社の意思決定そのものが止まってしまうことがあるのです。
たとえば、次に挙げる行為では、先代の意思能力や適切な代理権限の有無が問題になります。
- 後継者への自社株の贈与
- 自社株の売買契約の締結
- 遺言書の作成・変更
- 家族信託契約の締結
- 株式譲渡承認請求への対応
- 株主総会での議決権の行使
- 取締役の選任・代表者の交代
- 種類株式や属人的定めの導入
- 事業用不動産の売却・担保設定
- 金融機関との保証・借入条件の変更
- 事業承継税制の適用前提となる株式移転
民法では、意思能力を欠いた状態で行われた法律行為は無効とされています。そのため、認知症が進行し、意思能力に疑いが残る状態で重要な贈与契約や売買契約、信託契約を結んでしまうと、後日、相続人の間でその有効性が争われる事態にもなりかねません。
とりわけ自社株の承継では、「あの時点で先代は本当に内容を理解していたのか」と後から問われると、税務申告にとどまらず、株主名簿、議決権、相続人間の権利関係に至るまで、足元が不安定になってしまいます。
事業承継税制は、意思能力低下後の救済制度ではない
法人版事業承継税制は、円滑化法の認定を受けた非上場会社の株式等について、後継者が贈与または相続などによって取得した場合に、一定の要件のもとで贈与税・相続税の納税を猶予する制度です。そして、後継者の死亡などによって、猶予されていた税額の納付が免除されます。
平成30年度の税制改正によって、特例措置では納税猶予の対象となる株式の制限が撤廃され、相続税の猶予割合も100%へと引き上げられました。
ただし、この制度は「意思能力が低下した先代に代わって株式を移す制度」ではありません。
贈与税の納税猶予を使うのであれば、その前提として、先代から後継者への有効な贈与が成立していなければなりません。先代が贈与契約の意味を理解できない状態にあれば、贈与の実行そのものに法的なリスクが生じてしまいます。
相続税の納税猶予の場合も同様に、相続が発生した後に、後継者が株式を取得することが求められます。遺言がなく、遺産分割協議が難航するようなことになれば、後継者が対象となる株式を確実に手にできるかどうか、不確実さが残ります。
つまり事業承継税制は、あくまで承継にかかる税負担を猶予するための制度であって、先代の判断能力が低下したことによる「実行できない」というリスクまでを解消してくれる制度ではないのです。
先代の判断能力低下で止まりやすい4つの行為
1. 生前贈与ができなくなる
生前贈与は、先代と後継者の合意によって成立します。
自社株を後継者へ贈与し、法人版事業承継税制の贈与税納税猶予を受けるという設計では、贈与を行う時点で、先代が贈与の内容、株式の持つ意味、後継者への支配権の移転、そして税務上の効果までを理解している必要があります。
判断能力が低下した後に無理を押して贈与を実行すれば、他の相続人から無効を主張されるリスクが生じます。後継者がせっかく納税猶予の申請を進めたとしても、その株式取得の土台となる贈与が争われるようでは、承継後の経営は落ち着きません。
2. 遺言書を作成・変更できなくなる
遺言は、相続が発生した後に、後継者へ自社株を集中させるための重要な手段です。
ただし、その遺言も、判断能力があるうちに作成しておかなければなりません。民法は、遺言者は遺言をするときにその能力を備えていなければならない、と定めています。
認知症が進んだ後に遺言を作成すれば、遺言能力をめぐって争いが生じることがあります。とりわけ、自社株を後継者に集中させ、後継者以外の相続人が取得する財産が少なくなる遺言では、遺留分と遺言能力という二つの争点が重なりやすくなります。
3. 家族信託を設定できなくなる
家族信託は、先代が委託者となり、後継者や信頼できる親族を受託者として、自社株や事業用不動産といった財産の管理・承継を設計していく手法です。
しかし、信託契約もまた契約である以上、先代にその内容を理解する能力が求められます。すでに判断能力が不十分になっている場合には、家族信託を新たに設定すること自体が難しくなります。
「認知症になったら家族信託を使えばよい」という発想は、残念ながら誤りです。家族信託は、認知症になってから使い始める制度ではなく、判断能力があるうちに設計しておくべき制度なのです。
4. 株主としての意思決定が不安定になる
先代が自社株の大部分を保有したまま判断能力を失うと、株主総会での議決権の行使が問題になります。
後継者を取締役に選任する、代表者を交代する、定款を変更する、種類株式を導入する、自己株式を取得する、組織再編を行う――こうした場面では、株主としての意思決定が必要になることがあります。
議決権行使のために委任状を作成する場合でも、委任した時点での意思能力が問われます。形のうえで委任状がそろっていても、後日、他の相続人や株主からその有効性を争われる可能性は残ります。
任意後見は「将来の代理権」を準備する制度である
任意後見制度は、本人にまだ十分な判断能力があるうちに、将来の任意後見人や委任する事務の内容を、公正証書による契約であらかじめ定めておく仕組みです。そして本人の判断能力が不十分になった後に、任意後見人が本人に代わって、その委任された事務を行います。
この任意後見契約の効力が生じるのは、家庭裁判所が任意後見監督人を選任した時点からです。
任意後見は、先代が将来の財産管理を誰に託すのかを、事前に自分の意思で決められる点に大きな意味があります。預金の管理、不動産の管理、介護・医療費の支払い、各種の契約手続などを想定して設計できます。
ただし、事業承継の場面では、任意後見を過大に評価しないよう注意が必要です。
任意後見人は、あくまで本人の生活、療養看護、財産管理に関する事務を担う立場にあります。これに対して、後継者への生前贈与、相続税対策、自社株の大幅な移転、会社支配権の変更といった行為は、本人の財産を減らすことになったり、家族間の利害調整を伴ったりする性質のものです。
したがって、任意後見契約の中で広い代理権を定めておいたとしても、後見が始まった後に自由に自社株を贈与できる、というわけではないのです。
任意後見を事業承継に活用する場合は、次のように位置づけておくのがよいでしょう。
- 先代の生活費・医療費・介護費用の管理
- 事業用不動産の通常管理
- 会社への貸付金や賃料収入の管理
- 金融機関・行政手続への対応
- すでに決定済みの承継方針を維持する補完策
- 家族信託や遺言と組み合わせた管理体制の一部
任意後見は、判断能力が低下した後の財産管理を支えるための制度であって、後になってから事業承継対策を自由に組み替えるための制度ではない、と理解しておくことが大切です。
法定後見は「本人保護」の制度であり、承継対策の代替ではない
法定後見制度には、本人の判断能力の程度に応じて、後見・保佐・補助という3つの類型が用意されています。後見は判断能力が欠けているのが通常の状態にある方を、保佐は判断能力が著しく不十分な方を、補助は判断能力が不十分な方を、それぞれ対象とします。
成年後見人等は、本人の財産を管理し、必要な福祉・医療サービスの契約などを行いながら、家庭裁判所の監督を受けます。具体的には、本人の不動産や預貯金を管理し、必要な福祉サービスや医療を受けられるよう、介護契約の締結や医療費の支払いといった事務を担います。
この制度が何より優先するのは、本人の保護です。
そのため、法定後見が始まった後で、相続税対策や後継者への株式集中を目的として本人の財産を移すことについては、慎重に考えなければなりません。たとえ後継者や会社にとっては有益な行為であっても、それが本人の利益と一致するとは限らないからです。
たとえば、次のような行為は、成年後見人等が当然に行えるものではありません。
- 後継者への自社株贈与
- 相続税対策を目的とする不動産購入
- 会社への債権放棄
- 後継者への低額譲渡
- 後継者有利の遺産分割方針の決定
- 会社支配権を移すための株式移転
- 節税目的の大規模な財産処分
加えて、後見人等を選ぶのは家庭裁判所です。申立人が希望した親族が、必ずしもそのまま選任されるわけではありません。家庭裁判所は事情に応じて成年後見人等を選任するため、希望どおりの人が選ばれるとは限らないのです。
したがって、法定後見は、認知症になった後の最低限のセーフティネットとしては確かに重要ですが、事業承継を設計するための手段として過度に期待するのは禁物です。
家族信託は「議決権管理」と「財産管理」を分けて設計できる
家族信託は、事業承継において有力な選択肢になることがあります。
とりわけ、先代としては自社株を持ち続けたいけれども、将来の判断能力低下に備えて、議決権の行使や財産の管理は後継者に任せておきたい――そうした場面で検討されます。
典型的には、先代を委託者兼受益者とし、後継者を受託者として、自社株や事業用不動産を信託財産とする設計が考えられます。この形であれば、経済的な利益は先代の手元に残したまま、受託者である後継者が信託の目的に沿って財産の管理や議決権の行使を担う、という構造をつくることができます。
ただし、自社株を信託財産に組み入れる場合、話は単なる認知症対策では終わりません。会社法、税務、事業承継税制、相続法務といった複数の側面からの検討が欠かせなくなります。
信託法上、制度の設計そのものは柔軟に行えます。しかし税務の面では、信託受益権の取得や受益者の変更によって課税関係が生じることがあります。新たに信託を設定した場合などに、適正な対価を負担しないまま受益権等を取得したときは、贈与税が課税されます。
出典:国税庁|No.4427 新たに信託の設定等を行った場合
また、受益者等課税信託では、受益者等が信託財産に属する資産・負債を有しているものとみなされ、信託財産から生じる収益・費用についても、受益者等に帰属するものとして扱われます。
出典:国税庁|法第13条《信託財産に属する資産及び負債並びに信託財産に帰せられる収益及び費用の帰属》関係
家族信託は、契約書をつくれば完成、というものではありません。誰が受益者となるのか、誰が議決権を行使するのか、受益権を将来誰が引き継ぐのか、そして税務上はいつ財産が移転したものと扱われるのか――これらを、はじめの段階からきちんと整理しておく必要があります。
自社株を家族信託に入れる場合の実務上の難所
1. 譲渡制限株式の承認手続
非上場会社の多くは、その株式に譲渡制限を付しています。
自社株を信託財産に入れる際、株式の名義を受託者へ移す設計をとると、会社法上の譲渡承認手続が必要になることがあります。定款、株主名簿、株券発行会社かどうか、譲渡を承認する機関、株主名簿の書換手続といった点を、ひとつずつ確認しておかなければなりません。
ここを曖昧にしたままにすると、会社が誰を株主として扱うべきなのか、その足場が揺らいでしまいます。
2. 議決権行使の設計
事業承継のための家族信託では、誰が議決権を行使するのか、ここが核心になります。
受託者が信託の目的に従って議決権を行使するのか、指図権者を置くのか、あるいは重要な事項については受益者や親族会議の関与を定めておくのか――その設計次第で、支配権の安定性は大きく変わってきます。
ただし、議決権の行使を複雑にしすぎると、今度は迅速な経営判断が難しくなってしまいます。金融機関や取引先から見ても、誰が実質的な意思決定者なのかが見えにくくなります。
3. 事業承継税制との整合性
家族信託と法人版事業承継税制をあわせて検討する場合は、とりわけ慎重な見極めが求められます。
法人版事業承継税制は、後継者が非上場株式等を贈与または相続などによって取得し、一定の要件を満たすことを前提としています。自社株が信託財産に組み込まれている場合には、後継者が実際に何を取得しているのか、それが対象株式といえるのか、議決権や継続保有、担保提供にどのような影響が及ぶのか、といった点を確認しておかなければなりません。
信託を使えば事業承継税制も当然に使いやすくなる、というような単純な関係ではないのです。むしろ、事業承継税制の利用を予定している会社では、自社株を信託に入れる前の段階で、税制の適用との整合性を確かめておく必要があります。
4. 受益権の相続・遺留分
自社株そのものを信託したとしても、受益権が財産として残る場合があります。
先代が受益者であれば、先代が亡くなった時には、その受益権を誰が承継するのかが問題になります。受益権を後継者へ引き継がせる設計にするとしても、他の相続人の遺留分や相続税評価を無視するわけにはいきません。
家族信託は、遺留分対策をそれだけで自動的に完成させてくれる制度ではありません。遺言、遺留分の特例、代償財産、生命保険、退職金といった手段と組み合わせながら、全体を整理していく必要があります。
5. 受託者の管理能力と責任
後継者を受託者にする場合、後継者は単に株式を取得した人にとどまらず、信託財産の管理者という立場を担うことになります。
受託者には、信託の目的に従って財産を管理する責任があります。会社経営者としての立場と受託者としての立場が重なり合うため、利益相反、帳簿の管理、分別管理、親族への説明責任といった課題が生じます。
後継者を選ぶにあたっては、経営者としての能力だけでなく、受託者としての管理能力もあわせて見ておくべきでしょう。
遺言は「死亡後」の対策、信託・後見は「生前」の対策
遺言、家族信託、任意後見、法定後見は、似ているようで、その役割は異なります。
遺言は、死亡後に誰へ財産を承継させるかを決めておくための制度です。自社株を後継者に相続させる、事業用不動産を後継者に引き継がせる、遺言執行者を指定する――こうした、相続発生後の承継設計に効果を発揮します。
しかし遺言は、生前の議決権行使や財産管理までを担う制度ではありません。先代が認知症になってから亡くなるまでの間、株主としての権利をどう管理するのかは、遺言だけでは解決できないのです。
家族信託は、生前の財産管理と死亡後の承継とを、一体のものとして設計できる場合があります。ただし、税務や事業承継税制との整合性が、ここでも難所になります。
任意後見は、判断能力が低下した後の本人保護と財産管理を支える制度です。ただし、承継対策としての財産移転という点では、できることに限界があります。
法定後見は、すでに判断能力が低下してしまった後の保護制度であり、承継を自由に設計するための手段ではありません。
こうした役割の違いを整理しないまま、「認知症対策として、とにかく何か制度を使えばよい」と考えてしまうと、承継の実務はどこかで行き詰まってしまいます。
先代が認知症になる前に決めるべきこと
自社株の承継では、先代の判断能力が十分なうちに、少なくとも次の事項を決めておく必要があります。
後継者を誰にするか
候補が複数いる場合には、できるだけ早い段階で方針を固めておく必要があります。
後継者が決まらなければ、自社株を誰に集中させるのか、議決権を誰に持たせるのか、特例承継計画に誰の名前を記載するのか――そのいずれも決めようがありません。
自社株をいつ移すか
生前贈与によって移すのか、相続で移すのか、それとも段階的に移していくのかを決めます。
判断能力低下のリスクが高いケースでは、生前贈与を検討できる時間は限られます。ただし、贈与税の納税猶予を使うのであれば、要件、認定、担保、そして承継後の管理を、同時に確認しておかなければなりません。
議決権を誰が管理するか
株式の経済的な価値は先代の手元に残すとしても、議決権については後継者へ移しておく必要が生じる場合があります。
種類株式、属人的定め、株主間契約、家族信託、議決権行使の委任など、手段はいくつも考えられますが、それぞれ会社法・税務・相続法務への影響の出方が異なります。
遺言を作成するか
相続による承継を前提にするのであれば、遺言は重要な意味を持ちます。
遺言がなければ、相続発生後の遺産分割協議によって、誰が株式を取得するのかを決めることになります。認知症による「実行できない」リスクは避けられたとしても、相続後に株式の取得をめぐって争いになれば、経営権はやはり不安定になってしまいます。
家族信託を使うか
先代が株式を持ち続けたまま、判断能力低下後の議決権管理は後継者に任せたい――そうした場合には、家族信託を検討する余地があります。
ただし、事業承継税制を使う可能性があるのなら、信託を設定する前に、税務上の影響を確認しておくべきです。
任意後見を併用するか
家族信託は、信託財産に入れた財産の管理には有効です。一方で、信託財産に入れていない預金、不動産、年金、介護契約、医療費の支払いなどまで、すべてをカバーしてくれるわけではありません。
先代本人の生活支援や財産管理のためには、任意後見や任意代理契約との併用も検討することになります。
事業承継税制を使う場合の認知症対策フロー
事業承継税制を検討している会社では、次の順序で整理していくと、実務上の判断がしやすくなります。
1. 先代の意思能力と健康状態を確認する
まずは、先代が契約、贈与、遺言、信託といった行為の内容を理解できる状態にあるかを確認します。
ここで大切なのは、認知症という診断名だけで機械的に判断しないことです。具体的な法律行為の中身を理解し、自ら判断できるかどうかが問われます。高齢であっても意思能力がしっかり保たれている場合もあれば、症状が軽くても複雑な承継契約の理解は難しい、という場合もあります。
重要な契約や遺言を行う際には、医師の診断書、面談の記録、公証人とのやり取り、専門家による説明の記録などを残しておくことも検討しておきたいところです。
2. 自社株評価と相続税・贈与税の試算を行う
認知症対策だけを先に進めても、税務の判断が伴わなければ、承継の設計は固まりません。
自社株の評価額、贈与税、相続税、納税猶予額、猶予の対象とならない税額、遺留分、そして後継者の納税資金を、順に試算していきます。
3. 贈与承継か相続承継かを決める
先代の判断能力低下のリスクが高く、後継者もすでに確定しているのであれば、生前贈与を検討する価値は十分にあります。
一方で、後継者がまだ十分に育っていない、家族の合意が得られていない、会社の将来方針が定まっていない、といった状況では、無理に贈与を急ぐべきではありません。とはいえ、その場合でも、遺言や議決権管理の設計は必要になります。
4. 特例承継計画と家族合意を並行して進める
特例承継計画は、税務上の手続であると同時に、後継者、承継の予定時期、承継後の経営見通しを整理するための資料でもあります。
この計画には、後継者の氏名、事業承継の予定時期、承継の時までの経営の見通し、承継後5年間の事業計画などを記載し、認定経営革新等支援機関による指導・助言を受ける必要があります。
ただし、計画を提出したからといって、それだけで家族の合意が形づくられるわけではありません。後継者以外の相続人への説明、遺留分、代償財産、生命保険、退職金についても、並行して整理していく必要があります。
5. 信託・後見・遺言を役割分担させる
それぞれの制度を、次のように分けて考えると、設計が明確になります。
- 自社株をいつ誰に移すか:贈与、売買、相続、遺言
- 先代死亡後の取得者を決める:遺言
- 判断能力低下後の財産管理を支える:任意後見
- 信託財産の管理・議決権行使を設計する:家族信託
- 判断能力低下後の本人保護を行う:法定後見
- 税負担を猶予する:事業承継税制
どれか一つの制度ですべてを解決しようとするのではなく、目的ごとに制度を組み合わせていく――この発想が大切になります。
2026年時点の成年後見制度見直しにも注意する
成年後見制度については、現在、制度を見直す動きが進んでいます。
令和8年4月3日には「民法等の一部を改正する法律案」が国会に提出されており、この法案には、成年後見および遺言の制度を見直す内容が含まれています。本記事の執筆時点では、可決・成立の日や公布日、施行日はまだ定まっておらず、実際に対策を講じる際には、最新の状況を確認しておく必要があります。
このように制度の改正が見込まれている領域では、現行の制度を前提に進めるのか、それとも改正後の制度を待つのか、という判断も求められることになります。
ただし、事業承継税制の期限も、先代の健康状態も、会社としての経営判断も、こちらの都合を待ってはくれません。法改正の動向に目を配りつつ、現行の制度のもとで今できる対策を整理しておくことが大切です。
よくある誤解
「認知症になったら成年後見人が事業承継を進めてくれる」
成年後見人等は、あくまで本人を保護するために財産管理を行う立場にあります。会社や後継者にとって有利な承継を進めてくれる代理人ではありません。
「家族信託を作れば事業承継税制も問題なく使える」
信託は、自社株の法的な所有、受益権、議決権、税務上の帰属といった関係を、かえって複雑にします。事業承継税制の対象株式、取得者、議決権、継続保有、担保提供への影響を、事前に確認しておく必要があります。
「遺言があれば認知症対策は不要」
遺言は、あくまで死亡後の承継先を決めるものです。認知症になってから亡くなるまでの間の議決権行使、会社の財務、事業用不動産の管理については、別に検討しておく必要があります。
「委任状があれば議決権行使は安心」
委任状を作成した時点で先代に意思能力がなければ、その有効性を争われる可能性が残ります。継続的な議決権の管理を想定するのであれば、より安定した設計が求められます。
「株価が高いから先に制度だけ申請すればよい」
事業承継税制は、手続と要件によって成り立つ制度です。株式の移転、後継者の体制、家族の合意、議決権の管理、承継後の管理が整っていなければ、税制だけを先行させても、実務上の安定にはつながりません。
相談前に整理すべき資料
認知症、家族信託、成年後見までを視野に入れて自社株の承継を検討する場合、次のような資料をあらかじめ準備しておくと、初回のご相談の精度が大きく高まります。
- 先代経営者の年齢・健康状態・診断状況
- 株主名簿
- 定款
- 登記事項証明書
- 直近3期分の決算書・申告書
- 自社株評価資料
- 後継者候補と役員構成
- 親族関係図
- 相続人の意向
- 既存の遺言書
- 既存の任意後見契約・委任契約
- 過去の贈与契約書
- 株式譲渡契約書
- 会社借入・担保・個人保証の一覧
- 事業用不動産の登記簿・賃貸借契約書
- 生命保険契約一覧
- 退職金規程
- 特例承継計画の有無
- 金融機関との協議状況
- 将来の売却・廃業・組織再編の可能性
とりわけ重要になるのは、先代がまだ自ら意思を表示できる段階にあるのか、それともすでに判断能力に疑いが生じている段階なのかを、見極めることです。この切り分け次第で、選べる手段は大きく変わってきます。
重要事項の振り返り
| 論点 | 実務上の確認ポイント |
|---|---|
| 認知症リスク | 介護・預金管理だけでなく、自社株贈与、遺言、議決権行使、信託契約に影響する |
| 事業承継税制 | 納税猶予制度であり、先代の意思能力低下を救済する制度ではない |
| 生前贈与 | 贈与時点の意思能力が重要。判断能力低下後の贈与は無効リスクがある |
| 遺言 | 死亡後の承継先を決める制度。生前の議決権管理は別途検討が必要 |
| 任意後見 | 判断能力があるうちに公正証書で契約し、任意後見監督人選任後に効力が生じる |
| 法定後見 | 本人保護の制度であり、相続税対策や後継者への株式集中を自由に行う制度ではない |
| 家族信託 | 生前の財産管理・議決権管理に有効な場合があるが、税務・事業承継税制との整合性が重要 |
| 自社株の信託 | 譲渡制限、株主名簿、議決権行使、受益権、相続税・贈与税、納税猶予要件を確認する |
| 後継者体制 | 代表者交代、取締役選任、株主総会運営、金融機関説明を含めて設計する |
| 家族合意 | 後継者以外の相続人への説明、遺留分、代償財産、保険、退職金を整理する |
| 改正動向 | 2026年時点で成年後見制度等の見直し法案が提出されており、実行時の最新確認が必要 |
| 記録化 | 医師診断、面談記録、説明資料、議事録、契約書、公正証書、提出控えを残す |
認知症対策は、承継の「最後の保険」ではなく、最初に決めるべき前提である
自社株の承継では、株価、税額、納税猶予、遺留分、少数株主対策を検討するよりも前に、先代が有効に意思決定できる時間がどれだけ残されているのかを、まず確認しておく必要があります。
先代が判断能力を失った後では、贈与、遺言、家族信託、議決権管理といった選択肢は、いずれも大きく狭まってしまいます。成年後見制度は本人を守るための制度であって、会社の承継計画を後から実現するための制度ではないからです。
家族信託、任意後見、遺言、事業承継税制は、それぞれ目的を異にしています。どれか一つを選ぶのではなく、会社の株主構成、後継者の体制、先代の健康状態、相続人の関係、納税資金、そして将来の経営方針をふまえて、それぞれの役割分担を設計していくことが大切です。
犬飼公認会計士・税理士事務所では、自社株評価、事業承継税制、特例承継計画、相続税の試算から、家族信託・遺言・成年後見との接続、議決権の管理、後継者以外の相続人への説明資料の整理に至るまで、税務・財務・相続法務を横断しながら、承継の判断をご支援しています。
先代の判断能力低下に備えながら、自社株をいつ・誰に・どの方法で移すべきか、事業承継税制を使うべきか、家族信託や任意後見を併用すべきか――こうした点を整理したいとお考えの際は、現在の株主構成、財産の内容、後継者候補、先代の健康状態を確認したうえで、お問い合わせページよりご相談ください。